円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年3月2日(959年4月12日) - 正暦2年2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年9月23日(969年11月5日) - 永観2年8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。村上天皇の第五皇子、中宮安子所生の3番目の皇子として誕生する。冷泉天皇・為平親王の2人の同母兄のほか、4人の同母姉妹がおり、特にすぐ上の同母姉資子内親王と仲がよく、即位後に資子内親王を一品准三后とした。応和4年(964年)、幼くして母・安子を亡くす。兄である冷泉天皇即位後、3ヶ月余りにわたる皇太子の空位の後、康保4年(967年)9月1日、9歳にして、同母兄の為平親王を飛び越えて立太子。これは為平親王が源高明の娘を妃にしていたため、これを警戒した藤原氏の意を受けたものと考えられている。安和2年(969年)安和の変で源高明が失脚すると、その5ヶ月後冷泉天皇の譲位を受けて即位する。即位時はまだ11歳であったため、大伯父にあたる太政大臣藤原実頼が摂政に就任。天禄元年(970年)に実頼が薨去すると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぐ。同3年(972年)、伊尹が在職一年あまりで亡くなると、その弟の兼通・兼家の間で、摂関職を巡って熾烈なる争いが行われる。天皇は亡母の遺訓に従って兼通を関白に任じた。翌4年(973年)、兼通の娘・媓子を入内させ、中宮とする。貞元2年(977年)に関白兼通が重病に陥ると、兼通の要望に従って外戚関係のない藤原頼忠を後任とした。これは兼通の権勢に従ったものとされるが、兼家が当時天皇の兄である冷泉上皇には長女・超子を入内させていたにも関わらず、天皇である自分の許には娘を入内させていなかったために、天皇自身も兼家に含むところがあり、娘・遵子を入内させていた頼忠の方に好意を抱いていたとする見方もある。その後兼家も天元元年(978年)に次女・詮子を入内させ、同3年(980年)6月に女御となった詮子は天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(後の一条天皇)を儲けた。にもかかわらず、前年天元2年(979年)に崩御した中宮媓子の後任として、同5年(982年)に遵子を中宮に冊立した。遵子は立后以前も以後も皇子女を産むことはなく、「素腹の后」とあだ名された。一連のことは兼家の恨みを買い、彼は娘詮子・外孫懐仁親王ともども、里第に籠って出仕しなかった。これに対して天皇も2度の内裏の焼失の際に故兼通邸の堀河殿(退位後も御所として使用)や関白頼忠邸を仮の御所として兼家への依存を拒むなど、両者の緊張関係が続く事になる。このように藤原氏の勢力争いに翻弄され、永観2年(984年)懐仁親王の立太子を条件に花山天皇に譲位。その後は比較的自由な上皇の身で、詩歌管絃の遊楽や石清水八幡宮・石山寺・南都諸寺への御幸を行った。寛和元年(985年)2月13日、紫野において盛大な「子の日の御遊」を催し、平兼盛・大中臣能宣・清原元輔・源重之・紀時文らを含む当代の著名歌人に和歌を奉らせた。この時、曾禰好忠が召されもしないのにみすぼらしい狩衣姿で推参し、ついに追い出された話は有名(『今昔物語集』巻28)。一条朝では幼帝を指導して強い発言権を持ち、院政の意図があったともいわれる。摂政兼家と意見が対立することもあったことが、院別当として信頼厚かった藤原実資の『小右記』によって分かる。和歌を愛好し、『拾遺集』以下の勅撰集に24首入集。ほかに『円融院御集』も伝わる。退位後は後院の名に因み、朱雀院上皇と称される(「朱雀院」の称は『日本紀略』『小右記』『大斎院前の御集』などに散見)。寛和元年(985)8月、寛朝大僧正の授戒により出家し、以後勅願寺である円融寺に住む。よって死後「円融院」と追号。陵(みささぎ)は、京都府京都市右京区宇多野福王子町にある後村上陵(のちのむらかみのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。円融寺の北原にて火葬、父村上天皇陵の傍らに遺骨が納められた。現龍安寺裏の朱山に火葬塚がある。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
出典:wikipedia
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