ドン・フアン・マヌエル(Don Juan Manuel, 1282年 - 1349年?)は、カスティーリャ王国の王族でアルフォンソ11世の摂政(1312年 - 1322年)。アルフォンソ10世の弟王子の子としてで生まれる。母はサヴォイア伯の娘ベアトリス。早く父を失ったため、王宮で育てられた。次代の王となる従兄サンチョ4世の寵遇を受け、12歳でムルシアの領主となった。次いでフェルナンド4世の侍従を務めた。最初の妻イサベル(マヨルカ王ジャウメ2世の娘)とは2年で死別し、アラゴン王ハイメ2世の娘コンスタンサと再婚した。コンスタンサとの間に一女コンスタンサ・マヌエルが生まれた。1312年、フェルナンド王の死後、アルフォンソ11世が成人するまで摂政を務めた。フアン・マヌエルは王の2度目の王妃に長女コンスタンサ・マヌエルをと願い、コルテス(議会)も了承したが、王は外交上の理由からポルトガル王アフォンソ4世の娘で従妹のマリアを選んだ。後にコンスタンサ・マヌエルがポルトガル王太子ペドロ(後のペドロ1世)の妃にと請われた時、アルフォンソ11世はその出国を不服として妨げた。そのためフアン・マヌエルはアルフォンソ11世と不和となり、義父アラゴン王ハイメ2世の助けを得て反旗を翻し、数年内乱が続いた。後にカスティーリャ統治を助けて欲しいと頭を下げた王と和解し、帰国した。3度目の妻ブランカ・ヌーニェス・デ・ララは、サンチョ4世の兄フェルナンド・デ・ラ・セルダの孫である。ブランカとの間の娘フアナ・マヌエルは、後にトラスタマラ家の王エンリケ2世の王妃となった。1340年にサルセードの戦に参加、1344年にはアルヘシーラス占領に参加した。詩人、寓話作家として、14の著作があったといわれる。晩年、全作品の写本をペニャフィエルの修道院に保管させたが、現存するのは7本のみである。『()』という寓話集には51話が収められ、この作品により、スペインの散文は一大飛躍を遂げた。第32話はデンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンによる翻案『裸の王様』の原著としても知られている。
出典:wikipedia
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