孝昭天皇(こうしょうてんのう、懿徳天皇5年 - 孝昭天皇83年8月5日)は、日本の第5代天皇(在位:孝昭天皇元年1月9日 - 孝昭天皇83年8月5日)。和風諡号は、『日本書紀』では「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)」、『古事記』では「御真津日子訶恵志泥命」。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。漢風諡号である「孝昭」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。和風諡号である「みまつひこ-かえしね」のうち、「みまつひこ」は後世に付加された美称、末尾の「ね」は神名の末尾に付く「ね」と同義と見て、孝昭天皇の原像は「かえしね(香殖稲/訶恵志泥)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある。父は第4代懿徳天皇。母の記載は記紀で異なり、『日本書紀』では息石耳命の娘の天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)、『古事記』では師木県主の祖の賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめ)とする。兄弟として、同母弟に武石彦奇友背命(多芸志比古命)がいる。妻子は次の通り。『日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。『日本書紀』によると、懿徳天皇22年2月12日に立太子。懿徳天皇34年9月8日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝昭天皇元年)1月9日に即位。そして孝昭天皇元年7月に宮を掖上池心宮に遷した。その後、孝昭天皇83年8月5日に在位83年にして崩御した。時に『日本書紀』では113歳、『古事記』では93歳という。孝安天皇38年8月14日、遺骸は「掖上博多山上陵」に葬られた。宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや)、『古事記』では葛城掖上宮。宮の伝説地は、現在の奈良県御所市池之内周辺と伝承される。同地には「掖上池心宮阯」碑が建てられている()。この説は、『日本書紀』推古天皇21年(613年)11月条に造られた「掖上池」の所在地を付近に想定したことによる。実際に掖上池が「掖上池心宮」の宮名の由来であったとすれば、宮の語り出しが推古朝の造池以後になると指摘される。孝昭天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県御所市大字三室にある掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ、)に治定されている。公式形式は山形。俗称「博多山」。陵について『日本書紀』では前述のように「掖上博多山上陵」、『古事記』では「掖上博多山上」の所在とある。一方『先代旧事本紀』では崩御の翌年に葬ったと見え、崩御38年後に葬ったとする『日本書紀』の記録と相違することから、後者を改葬と見る説もある。『延喜式』諸陵寮では「掖上博多山上陵」の名称で大和国葛上郡にあるとし、兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された。陵近くには孝昭天皇の霊を祀る孝昭天皇神社(孝昭宮)があるが、これは古く丘上にあったものを幕末の修補の際に現在の東側隣接地に移したものになる。また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに孝昭天皇の霊が祀られている。孝昭天皇の在位年について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。孝昭天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある(詳細は「欠史八代」を参照)。
出典:wikipedia
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