蘆名 盛隆(あしな もりたか)は、戦国時代の陸奥の戦国大名。蘆名氏第18代当主。永禄4年(1561年)、須賀川二階堂氏の第18代当主・二階堂盛義の長男として生まれる。永禄8年(1565年)に父・盛義が蘆名盛氏に敗れて降伏したとき、人質として会津の盛氏のもとに送られた。ところが、天正3年(1575年)に蘆名氏第17代当主・盛興が継嗣を残さずに早世すると、盛興未亡人の彦姫(叔母にあたる)を自らの正室に迎えた上で、盛氏の養子となって第18代当主となり、天正8年(1580年)に盛氏が死去すると実権を掌握した。この頃、天正9年(1581年)、盛隆と叔父の伊達輝宗は、越後の新発田重家が後継者争い(御館の乱)の後に新たに越後国主となった上杉景勝に対して不満を募らせている状況を見て、上杉に対して反乱を起こさせるべく様々な工作を行った。6月16日、重家は一門衆のほか、同族加地秀綱ら加地衆や、御家騒動の際に景勝の対立勢力だった(上杉景虎方)豪族らを味方に引き入れ新潟津を奪取し支配、以降7年間に渡って景勝を苦しめる。この頃、北陸地方で上杉氏と争っていた織田信長はこれを挟撃するべく、上杉氏を離反した新発田重家及び東北の諸大名の懐柔のため外交を始めた。当初、盛隆は上杉景勝とも誼を通じ度々連絡を交わしていたが、天正9年(1581年)に家臣の荒井万五郎を上洛させ信長と交渉を行った(これについては、『信長公記』『当代記』『異本塔寺長帳』『会津旧事雑考』『会津四家合考』などの史料に言及があるが、史料ごとに差異がある)。これは、盛隆から接近したとも、信長が景勝を挟撃するために盛隆を誘ったともいわれる。盛隆は信長に名馬3頭・蝋燭1000挺を献上すると、信長はこれに応えて、盛隆が三浦介に補任されるよう朝廷へ斡旋した。蘆名氏は三浦義明の末裔であり、盛隆にとって三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは名誉であり、信長もこのことで盛隆の心を掌握しようとしたと考えられる。その後、盛隆は重臣の金上盛備を上洛させている。信長と接近したことで、盛隆は上杉景勝との関係が疎遠になった。その後も景勝からは新発田氏挟撃などの援軍の要請などがあったが、盛隆はこれに対して曖昧な態度を取り続けることに終始し、天正10年(1582年)には景勝からの出兵依頼を断るどころか、金上盛備に重家を援護させ、赤谷城に小田切盛昭を入れるなど、重家を援護する介入を行った。蘆名氏当主となった盛隆は、父・盛義と共に蘆名氏の力を用いて衰退していた実家の二階堂氏の勢力回復に務めた。そのため、元は二階堂氏からの人質であった盛隆に反感を抱く家臣による反乱がたびたび起こった。上記の新発田氏支援に対抗するため、上杉景勝は蘆名家中の撹乱を狙い、重臣の直江兼続に命じて富田氏実や新国貞通などの盛隆に反抗的な重臣達を調略し反抗させることで、蘆名氏に揺さぶりをかけた。天正12年(1584年)6月に盛隆が出羽三山の東光寺に参詣した隙を突かれて栗村盛胤・松本行輔らに黒川城を占拠されたが、盛隆はこれを素早く鎮圧し、7月には長沼城主の新国貞通(栗村の実父)を攻めて降伏させた。同年10月6日、黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した。享年23。家督は生後1ヶ月の息子・亀王丸が継ぎ、亀王丸の母・彦姫が隠居した兄・伊達輝宗の後見を受けて蘆名氏をまとめることになった。しかし、輝宗の跡を継いだ政宗は同盟関係を破棄して蘆名氏を攻め(関柴合戦)、亀王丸も天正14年(1586年)に疱瘡を患って夭逝するなどの不幸が重なり、蘆名家中は混迷した。この盛隆の早すぎる死が、蘆名氏滅亡を早めた原因といえる。
出典:wikipedia
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