日本キリスト教史(にほんキリストきょうし)では、日本におけるキリスト教の歴史とその展開について述べる。日本の宗教全般については日本の宗教を、世界のキリスト教の歴史については、キリスト教の歴史を参照のこと。日本にいつキリスト教が到来したか?ということに関しては、ネストリウス派キリスト教(中国で景教と呼ばれたもの)が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説・研究がある。ただし、歴史的証拠や文書による記録が少なく、はっきりしない点も多い。歴史的・学問的に見て証拠が多く、日本史教科書などで、キリスト教の日本への最初の伝来とされているのは、カトリック教会の修道会であるイエズス会のフランシスコ・ザビエルによる布教である。戦国時代のさなか、1549年のことであり、当初は、ザビエルたちイエズス会の宣教師のみでキリスト教布教が開始された。宣教師たちは、日本人と衝突を起こしながらも布教を続け、時の権力者織田信長の庇護を受けることにも成功し、順調に信者を増やした。しかし豊臣秀吉の安土桃山時代には、勢力を拡大したキリスト教徒が、神道や仏教を迫害する事例が増え、これを憂慮した秀吉は、バテレン追放令を発布し、宣教を禁止したという。しかし、この時は南蛮貿易の利益が優先され、また下手に弾圧すると、九州征伐で平定したばかりの九州での反乱が考えられたため(当時の日本では、特に宣教開始の地である九州地方でキリシタン大名や信者(キリシタン)が多かった)、本格的な追放は行われず、宣教活動は半ば黙認されていた。だが、サン=フェリペ号事件が起きたころ、秀吉はキリスト教の本格的な弾圧を開始した。やがて時代が移り、関ヶ原の戦いで勝利を収めて豊臣に代わって、天下統一を成し遂げた徳川家康の江戸時代には、一時的に布教は認められた。しかし、その後は江戸幕府がキリスト教を禁教として鎖国政策を採ったため、宣教師はもちろん、普通の外国人も許可無しでは日本に入国できなくなった。その間、江戸時代の末まで、日本では一部の信者たちが密かにキリスト教の信仰を伝えていくこととなった。この信者たちのことは隠れキリシタンと呼ばれている。やがて明治維新が起き、江戸時代は終わった。欧米列強と不平等条約を結ばされ、諸外国と対等になろうと必死であった明治政府は、政治・法律・経済・軍事など、あらゆる分野の改革を断行した。その中には、キリスト教の布教許可も含まれており、完全ではなかったものの信教の自由が法的にも保障された。以後、キリスト教は再度日本での布教を開始していった。戦国時代ではカトリックが主であったが、明治以降はプロテスタントや正教会など、各派が布教を行った。この時、クリスマスなどのいくつかの行事が日本に持ち込まれ、日本の文化の一つとして定着していった。第二次世界大戦が始まると、キリスト教も他の宗教と同じく、大本営から戦争協力を命じられ、それを断った宗教団体は、特別高等警察から徹底的に弾圧されることとなった。第二次世界大戦が終わると、日本ではほぼ完全な形での信教の自由が日本国憲法で(第20条)保障され、不自由のないキリスト教の布教が開始された。現在、キリスト教の文化は日本の文化に様々な影響を与えている。しかし、日本は公的機関が宗教の割合を詳しく調査していないので不明な点もあるが、キリスト教の信者そのものは、カトリック・プロテスタント・正教会の全てを合わせても、日本人全体の1%前後程度と言われている。文化庁の宗教年鑑では、信者数で1%となっている。また、CIAの調査によると、日本のキリスト教徒の割合は2%ほどと推定されている。東京基督教大学の日本宣教リサーチによれば、2014年の日本のキリスト教人口は約104万人で、日本の全人口のうち、0.82%となっている。各国の宗教団体には普遍的に見られることだが、日本のキリスト教団体も、教義や伝道方法への考え方の相違、行動方針や政治的主張を巡っての対立があり、多くの諸団体に分かれている。それぞれの団体は、協力、もしくは対立関係にある。16世紀、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国)でマルティン・ルターが起こした宗教改革が各国に波及しており、カトリックのお膝元のイタリアでさえ教皇の権威に陰りが見えていた。カトリック教会は、権威を取り戻すために遠くアジアでの布教活動も視野に入れ始めていた。信者数が増えればプロテスタント勢力への牽制にもなる。また、金銭的な問題からも、アジア布教は急務と教会上層部は考えていた。当時は贖宥状(免償符)への風当たりが強くなったため、売り上げが急減しており、カトリックの財政事情に影響を及ぼしていた。アジアの有力者を信者にすれば、カトリック教会への莫大な献金が期待できた。なお、贖宥状の金銭での売買は、トリエント公会議の決議によって1563年に禁止されている。このようなヨーロッパの宗教事情が、日本にイエズス会やフランシスコ会の宣教師がやってくる下地となっていった。宣教師は、アジアへ活発に派遣されていった。まず、植民地化が進んでいたインドや東南アジアに大量に送り込まれた。宣教師たちはさらに東にも目を向け、やがて極東にまで進出してくるようになった。イエズス会(カトリック教会の修道会)の創設メンバーの一人で、西インドで宣教活動に従事していたバスク人司祭フランシスコ・ザビエルがマラッカで知り合った「ヤジロウ」(アンジロウとも)という日本人によって日本のことを知り興味を抱いたことが、日本における宣教活動のきっかけとなった。1549年に始まるザビエルによる宣教活動が日本へのキリスト教の最初の伝来とされ、これは教科書等に記述されて一般にも広く知られている。ザビエルは、ヤジロウやコスメ・デ・トーレス、ジョアン・フェルナンデスらとともに8月15日に鹿児島に上陸し、2年3か月にわたって宣教活動を行った。ザビエルは「日本国王」(天皇)の宣教許可を得ようと鹿児島から平戸、山口をへて京にたどりついたが、当時の京都は戦乱で寂れきっていた。天皇の権威も失墜しており、将軍も不在であったため、ザビエルは目的を果たせなかった。その後、言語や文化の違いなど多大な困難を乗り越えながら徐々に日本人協力者を得ることが出来、七百名ほどに洗礼を授けた。各地を旅する中で、ザビエルは日本文化に中国が大きな影響を与えていると見抜き、中国宣教を志して広東の上川島に上陸したが、中国本土を目前にして病没した。日本人を「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼。それに応えて優秀な人材が積極的に日本に送られた。ザビエル以降、ガスパル・ヴィレラ、ルイス・デ・アルメイダ(豊後府内に日本最初の病院を開設)、ルイス・フロイス(織田信長や豊臣秀吉と会見し、『日本史』を記す)、ガスパール・コエリョなどのイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたった。また、ザビエルは日本の首都に神学部、法学部、ならびに医学部を兼ね備えたカトリック系の総合大学を建学するという夢を抱いていたが、彼の夢は1913年にイエズス会士によって上智大学が東京に建学したことによってかなえられた(ただし、上智大学において医学部は設置されていない)。日本では、他の植民地化されたアジア地域と違ってヨーロッパの影響が及ばず、本国の軍事的・経済的な支援が無かった。そのため、宣教師たちはまずその土地の大名などの有力武将と会見し、南蛮貿易の利益などを訴えながら布教の許可を得ると共に、安全の確保を図った。これ以前、1543年にはポルトガルの船が種子島に難破しており、火縄銃などが伝来していた。大名は、独自に南蛮人との交易の道を模索している真っ最中であり、ザビエルたちは来日当初、大名たちから基本的に歓迎された。この過程の中でキリスト教に触れた大名たちの中にも、洗礼を受けるものがあらわれた。彼らがキリスト教を信仰した理由は、キリスト教の理念に真剣に惹かれた者の他、単に南蛮との貿易をより円滑かつ大規模に行いたいため、または南蛮の文化や科学技術を習得する目的から信仰するようになった者もいた。彼らはキリシタン大名と呼ばれており、特に有名なものとして大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、結城忠正、高山友照および高山右近親子、小西行長、蒲生氏郷などがいる。なお布教当初は、言葉の問題や、ヤジロウが聖書のデウス(神)を「大日」と訳したこと、ザビエルらが仏教発祥の地であるインドから来たこと、日本人の間で外来の宗教と言えば仏教という考えが強かったことなど、複数の要因からキリスト教は「天竺教」「南蛮宗」などと呼ばれ、仏教の一派と誤解されることも多かった。布教当初、知らずに仏教用語を使っていたことがキリスト教の正確な理解を妨げていると認識したザビエルらは、すぐに仏教用語をできるだけ廃した「原語主義」を採用していくこととなる。イエズス会の宣教方針に則り、日本における宣教方針は、日本の伝統文化と生活様式を尊重すること、日本人司祭や司教を養成して日本の教会を司牧させることにおかれた。これは同時代のヨーロッパ人の、非ヨーロッパ文化に対する態度としては他に例をみないものであり、イエズス会の先進性と日本人の資質の高さがあいまって生み出されたものだった。「適応主義」と呼ばれたこの指針によって日本での宣教は順調に進んだ。例外的に日本人には司祭になる能力も適性もないと考えて軽視したフランシスコ・カブラルが布教長であった時代、ポルトガル人と日本人たちの間で溝が深まって宣教活動が停滞した。イエズス会本部からの巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは各地をまわって実情を視察した上で、カブラルを解任してその方針を否定、従来行われていた適応主義の復活を命じた。ヴァリニャーノは日本人司祭の養成を急務とし、各地にセミナリオ(小神学校)とノビシャド(修練院)、コレジオ(大神学校)を設置した。これらの学校では当時の学術語であったラテン語、日本語および哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育と日本の古典を必修科目として学習させていた。これは人文主義的素養を重視したイエズス会の教育方針によるもので、イエズス会による教育は日本の明治以降の学校教育の先取りともいえるものであった。さらにヴァリニャーノは将来の日本を担う少年たちに直接ヨーロッパを見せ、同時にヨーロッパに日本の存在をアピールしようと天正遣欧使節(1582年 - 1590年)を企画。イエズス会員に伴われた四人の少年たち(伊東マンショ、原マルティノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン)はヨーロッパ各地で熱狂的な歓迎を受け、使節の企画は大成功を収めた。織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。信長の後を継いだ豊臣秀吉も基本的に信長の政策を継承し、宣教師に対して寛大であった。しかし、秀吉の天下統一目前の1587年、九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社や寺が焼かれ、仏教徒が迫害を受けていることを知り、また、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていたことも理由として九州征伐完了直後、博多にて当時の布教責任者であるガスパール・コエリョを召喚し、バテレン追放令を発布して宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明した(この時、秀吉がバテレン追放令を発布した理由については、さまざまな説がある。"詳細はバテレン追放令の項を参照")。これに対してコエリョは、有馬晴信などキリシタン大名に秀吉と敵対するよう要請、さらに武器・弾薬の支援を約束した。しかし有馬晴信は、既に天下人の座をほぼ手中に収めていた秀吉と敵対する気はなく、この要請は実現されなかった。以後、イエズス会は秀吉を刺激するのを恐れ、公の宣教活動をしばらく控えるようになる。一方、秀吉は追放令を発布こそしたが、以後も実質上キリシタンは黙認したため迫害などはほぼ行われなかった。なぜなら秀吉はポルトガルを通じての南蛮貿易に積極的であったため、追放令の徹底を図らなかったと考えられている。そのため、宣教師たちは立場こそ不安定だったものの、この時点ではまだかなり自由な宣教活動を続けていた。しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化する。彼らは日本宣教において、当時のイエズス会の(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくという)やり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みた。けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激した(たとえば日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化したことで、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していく。そして1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、1597年、当時スペインの庇護によって京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された(日本二十六聖人の殉教)。秀吉没後、実権を掌握した徳川家康は当初キリスト教宣教を黙認していた。たとえば1598年にはスペイン人宣教師ヘロニモ・デ・ヘスース (Castro Jeronimo de Jesus) にスペイン船来航の斡旋を依頼し、江戸における教会の建設と布教許可を与えており、東京駅八重洲北口遺跡からはこの頃のキリシタン墓が、帰依したと思われるアジア人の人骨とともに見つかっている。家康はキリスト教そのものには一貫して無関心であった。これは、三河一向一揆で宗教に苦しめられた記憶があったからとの説がある。家康は将軍職を徳川秀忠に譲り、大御所として駿府に引退した後の1607年にもイエズス会員フランシスコ・パジオ (Francisco Pasio) を引見し、外国人宣教師の滞在と布教の許可を与えている。しかし一方で家康は海外との貿易の実利を求めていた。1600年にオランダ船リーフデ号が漂着し、イングランド人航海士ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンが家康に仕え始めると、家康は、彼らから最新の欧州事情の情報を得た。かつての強国スペイン・ポルトガルに対して、新興のイングランドやオランダがアルマダの海戦や八十年戦争(オランダ独立戦争)などで勝利して追い上げている当時のヨーロッパ情勢を理解し、両陣営を競わせながら貿易の実利を得ることを狙っていたのである(ウィリアム・アダムスは、実際にアルマダの海戦に参戦していた)。また、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって宣教師やキリスト教を排除する理由はない代わりに積極的に保護する理由もなかった。事実、オランダは東南アジアの植民地において、(経済的な搾取や文化の弾圧は行っていたものの)現地の宗教や政治形態に対してはあまり干渉しない方針を基本としていた。しかし1612年に岡本大八事件(有馬晴信がからんだ疑獄事件)が起こると、関係者がどちらもキリシタンであったことから、家康はそれまでの態度を一転して諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、原主水などキリシタンであった旗本が改易された。翌年になると側近以心崇伝の手による「排吉支丹文」によってキリスト教信仰の禁止が明文化され、全国で迫害が行われるようになった。1619年に京都で52名が殉教し、1622年に長崎で55名が殉教(元和の大殉教)、1623年江戸でも55名が殉教した。以後、禁教令の解除まで約250年の間、キリスト教徒は幕府と幕府の庇護する仏教徒、神道信者などにより迫害されることになる。ただ、禁令の徹底は地方によって異なり、例えば松前藩などは、幕府に対して「領内にはキリシタンはなし」と報告していたものの、実際には取り締まりは緩く、多くのキリシタンが本州から逃れてきていた。松前藩のこの姿勢は、1637年に島原の乱が起きてキリスト教禁止の命令が徹底されるまで続いた。1637年に肥前島原と肥後天草で百姓身分の者たち(農民やかつてキリシタン大名の家臣であった元武士たちなどから構成された)3万人が蜂起した事件は、幕府に衝撃を与えた。これが島原の乱である。蜂起の直接的原因は島原藩と唐津藩(天草を所領)による残酷な収税制度にあったが、同地にはキリシタン大名であった有馬晴信、小西行長の統治時代に入信したキリシタンが多く、一揆の盟約結成の求心力としてキリスト教信仰を基盤においた内部統制も行われたこと、そのことが一向宗、法華宗などのような求心性の強い宗教勢力が排他的な一揆的結合の核となって強大な政治勢力を築いた事態の再来する危機を感じさせたこと、さらには幕藩体制のゆがみが明るみに出ることを幕府が恐れたことから「キリシタンによる反乱」と単純化されて規定され、原城陥落後に1名の内通者を除く参加者全員が殺害された。なお、当時の島原藩主松倉勝家は、農民の生活が成り立たないほどの収奪を行ったかどで斬首され、同様に唐津藩主寺沢堅高は天草の領地を没収されて、その後自害している(江戸期を通じて、一藩の藩主が切腹でなく斬首となったのはこの松倉勝家の1例のみである)。この事件を重く見た幕府は、禁教を徹底させる観点から、カトリック国であるポルトガルとの断交を望むようになり、1638年にはカピタン・モールの将軍への謁見を拒否している。また、キリシタンをあぶりだすために絵踏や、キリシタンを密告した者に報奨金を与えようとした。だが幕府は、ポルトガルがマカオからもたらす中国産の生糸などに日本市場が大きく依存していたことから、ポルトガルとの貿易の途絶をためらった。しかし、1639年に、オランダ商館長のフランソワ・カロンが江戸に参府した際に、幕府はオランダの植民地である台湾経由でも中国産の生糸などを確保できることをカロンから確認できたことで、ポルトガルとの断交に踏み切ることになった。そして、長崎奉行や西国大名に、ポルトガル船の来航の禁止と、九州沿岸の防備体制の確立を求めた通達(「第五次鎖国令」)を発布し、ポルトガルを長崎の出島から追放した。1641年には、商館にあった西暦に関するものを理由として、オランダの商館も平戸から長崎の出島に移転され、商船の入港が統制・制限されるようになった。各地で宗門改制度が整備されると、キリスト教の禁止は幕藩体制の根幹に組み込まれていく。壊滅したかに見えたキリスト教徒たちであったが、九州の一部などでは信徒たちが宣教師たちの教えを口伝えに伝え、水方や帳方といった信徒組織を形成することで、親から子へ、子から孫へと密かに信仰を伝えていった。これが隠れキリシタン(潜伏キリシタン)である。彼らは仏教徒を装いながらも信仰をひたすら守り、キリスト教を自由に信仰できる日が来るのを待ち続けた。ヨーロッパのカトリック教会は、キリスト教徒が完全追放された日本に興味を持ち続けた。日本における教会の発展と受難の物語はヨーロッパで語り継がれ、多くの人々がこの東洋の国への再宣教の日が来ることを待ち続けた。鎖国令以降、江戸期の日本に渡航した数少ない宣教師の一人に、イタリア人教区司祭ジョバンニ・シドッチがいる。シドッチは鎖国下の日本への渡航を願い、教皇庁に許しを求めていた。教皇庁は殉教することが明白な地に司祭を送ることはできないと拒絶したが、シドッチの再三の願い出に教皇クレメンス11世は特別な許可を与えた。1708年、シドッチは苦労の末に屋久島へ上陸したが、すぐに捕らえられ、長崎を経て江戸に送られ、死ぬまで切支丹屋敷にいた。江戸では儒学者新井白石が取り調べにあたったが、シドッチの人格の高潔さと学識に感銘を受け、尋問というよりは対話という形で多くの新知識を学び取った。その成果が『西洋紀聞』『采覧異言』である。江戸時代、北海道(当時の蝦夷地)には大和民族、すなわち和人の他にアイヌが住んでおり、アイヌたちは神道にも似た、数多くのカムイを崇拝する独自の宗教観を有していた。すでに蝦夷地において、和人の影響力は強くなっていたが、和人はまだ全土に領有権を確立しているわけではない状態であった。また、江戸時代の初期、蝦夷地の一部を治めていた松前藩は、アイヌが「日本風俗に化し染まぬ様」にすることを掟としており、アイヌが日本語を使用したり、和人風の服装をしたりした場合は罰則があったため、アイヌは独自の宗教観を保っていた。このように、まだ日本の支配が及ばない場所もあった当時の蝦夷地では、キリスト教禁令後にもキリスト教の神父がやってきて、アイヌへの布教の可能性を探っている記録がある。また、蝦夷地には時にロシア人が上陸することがあった。彼らの主な目的は、鎖国中の日本に対して交易を持ちかけることであったが、一方でアイヌとも交易を行ったり、正教を布教したりしていた。色丹島などのロシア文化圏に近い場所に住んでいたアイヌの集落には、教会が建てられ、キリスト教を信仰していたとする記録が残っている。樺太のアイヌなどにもロシア正教会が布教を行った記録がある。ただし、樺太では改宗者はほとんどおらず、少数の改宗者のみ報告されている。また、キリスト教への改宗者は他のアイヌから「ヌツァ・アイヌ(ロシアアイヌ)」と嘲笑された。やがて1779年に、蝦夷地の厚岸にもロシア人イワン・アンチーピンが上陸するできごとがあった。幕府は、すでに千島列島や択捉島に住むアイヌにキリスト教が布教されている情報を得ていたため、国泰寺を建立するなどして、現地にキリスト教が広まらないようにした。アメリカ合衆国からの要求をきっかけに日本は西洋諸国に門戸を開くようになった。1858年には日米修好通商条約や日仏修好通商条約などが結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日した。1846年4月30日にバーナード・ジャン・ベッテルハイム医療宣教師が琉球王国に到着し、8年間迫害の中で宣教活動を行い、琉球語に聖書を翻訳した。カトリック教会のローマ教皇庁は、鎖国期を通じて日本への再宣教の方策を模索していたが、19世紀半ばには日本に開国の兆しありと見て、フランスに本部を置くパリ外国宣教会 (Mission Étrangère de Paris; M.E.P.) に日本への宣教師派遣を依頼した。こうして1844年にテオドール・フォルカード (Théodore-Augustin Forcade) 神父(司祭)が那覇に派遣され、2年滞在して日本への渡航許可を再三求めたが、果たせず1846年に帰国した。しかし、同年にフォルカードを初代教区長として日本使徒座代理区が設立され、その後1855年からユジェンヌ・エマニュエル・メルメ・カション (Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon)、プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール (Prudence Séraphin-Barthélemy Girard)、ルイ・テオドル・フューレ (Louis-Théodore Furet) の3人の司祭が那覇に赴任して日本語を学んでいたが、1858年に日仏修好通商条約が結ばれたことで、日本入国が可能になった。メルメ・カションは函館に赴き、ジラールは江戸を経て横浜に拠点を構えた。ジラールは1862年、横浜に開国以来最初のカトリック教会となる聖心教会(その後移転し、現在の山手教会)を建てた。このころ、ヨーロッパのカトリック教会の強い関心が日本に寄せられていた証左として、1862年に「日本二十六聖人」の列聖が行われたことがあげられる。1864年になってフューレは長崎に土地を購入、後から加わったベルナール・プティジャン (Bernard-Thadée Petitjean) 神父(後に司教)と共に1865年に教会堂を建てた。これが大浦天主堂である。一か月後、教会を訪れた婦人たちが自分たちは禁教下で信仰を守り続けた潜伏信徒(隠れキリシタン)であることを告白、神父は驚愕した。これを「長崎の信徒発見」という。信仰を表明した信徒の多くはカトリック教会に復帰して司祭の指導を受けるようになった。しかし、彼らは同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治新政府も慶応4年3月15日(1868年4月7日)に五榜の掲示という高札を掲示してキリスト教禁教を継続したため、信徒への拷問や流刑などが行われた。明治政府が刑事罰を与えたキリスト教徒はカトリックに留まらず、他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。だが、明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こした。岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であるとされ、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令は解かれた。1846年から、日本での宣教を委託されていたパリ外国宣教会は、復興当初から宣教のみならず教育事業と社会福祉事業に力を注いでいた。なお、1884年には、信者数は30,230名、司祭数54名、伝道士252名、教会数は84であった。1872年にはプティジャン司教の招きによってフランスからサン・モール会(現・幼きイエス会)が招かれている。最初の5人の修道女たちは横浜に修道院と孤児院を建てた。1888年には彼らの手で築地教会の近くに高等仏和女学校が開かれた。これが後の雙葉学園の前身である。プティジャン司教は同じくフランスの女子修道会であるショファイユの幼きイエズス修道会にも修道女の派遣を依頼、これに応えて1877年に来日した4名は神戸で孤児院と学校(後の大阪信愛女学院)を開いた。1878年にはシャルトル聖パウロ修道女会が来日、函館に仏蘭西女学校を開設し、1882年には神田教会の敷地内に孤児院や小学校を建てた。同学校は白百合学園へと発展していく。1887年には、パリ外国宣教会の招致に応えて5人のマリア会員が来日し、翌年東京都に暁星学園が創立された。さらにマリア会によって1891年には長崎市に海星学園が、1898年には大阪市に大阪明星学園が、1901年には横浜市にセント・ジョセフ学院が創立された。なお、キリシタン時代の日本において活躍したイエズス会は、「日本にカトリック高等教育機関を」という教皇庁の求めによって明治期の終わりになって来日し、1913年に上智大学を開いている。この時期、パリ外国宣教会の司祭たちは、政府によって活動を制限されていたため、日本人信者の協力の得て慈善事業・社会福祉事業に力を注ぎ、主に下層階級への宣教活動を行った。1877年には築地教会の信徒であった本多善右衛門によって浅草にフランス語学校「玫瑰(まいかい)学校」(後の浅草教会)が設立された。この学校は児童福祉施設としても機能していた。1888年、パリ外国宣教会の司祭ジャン・ピエール・レイは、玫瑰学校に収容されていた孤児たちが青年へと成長し、職業訓練等が必要になり、もっと大きな施設が必要と考え、高木甚三郎の協力を得て関口に移転し「聖母仏語学校」(後のカトリック関口教会)を設立した。これらを代表とする学校は、表向きは「フランス語学校」であるが、実態は児童福祉施設であり、また政府によって活動を制限されていた外国人宣教師たちの宗教活動を補助するための機関でもあった。1873年に来日した司祭のジェルマン・レジェ・テストウィードは、1880年に西関東・東海道地方を担当した。この巡回伝道の旅行中、足柄街道筋の水車小屋で30歳ぐらいの盲目の女性ハンセン病患者と出会い、療養所の設立を決意する。1889年、静岡県御殿場市に療養所を設立。彼は上司に設立許可を願うにあたり「らい患者が現世の苦しみによって永遠の生命を得ることができたら苦しみも又幸せとなるでしょう。そのために病院を建て、そのことを教えたいと思います。こうして彼らは肉体の救いと共に魂のたすかりを得ると思います」と説明した。彼はこの病院に「主における復活」の意味で「神山復生病院」と命名、これが日本最初のハンセン病療養所となった。1898年には、ジャン・マリー・コールにより熊本県熊本市にもハンセン病療養所(待労院)が創設された。1878年に長崎県の外海地区(現・長崎市)に赴任したマルク・マリー・ド・ロは、この地域の人々の生活が貧しく、孤児や捨子も多く、特に海難事故で一家の働き手である夫や息子を失った家族が悲惨な生活を送っていることを知り、1880年に孤児院を開設し、1883年には救助院(黒崎村女子救助院)を設立して授産活動を開始する。この施設に修道女として入院した婦人たちは、ド・ロの技術指導に基づき、織布、編物、素麺、マカロニ、パン、醤油の製造などを行った。ここで製造されたシーツやマカロニ、パンなどは外国人居留地向け、素麺や醤油などは内地向けに販売された。このように、パリ外国宣教会に委託されたカトリック教会は、下層階級を中心に宣教活動の一環として積極的に慈善事業を行った。1846年に設立されパリ外国宣教会に委託された日本使徒座代理区は、1876年に日本北緯使徒座代理区、日本南緯使徒座代理区の2区に分割された。日本北緯使徒座代理区は横浜に司教座を置いて北海道、東北、関東および中部の各地方を管轄区域とし、日本南緯使徒座代理区は長崎に司教座を置いて近畿、中国、四国、九州の各地方を管轄した。日本北緯使徒座代理区は、1877年に司教座を東京築地教会に移し、1891年には北海道と東北地方を分離(函館使徒座代理区)して東京大司教区となった。日本南緯使徒座代理区は、1888年に日本中部使徒座代理区が新設されたことにより近畿、中国、四国の3地方を委譲し、管轄は九州地方のみに縮小。同年、司教区に昇格して長崎司教区となった。プロテスタントの宣教師として最初に来日したのは1859年5月到来の米国聖公会ジョン・リギンズ (John Liggins) と6月来日のチャニング・ウィリアムズ (Channing Moore Williams) であった。これを皮切りに1859年中には,「ヘボン」とよばれたアメリカ合衆国長老教会の医師ジェームズ・カーティス・ヘップバーン (James Curtis Hepburn) (10月17日)をはじめとし、アメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師サミュエル・ブラウン (Samuel Robbins Brown) とグイド・フルベッキ (Guido Herman Fridolin Verbeck)、医療宣教師ダン・B・シモンズ (Danne B.Simmons) などが続々と来日した。さらに翌年の1860年にはバプテスト教会のジョナサン・ゴーブル (Jonathan Goble)、1861年にはアメリカ・オランダ改革派教会(ダッチ・リフォームド、現RCA)の牧師ジェームズ・バラ (James Ballagh) などが日本の土を踏んだ。これがプロテスタント各教派の最初の宣教師グループである。やや遅れて1869年にはアメリカ伝道委員会(アメリカン・ボード) () のダニエル・クロスビー・グリーン (Daniel Crosby Greene) が来日し、1873年には米国メソジスト監督教会宣教師メリマン・ハリス (Merriman Colbert Harris) が函館に着任した。近代以降の日本のプロテスタントを語る上で欠かせない三つの流れがある。それは「横浜バンド」、「熊本バンド」、そして「札幌バンド」である。ここでいうバンドとは「団体」という意味である。1863年にヘボンの開いた横浜英学所(ヨコハマ・アカデミー)はジェームズ・バラの弟ジョンに引き継がれ、バラ学校と呼ばれていた(バラ学校は1880年に築地居留地に移転して築地大学校となる)。1872年、押川方義(東北学院創立者)らバラ学校の青年たちが信仰を告白し、洗礼を受けた。このグループが「横浜バンド」である。同じ年、横浜に最初の教会「日本基督公会」(海岸教会)が開かれた。1873年にはサミュエル・ブラウンの自宅に集まった青年たちによって「ブラウン塾」が発足。生徒の中には前出の押川方義のほか、青山学院の院長となる本多庸一や、明治学院創設メンバーである井深梶之助、植村正久らがいた。このバラ学校とブラウン塾の流れから1877年に東京一致神学校が生まれ、1887年に東京一致英和学校(築地大学校の後身)・東京英和予備学校と統合した上で白金に移転して明治学院が誕生した。また,一時帰国していたブラウンと共に1869年に来日したメアリー・キダー (Mary E. Kidder) が、ヘボンの診療所で教育していた。ここから後のフェリス女学院が誕生する。1871年、熊本洋学校に教師として招かれた元陸軍士官L・L・ジェーンズ (Leroy Lancing Janes) は会衆派教会の熱心な信徒であり、彼の感化によって教え子たちが信仰に入った。「熊本バンド」(1876年)と呼ばれたこのグループは、熊本洋学校廃止によってジェーンズが大阪英学校に移るとこれに従い、ジェーンズがすすめたことで(新島襄が1875年に開いた)同志社英学校に加わった。その中に宮川経輝、小崎弘道(同志社第二代総長)、海老名弾正(第八代同志社総長)らのメンバーがいた。札幌農学校で教壇に立ったW・S・クラーク (William Smith Clark) とメリマン・ハリスの薫陶を受けた教え子によって結成されたのが「札幌バンド」(1877年)である。クラークの教え子たちの中には佐藤昌介、大島正健、内村鑑三、新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾、土木工学の広井勇らがいた(内村鑑三はのちに「無教会主義」を唱えることになる)。日本のプロテスタントはこれらのグループを核として発展した。横浜バンドの流れから「日本基督教会」が、「熊本バンド」から日本組合基督教会が生まれた。そしてアメリカとイギリスの聖公会の流れから日本聖公会が、メソジスト系の諸派から日本メソヂスト教会が誕生した。初期の宣教師たちの宿願であった日本語訳聖書の出版事業もこの時期精力的にすすめられ、1880年に新約聖書、1888年に旧約聖書が出版された。1873年までに、ほとんどのプロテスタントの教派が来日し、1882年時点で日本に在留していた宣教師は138名であった。初期の宣教師は聖書信仰と保守的な神学を持ち、その宣教の情熱の背景にはアメリカの大覚醒と呼ばれたリバイバルがあった。循環するリバイバルがアメリカのキリスト教の特徴である。ブラウンら宣教師は大覚醒運動の影響を受けていた。アメリカの宣教師によって日本に福音主義(エヴァンジェリカリズム)が伝えられた。福音派(特にホーリネス運動)の源流の1つで「松江バンド」(1893年)も特筆に値する。1890年の聖公会牧師バークレー・バックストンの松江市での伝道が始まりであり、竹田俊造、三谷種吉、堀内文一らを輩出。1897年9月26日にバックストンの招きにより、パゼット・ウィルクスが来日し、日本伝道隊(1904年)や日本イエス・キリスト教団、関西聖書神学校などの設立に関わった。三谷種吉は日本最初の音楽伝道者であり、今も歌われる讃美歌「ただ信ぜよ」、「神は愛なり」を歌いながら、伝道した。1878年5月15-17日に、第一回全国基督教信徒大親睦会が開催され、1880年に第二回が開かれていたが、1882年は耶蘇退治の迫害があった。1883年の5月8-12日に開催された第三回全国基督教信徒大親睦会からリバイバルが起こり、全国的に広がった。5月14日の基督教大演説会には四千人を集めた。1884年の同志社リバイバルは、3月17日の祈祷会で最高潮を迎え、200名の学生が信仰を告白して、洗礼を受けた。日本のプロテスタントは教育中心、上流階級と中流階級に対する伝道を行なってきたといわれる。日本の初期のプロテスタントの指導者は特に知識階級、佐幕派の士族階層が中心だった。日本における正教会伝道は、1861年にはロシア正教会のニコライ・カサートキンが来日し、函館の領事館付き修道司祭に着任したのが嚆矢である。当初からニコライは「日本人への伝道・日本正教会の建設」を志して修道司祭となっており、活動を領事館付き司祭の枠にとどめる考えはなかった。派遣したロシア正教会上層部もまた同様の考えであった。その後もニコライは、この基本方針を貫いた。函館・仙台の人士が初期の信徒を構成したため、函館・東北地方での浸潤がまず始まった日本の正教会だが、1872年に神田駿河台の土地2300坪を得て、宣教の拠点とした。1874年5月には布教会議が東京で開催される。1880年にはニコライは主教に叙聖され、この時からロシア正教会から派遣される主教を待たずに司祭・輔祭を叙聖することができるようになり、日本正教会の神品が増加する環境が整った。1880年には現存するものの中では日本最古の木造教会建築である、石巻ハリストス正教会の聖使徒イオアン会堂が完成。1891年には東京復活大聖堂(ニコライ堂)が竣工する。また出版事業に重きを置いたニコライにより、各種祈祷書・聖歌譜が日本語に活発に翻訳されていった。1882年に帰国した山下りんにより各地の聖堂のイコンが描かれていった。また日本に着任していた修道司祭アナトリイの甥でもありピアノ・チェロの奏者でもあったヤコフ・チハイが同年頃に来日し、聖歌教師として聖歌の普及に努めた。正教会は急速に教勢を拡大していく。しかし1891年の大津事件にみられるように日本の対露感情が悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日本の正教会もまた各地で迫害を受けていく。1904年にはついに日露戦争が開戦される。この時、ニコライ主教は日本にとどまり、「諸君は皇軍の為に祈れ」と言い、苦難の下にあった日本人正教徒たちを激励し続けた。ニコライは内面では、度重なるロシア軍の敗報に苦悩していたが、あくまで日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通すことになる。同時に日露戦争時、日本の正教会は日本政府と協力し正教徒ロシア人捕虜の世話に当たり、「日本正教会」でありかつ「日本人のためだけではない正教会」である姿を両立させることとなった。日露戦争終結直後、日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂もあわや暴徒に襲撃されるところであったということからも、当時の日本の正教会が置かれた立場が垣間見える。こうした逆境にもかかわらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあって、カトリック教会に次ぐ規模であった。明治最後の年、1912年にニコライは永眠、76歳であった。この時、明治天皇から恩賜の花環が与えられた。外国人宣教師の永眠に際して花環が与えられたのは異例のことであった。ニコライの伝道はその後、日本ハリストス正教会に結実する。明治初期から中期にかけては、国をあげて欧化政策が進められたため、西欧精神の中枢であるキリスト教に関心を持つ者が増えた。福澤諭吉がキリスト教国教会論を主張し、上流階級がキリスト教に殺到した時代である。なお、1895年のカトリック教会は、信徒数50,302人、司教4人、司祭はパリ外国宣教会士88人、マリア会士27人、邦人司祭20人であった。プロテスタントは1888年末に249教会、信徒15,514人、宣教師451人、日本人教役者142人、神学校14校、神学生287人、年間の受洗者は約7,000人を数えた。正教徒の信徒数は17,000人であった。しかし明治中期以降、日本が富国強兵政策をとって近代国家への歩みを模索し、国粋主義的思想が強まるようになるとキリスト教への見方にも変化が起こる。1889年に発布された「大日本帝国憲法」では日本が立憲君主制国家たることを宣言しているが、この中で信教の自由は限定的なものとされた。さらに天皇に対する忠誠を説く「教育勅語」(1890年)で明治日本における天皇の位置づけが明確に示された。国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確にされたことで、キリスト教に対する風当たりが強まっていく。このような風潮を象徴するできごとが内村鑑三の不敬事件(1891年)であった。また、政府は大逆事件(1911年)で幸徳秋水を処刑したが、キリスト教に批判的な立場から、彼の遺作である『基督抹殺論』の刊行を認めた。このような情勢の中でも、この時期、様々なキリスト教的社会福祉事業や社会運動が起こっている。キリスト教精神がようやく日本社会に浸透し、社会への働きかけという形で実を結び始めたことの証ともいえる。高等教育や出版活動において日本のカトリック教会は、プロテスタントに大きく遅れをとっていた。明治末期になると、パリ外国宣教会による日本の独占司牧体制に無理があることは、同会の一部でも認められ、今後の教会の発展には他の修道会の来日が必要であるとの意見が出始めた。しかし、パリ外国宣教会の内部からは、十分な内部変革の動きが無かったこともあり、日露戦争前後の時期になると、日本人の司祭や信徒の一部から「パリ外国宣教会の宣教活動は、近代国家となった日本では十分な成果を挙げ得ないもの」として、教会改革の必要性を唱える者が現れた。例えば長崎教区で教会改革を目指した司祭の平山牧民および一部の信徒らは、慈善活動を通じて下層階級への宣教事業に力を入れる同会に不満を持ち、高等教育や学術活動に強いイエズス会の誘致運動を行い、教皇庁にその必要を主張する意見の具申を行っている。また東京大司教区では、知識人層を対象にした出版活動や青年運動が展開され、パリ外国宣教会の中には日本人の若手カトリック知識人の活発な活動に期待する宣教師も存在した。しかし、日本人信者によるパリ外国宣教会の司牧体制に向けた批判活動は、平山牧民の追放や前田事件を引き起こし、結果的にイエズス会の招致は実現したが、教会の改革運動は低調な状態に陥ってしまった。その後、1916年に岩下壮一を中心として結成された第2次公教青年会の会長に山本信次郎が就任し、再び知識人活動や青年運動が盛り上がった。日露戦争後の1905年11月、教皇ピオ10世は、アメリカ人司教のウィリアム・ヘンリー・オコンネルを親善使節として明治天皇宛てに親書を託し派遣した。教皇使節の日本訪問は、日露戦争時に戦地のカトリック教会が日本により保護されたことに対して、ローマ教皇が明治天皇に感謝の意を表するために行われたものだが、同時に日本のカトリック教会の現状視察という別の目的を持っていた。この訪問を機縁に、日本のカトリック教会もフランスのパリ外国宣教会の独占から多様化された。スペインよりドミニコ会、ドイツより神言会、イエズス会、フランシスコ会、カナダよりフランシスコ会、ドミニコ会、イタリアよりサレジオ会が来日した。この多様化によって教育事業においても、従来の初等中等教育から高等教育にも取組んだ。1906年にピオ10世より「日本に高等教育機関を設置すること」の要請を受けたイエズス会は、1908年に3人のイエズス会員を派遣する。その後、1911年に財団法人上智学院を設立、1913年に専門学校令による大学(上智大学)を開校した。1916年には、聖心女子学院高等専門学校(後の聖心女子大学)が設立され、カトリックは貧民層のためという印象は薄れた。このような流れの中でも、社会福祉事業は続けられた。1926年、司祭のアルベール・アンリ・シャルル・ブルトンによって神奈川県鎌倉市に結核療養所「聖テレジア療養所」が設立された。また女子教育においても1907年、司祭のルイ・ルラーブによって京都府宮津市に宮津裁縫伝習所が創設され、後の京都暁星高等学校へと発展する。1905年9月5日、ロシア帝国と締結されたポーツマス条約に、日露戦争時の増税による耐乏生活を強いられてきた民衆の不満が爆発した。(日比谷焼打事件)翌9月6日23時頃、本所地区に決起した暴徒は、本所教会を襲い一帯の信者の住居と共に本所教会は焼討ちされた。暴動が鎮まった後も敵意は教会に向けられたため、当時の東京大司教であったピエール・マリー・オズーフは時勢を考え、本所教会の主任司祭を日本人に交代した。この時期はプロテスタントにとっても困難な時期ではあったが、売買春の廃絶を目指した日本基督教婦人矯風会(1886年)の発足や、石井十次による岡山孤児院(1887年)、石井亮一の聖三一孤女学院(1891年、後の滝乃川学園)のような養護施設活動、山室軍平による救世軍運動(1895年)などキリスト教的社会福祉事業、社会運動、廃娼運動が起こっている。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現コープこうべ)なども、キリスト教文化の影響下に生まれた運動として挙げることができる。また、この時期、自由主義神学、高等批評が導入され、日本の教会に混乱を与えることになる。1885年にドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーが来日し、聖書は人間の宗教的な記録であると主張した。またこの派からオットー・シュミーデルも来日する。この立場は、新神学と呼ばれたが、彼ら自身は「最も進歩せる学術的キリスト神学」と称した。これは日本組合基督教会に強い影響を与えた。1887年にはアメリカからユニテリアンの宣教師が来日し、三位一体、キリストの神性を否定した。熊本バンドの小崎弘道はリベラルな新神学を受け入れ、1889年に同志社大学で開催されたキリスト教青年会の夏期学校で、「聖書のインスピレーション」と題して講演をした。また、1891年に金森通倫もモーセ五書は、ユダヤ人の伝説や神話の寄せ集めであると主張した。1892年には日本基督教会で「日本の花嫁事件」が起こり、田村直臣牧師が免職になった。1893年に東京帝国大学の井上哲次郎教授は、『教育と宗教の衝突』を発表して内村鑑三を非難し、キリスト教と日本は相容れないとした。1901年5月に20世紀大挙伝道の働きの中で、リバイバルが起こり、1907年にはプロテスタント人口が約6万人となった。1901年9月から、リベラル神学を巡って、植村・海老名論争が起こる。1902年に福音同盟会は総会を開き、イエス・キリストの神性を確認し、海老名を追放したが、植村も十全霊感を否定した。1903年には、それまで各教派別に編纂されていた讃美歌集を一つにまとめた共通『讃美歌』が作成された。1904年の日露戦争では、海老名弾正、植村正久、井深梶之助、本多庸一が主戦論を唱え、内村鑑三、柏木義円、白石喜之介が非戦論を唱えた。トルストイの影響を受けた、キリスト教社会主義者の安部磯雄、木下尚江、西川光次郎、石川三四郎、片山潜らも無抵抗主義の非戦論だった。1907年には救世軍の創立者ウィリアム・ブースが来日した。2万人を超える群集がブース大将を歓迎し、彼は西園寺公望、大隈重信、明治天皇に面会した。1912年に救世軍病院が開設される。1909年10月には、日本におけるプロテスタント宣教開始50年を祝って、宣教開始50年記念会が開催された。1910年エディンバラ宣教会議の決議により、東京女子大学が設立。1910年の朝鮮併合後に朝鮮総督府は、日本基督教会の指導者植村正久に朝鮮宣教を持ちかけた。植村は朝鮮併合には賛成していたものの、朝鮮宣教は断ったため朝鮮総督府は、日本組合基督教会の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を命じた。日本組合基督教会は、同年10月の第26回定期総会で全会一致をもって「朝鮮人伝道」を決議し、渡瀬常吉を派遣。日本組合基督教会は朝鮮総督府より莫大な資金援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げた。明治の終わりから大正期にかけて、明治時代後半にみられた国粋主義への傾きが一時的に退潮した。1912年の神仏基による三教会同は、ようやくキリスト教の地位が宗教界で同等なものとみなされたかのような印象を与えたが、その一方で昭和に入ってキリスト教が国家の統制下に組み込まれていくことへの伏線となった。この時期、日本基督教会の信徒であった賀川豊彦は労働組合運動など活発に社会運動を行ったが、彼の設立した消費組合は後の生活協同組合へとつながった。1918年には中田重治、内村鑑三、木村清松が再臨運動を展開した。1919年11月、淀橋教会の祈祷会から、ホーリネス・リバイバルが起き、四重の福音を唱えるホーリネスは教勢を拡大していった。大正以降の正教会の動向については、日露戦争・ロシア革命の影響が大きく、反露感情・反共感情の広がりと母教会(ロシア正教会)に対する共産主義政権による弾圧もあり、他教派とは歴史的に置かれた環境が異なるために独特の経緯をたどった部分が少なく無い。昭和初期以前、明治末から既に日露戦争に代表される日露関係の悪化から、日本正教会は日本において他教派よりも一層厳しい立場に置かれていた。正教側は、正教はロシア専有の宗教ではなく世界の聖公使徒教会であると主張していたが(これは世界の正教会と共通する見解)、世間からは「露教」と誤解する向きが根強かった。1894年にギリシャ正教会のディオニシオス大主教が来日してニコライ主教とともに奉神礼を行ったことを、「正教会が蒙っていた冤罪を雪ぐべき好機会」であったと記した三井道郎の回想記の一節にも、当時の日本正教会が置かれた状況が垣間見える。昭和初期には軍部が擡頭すると、軍国主義のイデオロギーとして国家神道が利用されるようになり神道以外の宗教団体への圧力が強まった。特に教育や思想の分野において国粋主義が強化されたことで西洋の宗教であるとみなされたキリスト教は苦しい立場におかれることになった。特に1931年の満洲事変勃発以降はその傾向が強まった。1939年、帝国議会によって戦争遂行のため宗教団体を統制する目的で「宗教団体法案」が可決成立し、翌1940年4月1日から施行された。これによって、日本のキリスト教界において多くの団体が政府に協力した。カトリック教会では、1933年から1934年にかけて奄美カトリック迫害が起こったほか、1932年には上智大生靖国神社参拝拒否事件が起こり、靖国参拝の強要に反対した学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解「第一聖省訓令」「祖国に対する信者のつとめ」を出し、以後戦争については沈黙した(ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる)。このように、軍国化していく日本において、社会的な迫害の対象に置かれるなど困難な社会的状況にあったため、1931年には、映画「殉教血史 日本二十六聖人」を製作公開するなど、キリスト教徒への偏見を払拭する試みが行われた。なお、1940年の登録信者数は119,324人であった。困難な社会的状況の中、神言会の司祭であったヨゼフ・ライネルスは、1922年2月18日に設立された名古屋知牧区の初代教区長に就任すると、宣教とともに教育の重要性を唱えた神言会の意志を受け、教育機関の設立に奔走する。1932年1月、名古屋市に南山中学校(現在の南山学園)を設立し、初代理事長及び校長を務めた。このような状勢の中でも、社会福祉事業は続けられた。パリ外国宣教会の司祭であったヨゼフ・フロジャックは、1927年、東京市中野療養所の結核患者の一人を見舞ったことを契機に療養所訪問を始めた。1929年には野方町丸山に民家を借用し、療養所から退院させられて行き場所のない患者5名を収容する。1930年には中野療養所の近くに「ベタニアの家」を建設し、患者15名を収容した。同年、女子患者のため、別に民家を借用して患者5名を収容する。1932年、今度は患者の子供を救済するため「ナザレトの家」を建設し、男児10数名を収容、さらに1933年、療養農園「ベトレヘムの園」を建設し、軽患者の男女60名を収容した。1934年、ベトレヘムの園隣接地を買収し、養護施設「東星学園」(現在のベトレヘム学園)を建設、ナザレトの家の児童33名を移し、ナザレトの家は乳児院に転換する。1936年には学園児のため、「東星尋常小学校」を開校した。フロジャックは事業開始直後から周囲の無理解と資金難に苦しみながらも事業を維持し、戦中、戦後も多くの社会福祉施設や幼稚園・学校を設立した。ベタニアの家はその後、社会福祉法人「慈生会」へと発展し、また教育事業は東生学園へと発展した。1941年5月、日本のカトリック教会は、宗教団体法に従いローマ教皇直属である日本の各司教区と日本に所在する修道会をすべて統合する団体として日本天主公教教団を設立、初代統理者に東京の土井辰雄司教を選出した。プロテスタントでは、朝鮮の長老派が神社参拝を拒んでいたため、日本政府は1938年6月末、同じ長老派系統の日本基督教会大会議長富田満を派遣して朱基徹牧師ら朝鮮の長老派を説得させるが、朱基徹らは拒んだため、殉教することになる。朝鮮の教会は、約70名の牧師が投獄、拷問にあい50名が殉教し、2,000名の信徒が投獄され、約200の教会が閉鎖された。1939年に成立した宗教団体法を受けて開催された皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会の決議に基づいて、1941年にプロテスタント32教派が自発的に統合し、日本基督教団が結成された。この困難な時代、日本のキリスト教界において多くが国家に妥協する一方、戦争反対を表明した一部の教会、再臨信仰を咎められたホーリネス系教団、神社参拝を拒否した美濃ミッション等には徹底した弾圧が加えられ、解散に追い込まれた。ホーリネス弾圧の中で命を落とした者に小山宗祐、菅野鋭、斉藤保太郎、辻啓蔵、小出朋治(獄中での死亡順)、竹入高、池田長十郎、佐野明治(出獄後死亡)などがいる。戦時下の中で、正教徒の外交官である杉原千畝は「命のビザ」を発行し、ナチスの虐殺からユダヤ人を生命の危機からを助けた。イスラエルの回復を祈るホーリネス系のキリスト者が逃れてきたユダヤ人たちを受け入れた。旧約の神の民のうち、ある人は日本から渡米し、また再建されたイスラエルに帰還していった。1931年、大主教ニコライの後継者であるセルギイ・チホミーロフは府主教に昇叙された。だが、共産主義政権(ソ連)の下で弾圧されその監視下にあるロシア正教会の意思・決定に忠実なセルギイに対し、亡命ロシア人や日本人信徒から様々な反発が起こった。このような状況下で、セルギイを、その任から解き日本人を主教にするよう日本政府から圧力がかかった。日本正教会は抵抗することもなく、1940年、セルギイは引退を余儀なくされ、代わってニコライ小野帰一が主教に着座した。その後も当局の監視は続き、高齢のセルギイは1945年に特別高等警察に逮捕され拷問を受け、約1ヶ月拘留された。釈放後の同年8月10日、終戦の5日前にセルギイは死去した。拷問による衰弱死といわれている。1945年8月に戦争が終わると、進駐し
出典:wikipedia
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