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関門トンネル (山陽本線)

関門トンネル(かんもんトンネル)は、関門海峡をくぐって本州と九州を結ぶ、鉄道用の水底トンネルである。九州旅客鉄道(JR九州)の山陽本線下関駅 - 門司駅間に所在する。単線トンネル2本で構成され、下り線トンネルは全長3,614.04メートル、上り線トンネルは全長3,604.63メートルである。関門海峡は九州(福岡県北九州市)と本州(山口県下関市)の間にある狭い海峡で、このうち深さの関係から西側の「大瀬戸」と呼ばれる部分に関門トンネルがある一方、もっとも海峡が狭くなる東側の「早鞆(はやとも)の瀬戸」に、他の関門海峡横断交通手段である国道2号の関門トンネル、山陽新幹線の新関門トンネル、高速道路の関門橋が通っている(→地理)。もともとは関門連絡船でこの海峡を横断して結んでいたが、乗換・積替の手間を省き輸送力を増強するために3回に渡って関門海峡にトンネルを建設する計画が持ち上がり、3回目の昭和初期の計画により実際に着工することになった(→建設に至る経緯)。当面は単線の輸送力で十分であったことに加えて、工事の容易さから、単線でトンネルを建設することになり、将来輸送量が増えた時にもう1本の単線トンネルを建設して複線とすることになった。先に建設されたのは下り線のトンネルで、両側の取付部との関係に機関車による牽引性能を勘案して、20パーミル勾配を採用することにしたが、後に上り線のトンネルを建設した際には、海底部分での土被りを増すために一部で25パーミル勾配が採用された(→建設計画)。事前に潜水艇による調査やボーリング調査などを実施して地質を調べた上で、まず、地質の調査や周り込んで本線の掘削箇所を増やすことやセメントの注入による地盤改良を行うため、細い試掘坑道を建設することとなった。これは1937年(昭和12年)に着工し、1939年(昭和14年)4月19日に貫通、8月5日に完成した。まだ試掘坑道を建設中であった1937年(昭和12年)12月から下り線トンネルの掘削にも着手し、門司側からは日本では3番目というシールド工法も使用して建設が進められた。1942年(昭和17年)6月11日に最初の試運転列車が下り線トンネルを通過し、7月1日に貨物用に開通、11月15日に旅客用にも開通し、まずは単線での供用を開始した。さらに1940年(昭和15年)に上り線トンネルの着工も決定され、1944年(昭和19年)8月8日に開通し、下り線から上り線に列車を移したうえで下り線トンネルの改修工事を行って、9月9日から複線での運転が開始された(→建設)。第二次世界大戦中は船舶不足に陥るなか、九州・本州間の連絡に重要な役割を果たした。1953年(昭和28年)6月28日には昭和28年西日本水害により水没し、復旧には2週間ほどを要した。当初から直流電化で開業した関門トンネルは、1960年代に入ると九州島内を交流電化する方針となったことから直流と交流の接続点ともなり、門司駅構内に交直デッドセクションが設けられて、そのための特徴的な車両が通過するようになった。1958年(昭和33年)から1975年(昭和50年)にかけて、関門海峡を渡る国道や高速道路、新幹線も開通したことで並行路線が実現された。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に際しては、九州旅客鉄道(JR九州)が承継している(→運用)。関門海峡は、九州の北端の福岡県北九州市と、本州の西端の山口県下関市の間にあり、西の日本海・響灘と東の瀬戸内海・周防灘を結んでいる海峡である。東側の下関市壇ノ浦と北九州市門司区和布刈間が早鞆の瀬戸と呼ばれる幅約600メートル程度の海峡最狭部であり、また西側には彦島があって、彦島と九州の間は大瀬戸、彦島と本州の間は小瀬戸と呼ばれる。小瀬戸は昭和初期に埋立工事が行われ、閘門で締め切られて、彦島と本州はほとんど地続きとなっている。関門海峡を横断する橋やトンネルは、山陽本線(在来線)の関門トンネルの他に、国道2号の関門トンネル、山陽新幹線の新関門トンネル、高速道路の関門橋があるが、在来線の関門トンネルのみ大瀬戸を通過しており、他の3経路はいずれも海峡がもっとも狭くなる早鞆の瀬戸を通過している。在来線の関門トンネルは、高架上の下関駅を出て本州から彦島へ渡ってトンネルに入り、弟子待(でしまつ)から大瀬戸の海底下を潜って九州側の小森江に渡り、門司駅構内で地上に出る。在来線の関門トンネルが早鞆の瀬戸ではなく大瀬戸を通過することを選んだのは、早鞆の瀬戸の方が水深が深く、急勾配が許されない鉄道のトンネルでは全長が長くなってしまうことや、既存の鉄道との接続の関係からである。周辺の鉄道路線網は、本州側を山陽本線が通り、下関駅から関門トンネルをくぐって九州側の門司駅へとつながる。一方九州側は鹿児島本線が門司港駅を起点とし門司駅で山陽本線と合流して小倉駅へと通っている。門司港駅は当初門司駅という名前で、門司駅は当初大里駅(だいりえき)という名前であったが、1942年に改称された。山陽本線を建設した私鉄の山陽鉄道は、1901年(明治34年)5月27日に馬関駅(1902年(明治35年)6月1日に改称して下関駅)までが全通した。この時点での下関駅は、細江町に所在していた。一方九州の鉄道網を建設した初代九州鉄道は、これより前の1891年(明治24年)4月1日に門司駅までを開通させ、九州地方一円に順次鉄道網を張り巡らせていった。山陽鉄道ではこの間の連絡を図り、鉄道がまだ徳山駅までの開通だった1898年(明治31年)9月1日から、山陽汽船商社を通じて徳山 - 門司 - 赤間関(下関)間の3港間連絡航路を開設した。鉄道が馬関まで伸びると、山陽鉄道は直営で馬関 - 門司航路(関門連絡船)を開設し、本州と九州間の鉄道同士の連絡を行うようになった。鉄道国有法により山陽鉄道は1906年(明治39年)12月1日付で国有化され、関門連絡船も国有鉄道による運行となった。1907年(明治40年)7月1日には九州鉄道も国有化され、関門連絡とその前後の鉄道はすべて国有鉄道が運営するようになった。関門間を通過する貨物輸送は、埠頭に引き込んだ貨物線に貨車を入れ、貨車から貨物を取り出して艀に積み替え、対岸へ艀を曳航して、再び貨車へ貨物を積み込む作業で行われており、積み替えの荷役費や荷造費、貨物の破損の損害などは多額に上っていた。この頃、下関で海運業を営んでいた宮本高次という人物は、若い頃にアメリカに渡って働いた経験があり、その時に現地で鉄道の貨車を船に搭載して運ぶ、「貨車航送」の様子を見たことがあった。そのためこれを日本に持ち込もうと考え、山陽鉄道およびその後継の国有鉄道に出願し、宮本が請け負って貨車航送を行うことになった。貨車航送では、貨車をそのまま船に搭載して対岸に渡すため、貨物の積み替えに伴う損害から解放され、積み替えの都合上取り扱いが制限されていた長尺物・石炭・砂利も取り扱えるようになり、連絡時間も大幅に短縮されることになった。1911年(明治44年)3月1日から日本で最初の貨車航送が開始され、9月末日限りで従来の積み替えを伴う輸送を全廃した。貨車航送に伴う利便性の向上は著しく、輸送量は航送開始前の半年で貨車数にして下り4,762両、上り4,762両相当の貨物輸送であったのに対して、航送開始後の半年では下り8,987両、上り8,823両相当の貨物輸送に増加した。請け負う宮本は貨車1両の航送あたりで受け取る作業料で利益を上げ、国鉄側にとっても宮本に払う請負料は関門間の貨物運賃より安かったので純利益が出ており、さらに荷主に支払う貨物損傷の補填費用が不要となり、貨物輸送の増加や貨車の両岸での融通が可能となるなど、多大な利益を得ていた。荷主も貨物の損傷や紛失の減少に喜んだ。請負に伴う不便もあったため、宮本から設備一切を国鉄が買い取って1913年(大正2年)6月1日付で貨車航送を国鉄の直営とした。この貨車航送は、九州側では小森江付近に発着しており、門司に発着する旅客用の関門航路と区別して関森航路(かんしんこうろ)と呼ばれた。このように船舶による関門間連絡が図られてはいたが、旅客にとってもいったん船に乗り換えなければならないことははなはだ不便に感じられており、また悪天候の際には連絡が途絶することも問題視されていた。山陽鉄道が全通する以前の1896年(明治29年)秋に、博多で第5回全国商業会議所連合会が開催された際に、博多商業会議所から関門間の海底トンネルによる鉄道連絡の提案が既になされていた。鉄道院総裁の後藤新平は、1910年(明治43年)4月に鉄道近代化を目的として業務調査会議を設置し、その一環として第4分科で海陸連絡の検討を行った。1911年(明治44年)4月には、海峡のもっとも狭くなる早鞆の瀬戸で横断する橋梁案の検討を東京帝国大学工科大学教授の広井勇に依頼し、1916年(大正5年)3月に報告書が提出された。また比較としてトンネル案の検討を京都帝国大学工科大学教授の田辺朔郎に依頼した。田辺は実地調査の末1911年(明治44年)12月28日に関門トンネル鉄道線取調書を提出し、これに基づいてさらに鉄道院技師の岡野昇が線路選定を行って諸般の調査を行い、1913年(大正2年)1月に報告を提出した。また田辺がロンドンに出張した機会に、関門海峡の地質で水底トンネルの建設が可能かの調査を国外で行うことを委託され、帰国後1915年(大正4年)5月に工事は可能であると報告した。広井が設計した橋梁はカンチレバー式のもので全長2,980フィート(約908.3メートル)、最大支間1,860フィート(約566.9メートル)、海面上の桁下高さは200フィート(約61.0メートル)で、橋の上には標準軌の鉄道複線、電車用の線路複線、さらに幅12フィート(約3.7メートル)の通路を2本設置する構造とされていた。活荷重についても、当時運行されていた機関車ではクーパーE30(軸重30,000ポンド=約13.6トン)で充分であったのに、クーパーE60(軸重60,000ポンド=約27.2トン)を想定しさらに3割の余裕を見込んでいた。橋への取付は、本州側では一ノ宮駅(後の新下関駅)の南700フィート(約213メートル)の地点で分岐して10パーミル勾配で全長2.5マイル(約4.0キロメートル)となり、九州側では大里駅(後の門司駅)で分岐して10パーミル勾配で全長5マイル(約8.0キロメートル)と見込んでいた。総工費は2142万6118円と見積もられた。これに対して岡野がまとめたトンネル案は、大瀬戸を通過するものであった。これは早鞆の瀬戸では水深が15尋(約27.4メートル)あるのに対して大瀬戸では8尋(約14.6メートル)であり、大瀬戸の方が水底トンネル掘削が容易であるという理由であった。路線は甲案と乙案の2案が選定され、いずれも下関駅の手前の山陽本線328マイル7チェーン(約528キロメートル)地点で分岐して彦島に渡り、彦島南端の田ノ首から南に対岸の新町に渡り、鹿児島本線の5マイル76チェーン(約9.6キロメートル)地点で合流して小倉駅に至る。甲案は乙案より水深が1尋(約1.8メートル)増加する不利があったが、九州側の線路の取付が有利であり、どちらでも大きな優劣はないとした。この他に金の弦岬から赤坂に向かう案も検討したが、水深が浅いという利点はあるもののトンネルの水底延長が長くなり、しかも九州側での線路の取付に不利であるとされた。複線トンネルにした場合、単線トンネルに比べて線路の位置がより低い場所になり、水面下より深い場所を通らなくてはならなくなり、掘削量も増大することから、単線トンネルを前提とした。総工費は田辺により、単線で約668万6000円、複線にすると約1300万円と見積もられた。この他に、到着した列車をまるごと船に積み込んで対岸に渡す渡船案を竹崎(下関駅西側)と門司駅の間、竹崎と大里駅の間、長府串崎と大久保の間の3航路で検討したが、もともと関門海峡は通航する船舶が多く、しかも潮流が激しいところを縫って頻繁にこうした船舶を往復させることは困難であるとした。また橋を架けてその下に客貨車を運搬する搬器を吊り下げて運行する運搬橋を建設する案も検討され、線路を高い位置に持って行かなくて済む利点はあるものの、両岸の山が高くなっている関門海峡では固定された橋の建設がしやすいこと、固定橋では連続的に運行できるのに対して運搬橋では断続的な運行しかできないこと、船舶の運航と支障することに変わりがないこと、そして固定橋と建設費に大差ないと見込まれたことなどから不適切であるとされた。こうして比較した結果、トンネルの方が橋梁よりも建設費が安く、その上爆撃を受けると重要な交通路が途絶するという国防上の問題点を抱えずに済むことから、国鉄ではトンネル案を採用する方針を決定した。1919年(大正8年)度から10か年継続で総額1816万円の予算を計上して第41回帝国議会での協賛を受けた。そして1919年(大正8年)6月から9月にかけて鉄道院技師の平井喜久松が連絡線路の実測調査を行い、また同年7月から10月まで、および1920年(大正9年)7月から10月までの2回に渡り関門海峡大瀬戸の海底地質調査を実施した。ところが、第一次世界大戦後の物価高騰により当初の予算ではトンネルの完成を見込めなくなり、加えて1923年(大正12年)の関東大震災に伴ってその復旧に資金を割かれることになったことから、1924年(大正13年)の第50回帝国議会において大正17年度以降に新規着手する事業は後年別途予算協賛を得る方針となり、関門トンネル予算は一旦削除されてこの時点では建設が見送られることになった。しかし、関門海峡連絡の問題は放置することができず、1925年(大正14年)には鉄道省が再び関門海峡連絡問題の検討を開始し、技師大井上前雄に命じて調査を行わせた。この際には、シールド工法だけではなく沈埋工法も検討対象とした。この結果、再びトンネル案が最良であると結論づけられ、その工法について大井上は、トンネルの強度が大きいこと、圧気中での作業の必要がないこと、より浅い場所にトンネルを通すことができて列車の昇降に伴う損失が少ないこと、建設作業が海峡を通航する船舶に対して与える支障は十分軽微であるとして、沈埋工法が適切であると主張した。これを受けて1926年(大正15年)12月17日に省議により関門トンネルへの着工が決定された。1927年(昭和2年)1月に下関市に工務局関門派出所を設置し、さらに調査を行った。この調査では、約80万円の予算を用いて地質調査、潮流調査、船舶航行状況の調査、測量、そしてトンネル工法の比較検討が行われた。しかし今度もまた、1927年(昭和2年)より発生した昭和金融恐慌の影響もあって工事に着手することができず、1930年(昭和5年)に関門派出所は廃止された。ところが1931年(昭和6年)になると一転して関門間の貨車航送は激増するようになり、そう遠くない時期に行き詰ることは明らかとなってきた。関門間の鉄道連絡船は、旅客輸送にはまだ余裕があったが貨車航送は限界に近付いており、下関駅構内が狭隘なため設備の増強余地もなかった。1929年(昭和4年)時点で設備と船舶を最大限活用した場合、1日168回の運航となり年間に片道143万トンの輸送が可能であるが、1934年(昭和9年)には限界に達するものと見積もっていた。そこで再び関門トンネル建設の声が上がり、鉄道省工務局は再度研究を開始した。1935年(昭和10年)5月27日に、当時の鉄道大臣内田信也は現地で設計を詳細に検討した後帰京し、6月7日の閣議において予算1800万円、4か年の継続工事で昭和11年度に着工するとの承認を得た。これに対して九州側の門司市は、かつて岡野がまとめた田ノ首 - 新町線では門司市を素通りすることになり門司市の繁栄に影響するとして、トンネルの経路を門司市寄りに変更するように求めて田ノ首 - 新町線案への反対運動を展開した。これを受けて鉄道省内で技術委員会を設けて新たに弟子待 - 小森江線の検討を行った。8月14日からボーリングにより弟子待 - 小森江線の地質調査を行い、9月28日に工務局長平井喜久松の現地調査を経て、11月25日に新しい案での建設は可能であると結論をくだした。いずれの経路でも一長一短があるものの、弟子待 - 小森江線は海底区間の延長が約400メートル短く、九州側に旅客駅を新設する必要がなく、また操車場への取付上も有利であるとした。こうして技術的な調査に政治的な配慮を加えて内田鉄道大臣は、弟子待 - 小森江線の採用を決定した。こうして決定された経路について、「関門連絡線新設費」の名目で1612万円の予算を計上し、第69回帝国議会において協賛を得た。翌1936年(昭和11年)7月15日に下関市に鉄道省下関改良事務所が設置され、技師の釘宮磐が所長に任じられて、いよいよ関門トンネルに着工することになった。同年9月19日、門司側の現場において鉄道省の関係者に山口県・福岡県の県知事、下関市・門司市の市長、代議士や下関要塞司令官も参列して起工式が挙行された。関門トンネルの建設は、基本的に鉄道省およびその後継省庁の直轄施工で行われ、下関側の取付トンネルおよび門司側の取付トンネルのうち開削工法を採用した区間についてのみ請負で実施した。工事実施のために1936年(昭和11年)7月15日に下関改良事務所が設置され、以降1939年(昭和14年)8月30日に下関工事事務所、1942年(昭和17年)11月1日に下関地方施設部と順次改称された。その傘下で、下関側からの工事を担当したのが弟子待出張所、門司側からの工事を担当したのが小森江出張所である。請負に付された下関側取付トンネルは間組、門司側取付トンネル開削工法区間は大林組がそれぞれ担当した。ボーリング調査、弾性波調査に加えて、試掘坑道を掘って確認された海底部の地質は以下の通りである。下関方試掘坑道から100メートル付近までは輝緑凝灰岩が分布し、そこから260メートル付近までは花崗岩となっている。花崗岩と輝緑凝灰岩の接触部は接触変質しており、接触面から10メートルほどは輝緑凝灰岩が黒雲母片岩に変化している。花崗岩のうち、200メートル付近は厚さ約20メートルほどの玢岩が貫入している。260メートル付近から厚さ約15メートルの断層破砕帯があり、そこから先は礫岩、砂岩、頁岩などの水成岩(堆積岩)などとなっている。この地層は420メートル付近まで続き、再び約20メートル幅の断層破砕帯を挟んで輝緑凝灰岩層に入る。この輝緑凝灰岩層は、門司側にある花崗岩層の影響を受けて変質している部分がところどころにあり、また玢岩の貫入も見られる。門司方に近づくにつれて次第に玢岩の方が主体となっていく。910メートル付近からは花崗岩層となり、この層もところどころ玢岩の貫入が見られる。鉄道省内に設けられた技術委員会では、トンネルの最急勾配を20パーミルとすることが適当であるとした。これより勾配を緩くすると前後の取付線路の接続に困難をきたす一方で、これより勾配をきつくすると運転に必要とする機関車の数が増大して不経済となるためで、工事費や運転速度、所要両数などを勘案して決定された。ただし、下り線トンネルの施工経験を踏まえて後に建設された上り線トンネルでは、施工が困難な下関側の第三紀層地帯の突破のために被覆を増す必要があるとして、最大25パーミル勾配が設定された。トンネルの工法は、海底下を通常通りに掘っていく普通工法を採用することになり、地質に応じて圧気工法またはシールド工法を併用することにした。これは、関門海峡は潮流が激しく船の通航も多い上に、海底が掘削の困難な岩盤となっていることもあって、海上からの作業(沈埋工法)は困難であると判断されたためである。単線トンネルと複線トンネルを比較すると、複線トンネルは断面積が大きくなり、断面の直径に対応して海底との距離を大きくしなければならなくなるので、海底下より深い場所を通ることになり、トンネル総延長が長くなるとともに前後の既存路線への取付に影響する。また施工自体も単線トンネルの方が複線トンネルに比べて容易であり、さらに完成後トンネル内で列車脱線等の事故が発生した場合に、単線トンネル2本であればもう1本のトンネルで単線運転をすることができるが、複線トンネルでは全面的に運転不能となる恐れがある。これに加えて当面は単線の輸送力で十分であったことから、単線トンネルを採用することにした。後に必要となった時点で追加の単線トンネルを施工して複線とすることになった。また当初から電気運転をすることが想定された。地質調査の結果、区間ごとに以下の工法が採用された。なお以下の記事・図・表においては、山陽本線神戸駅起点でのキロ程を用いて位置を表記し、たとえば508キロメートル881メートル20を508K881M20と略記する。キロ程については、1934年(昭和9年)12月1日に麻里布(後の岩国) - 櫛ケ浜間で岩徳線が開通してこちらが山陽本線となったため、関門トンネル着工時点では下関駅の神戸起点のキロ程は507.6キロメートル、1942年(昭和17年)4月1日付で実施された下関駅の改キロ後は507.0キロメートルであった。1944年(昭和19年)10月11日に再び山陽本線の経路は元の海側を周る線路に戻され、下関駅のキロ程は528.7キロメートルになった。この結果、たとえば1979年(昭和54年)作成の資料では下り線の入口キロ程は530K614Mとなっている。この記事では、工事誌に記載されている着工時点のキロ程で一貫して記載する。まず下関方の取付区間は、地質的にもその他の点でも一般的な山岳トンネルと異なるところがないので、普通工法を採用した。下関方の海底区間は、断層があって複雑な地質であったが、潜水艇による調査で海底が岩盤であることがわかり、弾性波調査によって各部の硬軟の程度もわかっていたことから、セメント注入で湧水を防止しながら普通工法で掘削することにした。これに対して門司側の海底区間は、地質および被覆の関係上、シールド工法を採用することにした。最初に建設した下り線トンネルにおいては、当初海岸付近に立坑を設けてそこからシールドマシンを発進させる計画であったが、試掘坑道においてその付近の地質が予想以上に悪いことがわかり、陸上部での練習を兼ねて鹿児島本線の東側にあたる、511K870M地点から発進させることにした。門司側の坑口付近は、土被りが浅く鹿児島本線に近接していることもあり、開削工法を採用することにした。土被りが6メートルとなる地点からは潜函工法(ニューマチックケーソン工法)を採用した。しかしシールドマシンを発進させた立坑までの最後の約146メートルの区間は、地下に玉石などがあって潜函工法の採用は困難であり、議論の結果圧気工法が採用されることになった。これに対して後に建設した上り線トンネルにおいては、先に建設した下り線トンネルにおいて圧気工法の採用に自信を得たため、圧気工法の採用区間が長くなり、シールド工法は海底区間のみに限定された。先に建設した下り線(第1線)は、508K881M20地点を入口とし、512K480M00地点を出口として、総延長は3,614メートル04である。トンネル内に重キロがあるため、両端のキロ程の差より全長が15.24メートル長い。縦断勾配は、510K772M地点を最低点として、両側とも20パーミル勾配になっている。下関側の入口は東京湾中等潮位を基準とする標高(以下同じ)で+1.80メートル、トンネル内最低地点は-36.39メートル、門司側の出口は-1.99メートルの位置にある。当初は、トンネル中央付近に2パーミル勾配の区間を設定する計画であったが、トンネル上部の被覆をできるだけ厚くするために途中で変更された。後に建設した上り線(第2線)は、508K856M10地点を入口とし、512K460M73を出口として、総延長は3,604.63メートルである。下り線建設の際に、下関側海底区間の第三紀層断層破砕帯の突破に困難を極めたことから、この区間についてシールド工法や圧気工法の採用も検討されるほどであった。しかし労務や資材の都合上普通工法で突破せざるを得ず、後に上り線(第2線)を建設する際には、下り線工事の影響もあることから、海底との間隔が同程度では掘削の自信を持てなかった。このため勾配を犠牲にして海底との間隔を広げることにし、510K697M地点を最低点として、下関側は22パーミル勾配とした。これにより、断層破砕帯においては下り線より約4.5メートル低い地点を通過する。最低地点より門司側では、25パーミル勾配を511K100M地点まで採用して、以降は下り線と同じ20パーミル勾配で出口へ至る。下関側の入口の標高は+0.75メートル、トンネル内最低地点は-38.4メートル、門司側の出口は-1.99メートルの位置にある。水平方向の線形は、下り列車進行方向に対して左に半径600メートルの曲線を描きながらトンネルに進入し、ほぼ直線となって海峡を横断して、門司側で下り列車進行方向に対して右に半径600メートルの曲線を描いて、再び直線となって出口へ至る。上下線のトンネルの線路中心線間隔は20メートルであるが、門司側で潜函工法や開削工法を採用した区間はこれより間隔が狭められている。トンネルの断面については、普通工法区間と圧気工法区間は馬蹄形の断面で、第一号型断面を水圧に対抗するためにやや幅方向に広げ、起拱線より上で半径2.6メートルの半円として、軌条面での幅は3.5メートルである。シールド工法区間では、シールドの蛇行を最大で15センチメートルとして、内部の半径を3.0メートル、環片(セグメント)の厚さを0.5メートルとして外径は7メートルとなった。潜函工法および開削工法の区間ではいずれも、トンネル内側で幅4.8メートル、高さ5.75メートルの断面とした。トンネルの建設前に、関門海峡の海底に対してボーリングにより地質調査を行った。ボーリング作業は、水深が浅い場所では海底に杭を打ち込んで海面上に足場を仮設し、その上にボーリングマシンを据えて実施した。水深が深い場所では、従来は船やポンツーン上にボーリングマシンを据え付けて作業位置に錨を入れて固定して実施していたが、関門海峡の潮流は激しく到底1か所に浮足場を固定することはできなかった。そこで空気タンクを備えた鉄筋コンクリート製の櫓を建造し、タンクに圧縮空気を入れた時は海上に浮きあがって目的地まで船で曳航することができ、タンクから空気を抜くと海底に着底して櫓の上部が作業用の足場となるようにした。高さは約20メートル、重量約480トンある櫓で、1か所でのボーリング作業完了後は海峡の海流が向きを変える(転流する)時間帯を見計らって空気タンクに空気を送り込んで浮上させ、新たな作業地点へ曳航した。櫓は三菱造船彦島工場で製作された。作業に使ったボーリングマシンは、スウェディッシュ・ロック・ドリリング製のクレリウス式A-B型で、当初は日本国外から雇い入れた技術者の指導を仰いでボーリングを行った。1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけての調査では、田ノ首 - 新町線の計画経路に沿って4か所のボーリング調査を行った。続いて1927年(昭和2年)3月23日から1929年(昭和4年)7月20日までかけて、大正時代の調査とはやや異なる経路で19か所におよぶボーリング調査を行った。さらに1935年(昭和10年)8月13日から11月28日にかけて、弟子待 - 小森江線の経路を調査するため、下関側陸上2か所、海底7か所、門司側陸上6か所の合計15か所でボーリング調査を行った。この際海底ボーリングには、前回の調査後宇部沖ノ山炭鉱に譲渡されていた櫓を借り受けてきて使用した。この際は、田ノ首 - 新町線との比較であったため、実際の弟子待 - 小森江線経路上での海底ボーリング調査は4か所であった。ダイナマイトによって人工地震を起こし、その振動を地震計で記録し分析することによって地質を推測する弾性波調査も実施された。1936年(昭和11年)10月から12月にかけて、東京帝国大学地震研究所および鉄道省大臣官房研究所、本省建設局の3者によって海底部の弾性波調査が実施された。船からダイナマイトを海底に沈め、爆破と同時に無線でそれを通報し、弟子待と小森江に備え付けられた地震計でその揺れを計測した。また巌流島と門司の防波堤上のトランシットを用いて船の位置を測量して爆破位置を確定した。地質が堅いほど弾性波は速く、花崗岩や玢岩、変成岩などでは秒速5キロメートルを超えるが、軟らかい岩石では秒速3キロメートル程度、風化帯や土砂では秒速1.5キロメートル程度であり、測定された弾性波速度から各地点の地質を特定した。また、下関方の取付トンネルにおいても、1938年(昭和13年)3月6日から月末にかけて弾性波調査が行われ、トンネル坑口から約500メートルの地点に大きな断層があることが発見された。一方、水中微動計を用いた調査も実施した。海底に微動計を沈め、門司方試掘坑道内のダイナマイトを爆破してその振動を計測するもので、1939年(昭和14年)2月6日から3月5日にかけて実施した。しかし、試掘坑道においてズリを運搬するトロッコの振動が伝わるため、坑内の作業を打ち切るタイミングと海上の潮流が収まって測定に好都合なタイミングを一致させなければならず、船と坑内の連絡がうまく行かないために測定は困難で、途中で打ち切られた。そのため、下関方で微動計を用いた調査を6月9日から36日間に渡って行った際には、試掘坑道ではなく海底にダイナマイトを据え付けて観測を実施した。これにより、510K540M付近に幅約15メートルの断層破砕帯が、510K700M付近から先に軟弱地帯があることが判明した。関門海峡の潮流は速く、海底に漂砂があるとは考えられなかったが、念のために西村深海研究所所有の西村式潜水艇を用いて海底の調査を実施した。西村式潜水艇は、下関市出身で当時は東京で水産業を営んでいた西村一松が開発したもので、全長10メートル弱、幅2メートル、21トンあり、魚類や水棲植物の観察を目的としたものであった。この潜水艇を借り受けて海底の調査を行うことにし、真鶴半島から17日かけて母船の第六松丸に曳航されて関門海峡へ到着した。潜水艇は、操縦士の他には2人が乗れるだけの大きさで、3,000ワットの電灯で照らされる海中を小さなガラス窓から観察した。海流がある時は潜航できないため、調査は転流時の30分ほどに限られた。1937年(昭和12年)1月15日から2月2日までかけて潜水艇による海底調査を実施し、事前の予想通り漂砂はないことが判明した。下関方の作業場所は、彦島の弟子待に建設された。1937年(昭和12年)1月6日に、現地の民家を借り受けて弟子待見張所(後に弟子待出張所)が設置され、諸建物類の建設を行って8月下旬に竣功した。各種の倉庫、労務者の宿舎、機械類の修理工場、削岩機修理工場、木工所、コンクリート混和設備などが建設された。セメントやズリの運搬には川崎車輛製の蓄電池式機関車を4両使用し、軌間は坑内・坑外ともに610ミリメートルとした。現地付近の海底が浅く浚渫も困難であったことから、ズリを船舶で運び出すことは困難とされ、現地付近でズリを処分することになった。当初は出張所敷地内の建物用地の埋立造成にズリを利用し、それが完了すると出張所から約600メートル離れた水田を埋め立てる契約をして捨て場とした。坑内で消費する圧縮空気を供給するために、空気圧縮機を設置した。日立製作所製150馬力のものを3台設置したが、次第に空気消費量が増大したため、製の150馬力のものと75馬力のものを順次増設した。また立坑にはエレベーターを設置した。試掘坑道用の立坑エレベーターは三菱電機製で、昇降距離55メートル、最大荷重3トン、電動機30馬力であった。下り線用の立坑エレベーターは、6トンの能力のものが必要と計算されたが、当時日本ではこの規模のものの製作が難しかった。しかし為替の都合などから輸入も難しいとされたため、三菱電機が新たに開発を行って当時の日本で最大規模のエレベーターを完成させた。昇降距離39.44メートル、最大荷重6トン、電動機60馬力のものを2組設備した。上り線用には下り線用のものを移設して使用した。弟子待出張所は離島の彦島にあり、当時は民間の小船舶が本土との間を運航していたが、少しの時化でも欠航して不便な状態であった。機材の運搬は船に拠らなければならなかったので、弟子待出張所の海岸に桟橋を建設し運用した。門司方の作業場所については、試掘坑道への立坑を鹿児島本線より海岸側に設置した。当初は試掘坑道立坑付近に本線用の立坑も設置する予定であったが、試掘坑道用立坑の地質が予想外に悪かったこともあり、立坑の位置を鹿児島本線より内陸側に変更することになった。そこで、当初は試掘坑道立坑付近に仮設備を配置し、後に一部を本坑の立坑位置付近に移設した。試掘坑道用立坑以外の門司出張所の建物類はほとんどが鹿児島本線と国道に挟まれた土地に建設されることになった。こちらにも下関方と同様に各種の倉庫、修理工場、コンクリート混和設備などが建設された。シールドトンネル内では主に川崎車輛製および日立製作所製の蓄電池式機関車を用い、軌間は610ミリメートルであった。大里駅から門司出張所内へ専用線を敷設し、工事用臨時列車を門司鉄道局に委託して運行してズリの搬出作業を行った。専用線内の入換作業は現場の担当であったため、入換用軽便機関車を15トン機と10トン機の2両準備して使用した。ズリは門司操車場に運搬して盛土に使用した。門司側でも下関側同様に坑内で消費する圧縮空気を供給するための空気圧縮機を設置した。試掘坑道用にはインガーソル・ランド製75馬力のものを2台設置し、本線用には主にシールドマシンの動作のために日立製作所製150馬力3台、インガーソル・ランド製400馬力6台、日立製作所製400馬力2台と多数の空気圧縮機を設置した。また試掘坑道用および下り線用にそれぞれ立坑エレベーターを設置し、上り線工事時には下り線用のものを転用した。小森江の海岸付近にも桟橋を造成して使用した。前述したように、門司方海底区間ではシールド工法が採用された。シールド工法は、1825年からのテムズトンネルの建設工事に初めて用いられ、欧米諸国で次第に発展して普及したトンネル工法であった。日本では1919年(大正8年)に羽越本線折渡トンネルで初めて横河橋梁製のシールドマシンを使った掘削が行われたが、予定の300メートルを掘削できずに推進不能となり、その場で埋め殺しとなった。また丹那トンネルの建設工事の際には、水抜き坑の建設のためにシールド工法を採用した実績があった。このように、シールドトンネルの技術は日本では未熟であり、関門トンネルの工事においても当初は日本国外の業者に請け負わせるか、機械を輸入して専門の技術者を招聘するという意見も根強かった。しかし、丹那トンネルの工事を経験してトンネル工事の技術に日本の土木技術者が自信を持つようになってきていたことや、軍事上重要な要塞地帯であった関門地区の鉄道建設に対して日本国外を関与させることが望ましくなかったことから、日本の技術でシールドマシンを製作して工事を行うことに決定した。シールドマシンの設計は、村山朔郎が担当した。村山は、1935年(昭和10年)に京都帝国大学土木工学科を卒業して鉄道省に入省した若手土木技術者で、主にアメリカ合衆国で発行された技術文献を参考にシールドマシンの設計に取り組んだ。設計されたシールドマシンの本体は三菱重工業、シールドジャッキは神戸製鋼所、環片(セグメント)は久保田鉄工所が担当して製作した。シールドマシンは、初期には様々な形状のものがあったが、関門トンネル工事の時点では諸国とも円形断面のものがほとんどであり、関門トンネル用のシールドマシンも同様に円形断面を採用した。セグメントリングの外径は7メートルであり、各国の例を参考に22ミリメートル厚の鉄板3枚を重ねた尾部を採用し、またセグメントリングに対する余裕を50ミリメートル見込んだため、合計してシールドの外径は7,182ミリメートルとなった。尾部の長さは、下り線用について環片2個分の1,500ミリメートルに余裕250ミリメートル、シールドジャッキの沓の長さ310ミリメートル、環片とシールドジャッキの間の余裕50ミリメートルとして合計2110ミリメートルとし、上り線用については環片2個分を1,600ミリメートルに余裕を200ミリメートル、環片とシールドジャッキの間の余裕を100ミリメートルとしたため合計2,210ミリメートルとなった。ジャッキ本体部の長さは上下線とも1,700ミリメートル、この先に地山に食い込む刄口が設けられ、また作業員が安全に作業できるように上部は庇状に伸ばしたことから、この部分の長さは上部で1,600ミリメートル、下部で800ミリメートルとされた。この結果、シールドマシンの全長は下り線用で下部5,010ミリメートル、上部5,810ミリメートル、上り線用で下部5,110ミリメートル、上部5,910ミリメートルとなった。総重量は約200トンである。シールドマシンを推進するシールドジャッキは、200トンの能力のものを下り線用で24本、上り線で22本装備した。イギリス・アメリカ・フランスなどシールドトンネルの施工実績のある国の例を参考に研究して、推進能力を設定した。常用水圧は400 kg/cm、シリンダー有効直径は250ミリメートル、最大衝程1,110ミリメートルであった。また、シールドマシン内部の作業床の出し入れをする可動床ジャッキと、山留に使用する山留ジャッキを装備した。また水圧動作で環片を組み立てる環片組立機(セグメントエレクター)を装備した。小規模のシールドマシンでは人力でセグメントを組み立てる例もあるが、関門トンネルの規模では機械力によるのは必須であった。シールドとは別に移動式の組立機を用意する例もあるが、関門トンネルではシールドに固定された組立機を採用した。また、電力によって動作する組立機の実例もあったが、他のジャッキ類がすべて水圧動作であるため水圧式の組立機を採用した。組立機は、伸び縮みするアームを回転させられるようになっており、環片をアームの先でつかんで固定して所定の位置へアームを回転させ、アームを伸ばしてトンネル壁面の所定の位置へ環片を据え付ける動作をした。シールドトンネルにおいて壁面を形成する覆工は、環片(セグメント)と呼ばれるブロックを組み立てて構成し、さらにその内側に第二次覆工としてコンクリートを巻きたてることが普通である。環片の組み立ては、シールドマシンの尾部内側で行われ、輪環(リング)を構成した後、シールドジャッキをリングに押し当ててシールドマシンの推進を行う。第一次覆工として組み立てる環片の材料は木材、コンクリート、鋼鉄、鋳鉄などの種類があるが、関門トンネルにおいては結果的に鋳鉄を採用し、後に鉄材節約の目的で一部に鉄筋コンクリート製の環片を採用した。輪環は外径7メートルで、1つの輪環を構成するためにA型9個、B型2個、K型1個の合計12個の環片を使用した。A型は通常の環片で、トンネル断面方向から見ると扇形になっており、これに対してB型は隣にK型を嵌め込むために一方の端の傾きが逆になっている。K型は、A型とB型を嵌め込む作業が終わった後に最後に挿入して輪環を完成させる部位に使うものである。トンネルの進行方向を調整するために、環片の長さを変えた異形環片も用意された。環片の外周部における円周方向長さはA型で1,969.2ミリメートル、B型で1989.2ミリメートル、K型で288.2ミリメートルであった。また環片のトンネル長方向の長さは、シールドジャッキの繰り出し長さに影響するため、下り線トンネルにおいては慎重を期して750ミリメートルとし、自信を得たため上り線トンネルにおいては800ミリメートルとした。環片の厚さは280ミリメートルあり、1個の重量は約1トンであった。環片の総製作数は約13,000個に上った。ただし、上り線トンネルの陸上部においては、鉄材節約の目的で1輪環の重量を約4割減らした薄型の環片を10組分試作して使用した。同様に鉄筋コンクリート環片も製作され、1個の重量を1トン以内に収める目的でこの区間については1輪環を13環片で構成した。鉄筋コンクリート環片は破損しやすく、組み立てた後の輪環形状の修正が困難で形が狂いやすい、といった欠点があり、上り線トンネルにおいて17輪環のみ施工された。関門トンネルではシールド工法に圧気工法を併用したため、シールド工法区間の端に隔壁を設けた。想定圧力は40ポンド重毎平方インチ(約27万6000パスカル=約2.72気圧)とした。隔壁の直径は6.44メートルで、想定圧力の時約920トンの力を受け、厚さ3メートルのコンクリートで隔壁を構築した。この隔壁を通過するために気閘(エアロック)を3組装備した。材料気閘は大型材料や資材運搬のトロッコを通過させるための気閘で、運搬車の幅0.98メートル、高さ1メートルに対して開口部を1.3メートル×1.55メートルとし、気閘内径は2.48メートル、長さは11.8メートルであった。トロッコの線路は扉の開閉のたびにはめ外しを行う必要があり、空気ピストンを利用した仕組みを準備した。作業員気閘は作業員を通過させるための気閘で、40人を収容できるものとして長さ7,800ミリメートル、内径1,780ミリメートルのものを設置した。非常気閘は、坑内の噴発や火災の事故に備えて作業員の避難用としたもので、長さ8,800ミリメートル、内径1,780ミリメートルあり、事故に備えて常時坑内側に扉を開けた状態にしてあった。また非常気閘の坑外側は2,070ミリメートルの位置で区切って扉を設けてあり、少人数の出入り用の職員気閘としても使えるようにしてあった。関門トンネルの工事では、シールド工法および圧気工法を採用した区間があるため、常時多量の電力を必要とし、空気圧縮機や排水ポンプが停止する事故は避けなければならなかった。このため周辺の変電所や余剰電力の状況を調査して電力供給の計画を立てた。第二次世界大戦後の日本では、地域別に商用電源周波数の統一作業が進められ、九州地方では60ヘルツ電源へと統一された。しかし統一作業が実施される以前は、北九州地区は50ヘルツで電力供給されており、下関側の60ヘルツと周波数の相違が存在していた。そのままでは機械の運用上不便で、試掘坑道貫通後に双方の工事現場を単一配電にして電力の融通を図ることができなくなるので、下関側の変電所に周波数変換機を設置して、工事現場はすべて50ヘルツの電源に統一することにした。下関側は山口県電気局(後に中国配電)、門司側は九州電気軌道(後に九州配電)が電力供給を行った。山口県電気局側では、電力は前田火力発電所から彦島変電所を経由して3,300ボルトで受電し、工事最盛期には1,000キロワットの消費を見込んだ。九州電気軌道側では、当初は大里変電所と門司第二変電所からの受電を想定したが、最終的に小倉火力発電所および大門火力発電所から特別高圧送電線を経て鉄道省の小森江変電所で受電する方式を選択し、大里変電所および門司第二変電所からの受電は予備電源とすることにした。3,300ボルトで現場へ供給し、工事最盛期には2,000キロワットの消費を見込んだ。下関側は彦島変電所からの1回線のみであるため、停電に備えるためにディーゼルエンジンによる非常用の発電所を受電設備に併設することになり、鉄道省営の弟子待発電所とされた。非常用発電所は、どうしても停電を避けなければならない設備である、排水ポンプ、エレベーター、坑内電灯に限って電力を供給できる容量で設計することになり、余力がある時に空気圧縮機やセメント注入などの設備に回すこととされた。試算の結果、最小限維持する必要がある設備の電力消費は191キロワットとされたため、200キロワットの発電機を予備を含めて2機設置した。ディーゼルエンジンは池貝鉄工所製、発電機および配電盤は富士電機製、付属ポンプ類は荏原製作所製であった。諸般の地質調査により、ある程度海峡の地質は把握できており、小規模の坑道であれば掘ることができるという自信を得たため、本線坑道より深い場所に試掘坑道を先に掘削することにした。試掘坑道は、本坑掘削の前にあらかじめ地質を確認して本坑の施工計画を立て、必要に応じてセメントの注入作業を行い、また本坑工事の際の排水路となることを目的としていた。さらに可能であれば、試掘坑道から本坑に取りついて、掘削箇所を増やすことで工期を短縮することも狙い、本坑完成後は電力・通信ケーブルを収容し排水路とすることも目的としていた。この試掘坑道は、取材の新聞記者により「豆トンネル」という愛称が付けられた。試掘坑道は、下関方・門司方それぞれで立坑を掘削し、そこから海峡を横断する形で建設されている。本坑が、両側から海峡中央付近へ下って行く線形をしているのに対して、試掘坑道は立坑の位置がもっとも低くなっており、両側から海峡中央へ向かって上って行く線形となっている。これは、本坑工事中の湧水を試掘坑道に落とすことで、水が試掘坑道両端に自然に流れて、そこからポンプで排水ができるようにするためである。下関方の立坑は、1937年(昭和12年)1月に弟子待出張所を開設するとすぐの1月7日に掘削工事を開始し、7月に掘削工事完了、11月5日に竣功した。立坑の内径は4.2メートル、深さは55.14メートルであった。工事は素掘りであり、ダイナマイトで発破をかけてズリを運び出して次第に下って行った。覆工は、途中3か所に足を付けてそこから上部へ施工していく方法で実施した。掘削量は2,250立方メートルで延べ人員6,030人を使用し、覆工量は650立方メートルで延べ人員3,040人を使用した。門司方の立坑は、1936年(昭和11年)10月7日に着工したが、予想以上に地質が悪くて難航し、1937年(昭和12年)6月には近隣火災のために出張所の建物が類焼するという被害もあり、立坑すべての竣功は1938年(昭和13年)6月5日となった。施工の都合上、立坑の内径は上部で5.2メートル、下部で4.2メートルとし、当初は深さは43.5メートルの予定であったが、坑道縦断勾配の変更に伴い45.8メートルになった。当初、地表から8メートル付近まで素掘りを行い、以降井筒工法(オープンケーソン工法)に切り替える予定であったが、地質の悪化により地表から6.2メートルで素掘りを打ち切って井筒工法に切り替えた。井筒は内径5.2メートル、外径6.4メートルの鉄筋コンクリートで、1回に3メートルずつ沈下させた。しかし約300トンの荷重をかけて実施した8回目の沈降途中に井筒に亀裂が入り、深さ24.5メートルの位置で井筒工法は打ち切られた。以降は再び素掘りに切り替えて掘削し、1937年(昭和12年)9月30日に予定の45.8メートルまでの掘削を完了した。試掘坑道は全長1,322メートルで、勾配は当初両側から2.5パーミルを予定していた。しかし相当の湧水が想定されたことから、勾配をきつくして7パーミルに変更した。工事中に下関方の坑道で崩壊事故が発生して進行が遅れた結果貫通点が変更され、門司方の勾配は途中で5パーミル、さらに3パーミルへと変更した。試掘坑道内は、軌間610ミリメートルの資材運搬線路を複線で敷設しさらに内径57センチメートルの換気管を設置するものとして、幅2.5メートル、高さ2.5メートル、上部を半円形とした断面で施工した。下関方からは、立坑が完成するとすぐに1937年(昭和12年)11月18日から坑道の水平掘削を開始した。当初は湧水は少なく、全断面掘削で順調に進行した。途中、ボーリングにより前方の地質を探りながら進行した。やがて断層破砕帯に差し掛かり湧水量も増加したため、セメント注入を繰り返しながら前進するようになった。次第に湧水が増加し地質が軟弱となってきて覆工作業を急いでいた1938年(昭和13年)10月4日4時頃、416メートル地点において突発的に濁水が噴出し、土砂が流出し始めた。作業員を非常呼集し流出防止の土留を設置し、次第に湧水が減少したこともあり崩壊量は約60立方メートルで済み、10月8日までに391メートル地点に厚さ3メートルのコンクリート隔壁を建設して残りの埋め戻し作業を行った。以降、ほぼ2か月かけてコンクリート隔壁内にセメントの注入作業を行った。セメント注入量の余りの多さに海底を調査したところ、セメントの噴出物が固まった形跡が海底に見つかるほどであった。1939年(昭和14年)1月から掘削作業を再開して、セメントの周りもよく無事に元の掘削地点を通過し、土圧が大きくなるたびにセメント注入を実施して掘削を推進した。門司方からは、1938年(昭和13年)4月26日から坑道の水平掘削を開始した。立坑から230 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400メートルの間は湧水量も多く二段掘りにしたが、それ以外の区間は地質は良好で、全断面掘削で順調に進捗した。1939年(昭和14年)4月に入ると双方とも順調な掘削状況となっていた。ちょうどこの頃、内務省により国道関門トンネルの試掘坑道も早鞆の瀬戸で掘削が進んでいた。4月6日の時点で、内務省の国道トンネルは残り79メートル、鉄道省の鉄道トンネルは残り189メートルとなっており、世間では国道トンネルの方が先に貫通するものと見ていた。しかし国道側は地質の悪い場所に差し掛かって進捗が鈍っており、鉄道側では下関側・門司側で進行量の大きかった現場に日当の1割増しを行うとして、猛烈な巻き返しを図った。双方の現場を合わせて1日の掘削距離が19.3メートルに達する日も出た。4月17日夜半、残り約10メートルの段階で門司側からボーリングにより穴が通り、その後下関側から掘削を進めて残りを1メートルとした。4月19日10時、東京の鉄道省大臣室から前田米蔵鉄道大臣の電鈴を合図に最後の発破を行い、試掘坑道は貫通した。下関立坑中心から569メートル、門司立坑中心から753メートル地点で、双方の坑道のずれは水平に405ミリメートル、垂直に182ミリメートルであった。国道の試掘坑道が貫通したのは、鉄道に遅れること1週間であった。門司方の試掘坑道は7月31日、下関方の試掘坑道は8月5日に竣功となった。本線トンネルの工事に利用した後も、排水に利用するために試掘坑道は修築の上存置された。すべての排水ポンプが機能を停止したとしても、本坑より低い位置にある試掘坑道に水を流すことで本線トンネルの浸水まで時間を稼ぐことができる。この当時計測されたトンネル内の湧水量に加えて、トンネル外の雨量が1時間に30ミリメートルの時に、ポンプ所に到達する水の量は下関側2.46個(1秒間に2.46立方尺=約68.5リットル)、門司側0.17個(1秒間に0.17立方尺=約4.7リットル)となり、試掘坑道が満水になって上り本線の軌条面まで水が達し、より高い位置にある下関側の最後のポンプが浸水して運転不能になるまで17時間かかる計算とされた。こうしたこともあり、第二次世界大戦後も引き続き試掘坑道の修築工事が行われ、二次覆工の施工、不要な待避所の埋戻し、覆工裏側への豆砂利・セメント・火山灰などの注入作業が実施された。試掘坑道が全体の5分の1程度までしか掘削が進んでいない時点で、本トンネルの掘削にも着手することになった。海底トンネルという特殊な環境下での工事で、慎重な推進を求める意見も国鉄内部にはあったが、戦時下でもあり軍部から工事促進への圧力もかかっているという事情があった。下関方立坑は510K271M地点に設置し、海底部の地質が予想以上に悪くて将来シールド工法を採用しなければならなくなった場合に備えて、シールドマシンの部品を通せる寸法を考えて、内径を7メートルとした。地表面から約15メートルまでは花崗岩の風化帯、それ以下は硬質な花崗岩であった。湧水により作業を妨げられないように、あらかじめ100ミリメートル径の水抜き坑をボーリングしておき、これを試掘坑道立坑から建設した横穴に連絡させて水を抜くようにした。1937年(昭和12年)11月に地上部のエレベーター設備から準備を開始し、12月1日から掘削を開始し、翌1938年(昭和13年)2月28日に縦坑底部まで到達した。竣功は5月31日である。下り線の下関方陸上取付部は、入口から下関方立坑までの1405.14メートルで、普通の山岳トンネルと同様の施工を行った。地質は入口から約900メートルが玢岩および風化した輝緑凝灰岩、残りの約500メートルが硬質な輝緑凝灰岩であった。湧水はそれほど多くないと予想されたが、入口から下り勾配で建設するのは困難であると予想され、入口付近にはズリの捨て場として妥当な場所も無かった。一方で立坑から掘削すると海底部の工事と競合することになることから、結局509K580M付近に斜坑を建設してここから工事に着手することになった。海底部分はその性質から鉄道省の直轄施工であったが、できるだけ直轄施工は少なくする方針であったため、取付部は間組の請負工事とされた。ただし、立坑から509K880Mまでの約400メートルについては、海底区間の施工方法の試験などに用いるために直轄施工とすることになり、またそこから斜坑までは排水のために底設導坑のみ直轄施工とすることになった。下関方取付部は、1938年(昭和13年)5月3日に着工した。まず、杉田斜坑を509K580M地点に、下り列車進行方向に対して右側から、本線に直角に建設した。勾配は2分の1で、幅4メートル×高さ3メートルの断面とし、松丸太の支保工を用いて掘削して1938年(昭和13年)10月に完成した。なお杉田斜坑は本線トンネル完成後に土砂で埋め戻した。1938年(昭和13年)10月1日から、斜坑から下関方入口へ向けて導坑掘削を開始し、10月28日には下関方入口からの導坑掘削も開始した。1939年(昭和14年)5月20日に入口から263メートル、斜坑から708メートルの地点で貫通した。また斜坑から立坑へ向かっては、斜坑から約90メートル掘削した時点で縦坑側から直轄で掘削してきた底設導坑と1938年(昭和13年)12月23日に貫通した。以降、底設導坑を本断面へ切り広げ、覆工を実施した。覆工作業中、1940年(昭和15年)2月15日12時45分頃に509K126M付近において、延長約36メートルに渡って約1,000立方メートルの土砂が崩壊する事故が発生した。崩壊の数日前から降雨が続いて付近一帯の地盤に緩みが生じ、切り広げ工事により平衡を失って崩壊したものと推定された。作業員は出坑中であったため人的被害はなかった。この区間の突破作業には65日間を要した。下関方取付部の工事に伴い、地下水位が低下して井戸が枯渇する被害が発生した。このため下関市に委託して水道の工事を行うとともに見舞金を支払った。また地下水位低下に伴って土地が乾燥陥没を来たして家屋が傾く等の被害も生じ、見舞金と復旧工事費を支払った。下関方取付部は、1940年(昭和15年)6月28日に竣功となった。掘

出典:wikipedia

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