江田神社(えだじんじゃ)は、宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)にある神社。式内社で、旧社格は県社。主祭神配祀神以上の2柱は「産母(やぼ)二柱大明神」と号され、地元の人々からは「産母(やぼ)様」とも呼ばれている。『古事記』『日本書紀』には、伊邪那岐尊が黄泉から帰還して禊を行ったという記述がある。禊を行なった場所について、『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記すが、この「阿波岐原・檍原(あわきがはら)」が当地であると伝えられている。この地名は、全国の神社であげられる「祝詞」の冒頭でも「かけまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓えたまいしに」と読み上げられている。当社近くの「みそぎ池」が伊邪那岐尊が禊を行った地と伝えられ、かつては入江であったが、後に開墾されて「江田」と称されたという。なお上記の神話に基づき、当地はイザナギの子であるアマテラス・ツクヨミ・スサノオら三貴子や住吉三神の誕生地と伝えている。当社の周辺には古代の集落跡が多数あり、代表的なものには弥生時代初め(約2,400年前)の檍(あおき)遺跡がある。また、古墳時代の初期(3世紀末)の前方後円墳・檍1号墳からは国内最大の木製墓室・木槨跡が見つかった。国史の初見は、『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日条の「日向国子湯郡子都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並びに官社に預かる」という記事である。『延喜式』神名帳では日向国宮埼郡に「江田神社」と記載され、式内社に列している。また、『和名類聚抄』には宮崎郡に「江田郷」の記載があり、境内からは10世紀前後の須恵器も出土したことから、創建当初の位置に現在も鎮座していると考えられている。天禄元年(970年)までには神階が最高位の正一位まで進み、菊の紋章を持つ壮麗な神殿を持つなど、かつては社勢を誇っていたといわれる。中世には那珂郡に属し、京都の『清滝宮勧進神名帳』や文明11年(1479年)の『戒壇院公用神名帳』にも記載が見られるなど、日向国を代表する神社であったと見られている。しかしながら、寛文2年(1662年)の外所(とんどころ)地震の大津波により社殿を失ってからは衰退し、一村落の産土神の扱いとなっていた。津波によって貴重な歴史遺産が多数失われたともいわれる。江戸時代初期、神道家・橘三喜の『諸国一宮巡詣記』は「江田の御社に参りそれより檍が原の住吉に詣でて、尋ね来て聞けば心も住吉の松は檍が原の松原。この海辺に伊弉諾命の身そぎ給う」と記している。明治6年(1873年)5月25日、近代社格制度において県社に列格し、同40年2月9日に神饌幣帛料供進神社に指定された。伊邪那岐尊が禊を行なったという池は神社の北東に位置し()、「御池(みいけ)」または「みそぎが池」と呼ばれている。春の社日祭・秋季例大祭では、「江田神楽」が奉納される。神楽の歴史は古く、慶長17年銘の神楽面が残っている。所在地交通アクセス周辺
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。