ウェールズの君主では、イングランド王エドワード1世に征服される以前のウェールズに存在した君主(王、プリンス)について説明する。13世紀にルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズのほぼ全域を支配し、ウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)を称した。この大公家はエドワード1世によって滅亡したが、傍系からテューダー朝が出ている。古プリンス・オブ・ウェールズとも。ウェールズの諸王は、4世紀頃にスコットランドから渡来した戦士団長キネザを祖とするとされる。アングロ=サクソン勢力がブリテン島に攻め寄せた6世紀のウェールズには、北部にはマイルグン=グウィネッヅ、南部にはヴォテポリクス、中部にはキンラスという名の支配者が居たことが確認されている。アングロ=サクソンの波はウェールズにも押し寄せ、633年にはグウィネッズの王カドワロンが戦死しているが、これは来るべきイングランドとの対決の前哨戦とも言えよう。その後、ウェールズには、グウィネッズ、ポウィス、ダウェド、ケレディギオン、グラモルガンの小王国が分立したが、このうち、グウィネッズのカドワラダはアングルシ島のアベフラウに王宮を建設している。東隣のイングランドでは、8世紀には、七王国のひとつアングル人系のマーシア王国にオファ王(在位:757年 - 796年)が現れて覇を誇り、大陸のフランク王国のシャルルマーニュと対等にわたり合って力を誇示していた。しかし、このオファ王も西のウェールズに手を焼き、ウェールズ・イングランドの境に「オファの防塁」を造り上げた。9世紀に入るとウェールズ統一に向けての動きが活発することになる。即ち、825年に即位したメルヴィン・ヴリッフは婚姻政策を通して勢力を拡大し、その息子で844年に即位したロドリはポウィス、サイシスウグを併合し、同時期に押し寄せたヴァイキングも撃退する等して後に大王と呼ばれるようになった。しかし、その死後に6人の息子達によって王国が分裂したこと(なお、この時に王家は大別してクウィネッヅ家とポウィス家に分裂し、さらに後者からデハイバーズ家が生まれた)により事態は一変する。これに乗じたヴァイキングは再び動きを活発化し、サイシスウグを継承したカデルはこれに耐えられずに、アルフレッド大王に庇護を求めたからである。ここにウェールズ君主のイングランドへの服従が始まった言っても良い。カデルの息子のハウェルは婚姻政策に拠りダウェドを獲得し、父王の死後には弟のクリドグと共にサイシウグを統治するが、後にこれを追放して920年頃には両王国を併せたデハイバーズ王国を形成した。さらに、従兄弟でグウィネッヅを統治していたイドワル・ウォイズが942年に戦死すると同地を征服し、加えてポウィスも征服し南東部を除く全ウェールズを統一した。他にも、自分の名を刻んだ硬貨を発行したり、ウェールズ法という慣習法を制定する等して、「善良王」という名を与えられた。950年にハウェルが死ぬと王国は再び分裂して、イングランドとの友好も崩壊した。孫のマレディズは986年に再統一するも長続きせず、混乱が終息するのは、その外孫であるルウェリン・アプ・グリフィズの出現を待たなければならない。1039年にグウィネッズとポウィスの王に即位したグリフィズは、同年にラディグロエスの戦いでイングランド軍を撃破して支配権を確立し、1044年までにはサイシシスウグを征服している。イングランドからの支援を受けたデハイバーズの支配者であるグリフィズ・アプ・ラゼルが最大の障壁であったが、1055年に彼が死去すると、南東部を除く全ウェールズを再統一することに成功した。その後もイングランド軍の侵略を撃退することに成功し、全ウェールズ及び南西イングランドのごく一部の支配権を認められたが、1062年にウェセックス伯ハロルドの侵攻に伴い大打撃を受け、翌年には家臣に裏切られて殺された。1066年に、ノルマンディー公ウィリアムによってイングランドが征服されると、以後のイングランド国王はウェールズ征服を宿願と見なし、軍を進めることになる。当時のウェールズには、グリフィズ・アプ・ルウェリンの孫でグウィネッズを統治するグリフィズ・アプ・カナンとデハイバーズを統治するリース・アプ・テウドルが権力を二分する形でイングランドの西進を抑えていたが、1093年にリースが死去するとイングランドはこれに乗じて一斉に軍を進めた。そして、1110年に即位したヘンリー1世はウェールズを己の直轄地とする政策を打ち出していく。ヘンリー1世即位時のウェールズは、デハイバーズ、ポウィス、グウィネッズの3つに分かれていた。デハイーバーズではリースの跡を継いだ息子のグリフィズの許で王権が著しく弱体化し、ポウィスの侵略を受け、そのポウィスはアルウィストからケレディギオン、メイリオニズムまで勢力を拡大するものの、イングランド及びグウィネッズの攻撃を受けて弱体化した。残るグウィネッズだが、グリフィズ・アプ・カナンの許で東はクルーイド川流域から南はメイリオニズムまで領土を拡大し、またイングランドとも友好関係を結ぶなどして、良く統治を保った。加えて、オウエン・グウィネッズの代にはヘンリー1世死去に伴うウェールズへの影響力低下に助けられ、1136年から始まる遠征によってアングルシー島からディー川河口までの北部海岸全体を制することに征服した。当時の詩人は彼をイングランドからの解放者と称えた。一方、一時は弱体化したポウィスとデハイバーズもそれぞれ、マドッグ・アプ・マレディズ、リース・アプ・グリフィズの許で勢力を回復した。こうして11世紀後半のウェールズは、グウィネッズ、ポウィス、デハイバーズの3つの公国に分けられた。3公国の中で最初に指導的立場にあったのがデハイバーズ公国である。リース・アプ・グリフィズは南西ウェールズの制圧に成功し、国内的にもウェールズ法の再編纂やシトー派修道院に援助を行うなどして国内の充実を図った。しかし、リチャード1世獅子心王に対して戦いを挑んだのが躓きの始まりであった。イングランド及びポウィス、グウイネッズの大攻勢を受けて、獲得した領土のほとんどを奪われたからである。加えて、リース死後のその息子達の相続争いで公国は分裂状態となった。次に指導的立場を握ったのがポウィス公国である。12世紀頃の同公国は南北に分裂しており、南部のグウェンウィンウィンは全ウェールズ人のリーダーにならんとするもイングランドに阻まれ、息子のグリフィズはイングランドに進んで臣従して同化の道を歩んだ。北部のマドッグ・アプ・グリフィズは生き延びることに必死であった。そして、残るグウィネッズの許でウェールズ大公国が成立するのである。1194年に全グウィネッズを掌握し、翌年に公位に就いたルウェリン・アプ・ヨーワースは、全ウェールズ統一を目指して動き出すことになる。1199年には全北ウェールズ公の称号を帯び、イングランド王ジョンもこれを認めて庶子ジョウンを嫁がせている。しかし、ルウェリンが中部ウェールズに対して支配権を強化すると、ジョンはそれまでの妥協策を捨て、1211年から1212年にかけてグウィネッズに対して軍を進めた。ルウェリンはこの遠征をむしろ好機と見なした。全ウェールズ人を団結させる理由を得たからである。これは成功し、ルウェリンは全ウェールズの最高指揮官の地位に上り詰め、イングランド軍に対して大反撃をかけた。1217年には東南部を除く全ウェールズを征服するのに成功し、翌年のウースタ条約でウェールズの支配者と認められた。イングランドはこの条約を無視して1222年に反攻を開始し、その結果ルウェリンは守勢に回ることを余儀なくされたが、全ウェールズの支配権は終始保持することに成功した。ルウェリンは他にも自らを、全ウェールズの君主やグウィネッズ公と称したりもした。これらの功績により、彼は後世大ルウェリンと呼ばれるに至った。1240年にルウェリンが死去すると、嫡子ディヴィッドと庶子グリフィズの間で相続を巡ってウェールズが二分される。ヘンリー3世はこれに乗じて大攻勢をかけた。その結果、1246年にディヴィッドは戦死し、翌年のウッドストック条約により、ウェールズはほぼイングランドの支配下に置かれることになったのである。この屈辱的な状態の中から脱出しようと試みたのが、グリフィズの息子であるルウェリン・アプ・グリフィズである。彼は1250年にポウィス、デハイバーズの領主と密かに同盟を結んで、1255年にはグウィネッズの支配権を握った。そして全ウェールズ人のリーダーとなったルウェリンは1257年から1258年にかけて、メイリオニズ、ケレディギオン北部、ビルス、ポウィスを奪回し、国内の対応に追われたヘンリー3世もこれを認めざるを得なかった。1258年頃からルウェリンは自らをウェールズ大公を称しているが、ここにウェールズ大公が成立したと言っても良い。加えて、1261年以降は、ポウィス中部や南東ウェールズに遠征し、メイリオニズム、ブレコン、グウェントを獲得した。そして、1267年に結ばれたモンゴメリ条約により、ウェールズ大公の地位を得た。ウェールズ大公国が成立したのである。しかし、ルウェリンの支配は磐石なものではなく、特に南東部で反抗の動きがみられた。1272年にエドワード1世が即位すると事態はさらに悪化する。エドワード1世はルウェリンが自らに対して臣下の礼を取らなかったことを理由に、ウィリアム征服王以来の宿願であった全ウェールズ征服に乗り出したからである。1274年に、ルウェリンの弟であるディヴィドと南ポウィスの領主であったグリフィズ・アプ・グウェンウィンウィンがエドワード1世の許に亡命すると事態は有利に動いた。かくして、エドワード1世は1277年に15,600人にも及ぶ大軍でウェールズに攻め入り、ルウェリンの方は――エドワード1世の離間策によって――力を結集することができずに大敗し、秋に結ばれたアベルコンウィ条約で封建家臣とされることを余儀なくされたのである。もちろん、ルウェリンはこの隷属状態に甘んじている訳にはゆかず、機を見て独立せんとして1282年に挙兵した。しかし、圧倒的な装備の差によって窮地に追い込まれ、同年12月11日にビルス郊外で戦死した。弟のディヴィッドも翌年の6月に捕らえられて処刑された。ここにウェールズ大公家は滅亡した。以降、ウェールズ大公の称号は、イングランド王の法定推定相続人に対して授けられた(プリンス・オブ・ウェールズの頁を参照)。ウェールズ大公の本家は滅亡したが、傍系は生き残った。テューダー朝はその一つである。この家系はデハイバーズ王家に属すディネファー家出身で、ルウェリン・アプ・ヨルベスの宮廷で家老を務めたエドナベド・ヴァハンを祖とする。ヴァハンは、リース・アプ・グリフィズの娘で大ルウェリンの大叔母であるグウェンシアンと結婚した。2人の孫である老テューダーはエドワード1世に取り入ることに成功し、その玄孫オウエン・テューダーはヘンリー5世の未亡人キャサリンと秘密裏に結婚した。そして2人の孫であるヘンリー7世が薔薇戦争を勝ち残り、イングランドの王冠を手に入れた。ヘンリー7世は自らの王権を正当化するために、アーサー王伝説と絡めつつ、ウェールズ大公家に繋がる血筋を最大限に利用した。
出典:wikipedia
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