孝安天皇(こうあんてんのう、孝昭天皇49年 - 孝安天皇102年1月9日)は、日本の第6代天皇(在位:孝安天皇元年1月7日 - 孝安天皇102年1月9日)。和風諡号は、『日本書紀』では「日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)」、『古事記』では「大倭帯日子国押人命」。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。漢風諡号である「孝安」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。和風諡号である「やまとたらしひこ-くにおしひと」のうち、「やまとたらしひこ」は後世に付加された美称、「くにおしひと」の「ひと」は天熊人等と同様に神名の末尾に付く名称と見て、孝安天皇の原像は「くにおしひと(国押人)」という名の古い国造りの神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある。これとは別に、後世の諡号である「たらしひこ」と「くにおしひと」の合成に過ぎないとする説もある。父は第5代孝昭天皇、母は皇后で尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹の世襲足媛尊。第二子であり、兄弟として同母兄に和珥臣祖の天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命)がいる。妻子は次の通り。『日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。『日本書紀』によると、孝昭天皇68年1月14日に立太子。孝昭天皇83年8月5日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝安天皇元年)1月7日に即位。そして孝安天皇2年10月に宮を室秋津島宮に遷した。その後、孝安天皇102年1月9日に在位102年にして崩御した(歴代天皇中最長)。時に『日本書紀』では137歳、『古事記』では123歳という。孝安天皇102年9月13日、遺骸は「玉手丘上陵」に葬られた。宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)、『古事記』では葛城室之秋津島宮。宮の伝説地は、『和名類聚抄』の大和国葛上郡牟婁郷と見られ、現在の奈良県御所市室周辺と伝承される。同地では八幡神社境内に「室秋津島宮阯」碑が建てられている()。『日本書紀』『古事記』では日本の本州の異称として「秋津島(秋津州)」が使用されるが、元々は上記の宮が営まれた奈良盆地西南部の葛城地方を指した地名であったとする説がある。孝安天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県御所市大字玉手にある玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ、)に治定されている。公式形式は円丘。玉手丘陵上に所在する。陵について『日本書紀』では前述のように「玉手丘上陵」、『古事記』では「玉手崗上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「玉手丘上陵」として兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている。しかし、中世に陵の所在が失われ、元禄年間以来検討されて室村のとある古墳が擬せられたが、『歴帝陵』の一本および『大和志』が現在の地を推して以来、定説となった。幕末の修陵の時におおいに修治が加えられ、その竣工に際して、慶応元年3月12日に広橋右衛門督が遣わされに修陵奉告が行なわれた。また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに孝安天皇の霊が祀られている。孝安天皇の在位年について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。孝安天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある(詳細は「欠史八代」を参照)。
出典:wikipedia
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