松平 忠頼(まつだいら ただより)は、安土桃山時代から江戸時代の武将、大名。武蔵松山藩の藩主、美濃金山藩主、のちに遠江浜松藩主。のちに摂津尼崎藩主家となる桜井松平家本家を継いだが、その死に様についてもしばしば言及される人物である(後述)。天正10年(1582年)、松平忠吉の次男として生まれる。慶長5年(1600年)、兄・家広の跡を継いで武蔵松山の1万石を得て、関ヶ原の戦いでは東軍に与して三河岡崎城の守備を務め、戦後は尾張犬山城と美濃金山城を守備、1万5000石を加増されて2万5000石となる。次いで、さらに2万5000石を加増され、5万石として遠江浜松藩に移封された。慶長12年(1607年)には、徳川家康の隠居城であった駿府城が火災にあった後の普請に参加している。慶長14年(1609年)9月29日、従弟の水野忠胤の江戸屋敷に招かれて宴席に参加していた際、同席していた久米左平次と服部半八の両名が囲碁の勝敗をめぐって口論、刃傷に及んだ(服部と懇意であった忠頼がしきりに服部に対して囲碁の助言をしたのが喧嘩の原因とされる)。この争いを観た忠頼は仲裁に入ったが、逆上した左平次によって刺殺された。享年28。なお、この事件の責任をとる形で、宴席の主催者である水野忠胤、喧嘩の一方の当事者である服部半八は切腹を命じられている。死後、長男の忠重は幼少(9歳)であったため、また殺害された経緯から末期養子による家督相続は認められず、松平家は一旦改易され、浜松には徳川頼宣の家老水野重仲が入った。ただし、忠重は翌年8000石を新たに武蔵国深谷に拝領し、その後は4万石となり大名に復帰している。
出典:wikipedia
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