那須氏(なすし)は、日本の氏族。下野国那須郡を発祥とする。藤原北家の後裔を称し、各種系図によると藤原道長の六男・藤原長家の孫資家(貞信)を祖とし、元は須藤氏を称していたが、那須資隆(太郎)の時、那須氏を称したとされる。一般には屋島の戦いで扇の的を射落とした那須与一(資隆の子)で知られるが、『吾妻鏡』によって明確に存在が確認されるのは鎌倉時代初期の那須光資からであり、与一の存在も含めそれ以前の系図や事跡・伝承には疑わしい部分も多く、出自は必ずしも明らかではないが、阿倍氏の一族で那須国造家である那須直の後裔とする説がある。また、光資以後の系譜についても問題があるとする見方がある。通説では光資の後を継いだとされる那須資村が那須氏惣領(当主)として認められた記録が無く、光資の弟で伊王野氏の祖とされる那須資長が惣領であったことを示す古文書(文永9年4月5日付関東下知状:『鎌倉遺文』11005号)が存在する。これは、鎌倉時代後期に光資系と資長系が惣領の地位を巡って争っており、白河結城氏の文書(「白河文書」)などで南北朝時代に北朝方惣領としてその存在が確認できる那須資宿(太郎→遠江守)やその後継者とされる那須資直(周防守)など、現在の那須氏の系譜には登場しない惣領(当主)も資長系の人物であったとみられている。鎌倉幕府成立後は御家人となり、室町時代には最盛期を迎え、結城氏や佐竹氏と並んで、関東八屋形のひとつに数えられた。しかし15世紀前半に上那須家と下那須家の二つに分裂して衰退したとされる。その後上那須家は室町幕府を、下那須家は鎌倉公方・古河公方を頼って勢力争いを繰り返すことになる。永正11年(1514年)、上那須家が内紛により滅亡し、下那須家の那須資房が那須氏を統一するが、その後は宇都宮氏や佐竹氏との抗争に明け暮れる。天正18年(1590年)、那須資晴が豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため所領を没収されたが家臣・大田原晴清の陳謝で資晴の子・那須資景に5,000石を宛てがわれ、かろうじて改易は免れた。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、江戸時代には下野那須藩1万4,000石の大名となる。3代藩主那須資祗の時、2万石に加増され同国烏山藩に転封。しかしその養子那須資徳がお家騒動(幕法違反)により改易され、以後1,000石の交代寄合として那須資穀の代で明治維新を迎えた。明治に入り養子縁組で関係があった津軽氏を頼って弘前に移住した。なお、この那須氏の36代当主が昭和24年に起きた弘前大学教授夫人殺人事件の被告人となったが、裁判により冤罪とされている。なお、この他に鎌倉時代に備中国荏原荘に下った那須氏の庶流が存在し、那須与一の伝説などは備中那須氏において伝承され、中世後期まで下野那須氏ではほとんど認識されていなかったとする指摘もある。
出典:wikipedia
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