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保科正益

保科 正益(ほしな まさあり)は、上総飯野藩の第10代(最後)の藩主。江戸幕府の幕末の若年寄。天保4年(1833年)2月2日、第9代藩主・保科正丕の三男として江戸で生まれる。はじめ病弱なために正丕は幕府に出生届を出さなかったが、長男と次男が相次いで早世したため、天保7年(1836年)に出生届を出している。このため、弘化4年(1847年)に世子となり、嘉永元年(1848年)に正丕が死去したため家督を継いだ。嘉永3年(1850年)12月、従五位下、弾正忠に叙任される。大坂加番や日光祭礼奉行など諸役を歴任し、嘉永6年(1853年)のペリー来航では浦賀の警備を務めた。文久3年(1863年)、大坂定番に任じられる。慶応2年(1866年)5月には若年寄に任じられ、同年からの第2次長州征伐では石州口における幕府軍を指揮した。慶応3年(1867年)1月、江戸へ戻り、7月に若年寄を辞任する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府に恭順するためと、前将軍・徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩主・松平容保が徹底抗戦の構えを取ったため、4月から連座によって京都北野で謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑したため、6月19日に罪を許された。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で飯野藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免職された。のちに子爵に列せられている。明治21年(1888年)1月23日に死去した。享年56。妻は伊達宗紀の七女・節子。長男が早世し次男・咸次郎が楠田英世の長男・申八郎の婿養子となったため三男・正昭(幼名・盛之助)が嗣子となる。正昭は北白川宮能久親王の第3王女を娶り、貴族院議員となった。長女の寧子は三菱財閥の3代目総帥・岩崎久弥に、二女の尚子は海軍軍人の佐野常羽に、三女の建子は、箱根底倉温泉旅館「蔦屋(つたや)」にそれぞれ嫁いだ。長女・寧子の長女はエリザベス・サンダースホームの創立者・沢田美喜。次男・咸次郎の次女は元三菱銀行頭取の田実渉に嫁ぎ、蔦屋の養女(岩崎小弥太の庶子のため、正益とは血縁自体はない)は元三菱重工業社長の牧田與一郎に嫁いでいる。民族主義者の牧田吉明はその四男である。

出典:wikipedia

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