三重県立四日市高等学校(みえけんりつ よっかいちこうとうがっこう)は、三重県四日市市富田四丁目に所在する公立の高等学校。通称は「四高」(しこう)。全日制の普通科、普通科国際科学コースとともに、2005年(平成17年度)まで通信制も設置していた。1974年(昭和49年)から1995年(平成7年)までは三重県立四日市南高等学校と学校群制度を組んだ。「文武両道」をスローガンに学問と部活動の両立を目指している。教育方針は「勉学と運動の両立を目標とし個性の伸長と品性の陶冶に努め、もって我が国及び国際社会における有為で心豊かな人材を育成する」である。学校群制度導入のおかげで1990年代初頭には進学校とは言えない状況にまで低下したが、学校群制度廃止後に徐々に実績が回復し2010年代初頭に津高校を上回った。近年は三重大附属からの進学者も迎えている。21世紀以降は、東京大学合格者が国際科学コース在籍生徒を中心に10名前後にまで増加し、京都大学へは毎年20名前後、名古屋大学へは40名前後の進学を果たしている年度も見られる。浪人後に難関大学を受験して合格する人物も見られる。佐佐木信綱作詞、弘田龍太郎作曲。歌詞は三番まである。一番では伊勢の海の音を聞きながら学ぶ様子が、二番では真理を求める学生と鈴鹿の山が、三番では学生の意志と四高の目標が謳われている。八稜星と定められている。三重県第二中学校の校章の中央に記された「二中」の文字を「高」に置き換えたものである。「希望に輝く若人の多方面に発展しようとする情熱をかたどり、中央の「高」はその若人達の固く団結している学園を象徴している」としている(公式ホームページより)。1948年(昭和23年)の三重県立四日市高等学校の設立に伴い、通信教育実施校に決定し、通信制課程の募集を開始した。当初は制度や教材の不備などもあり大半が中途退学していたが、学習進度表、認定試験、スクーリングなどが定着するにつれて徐々に卒業者が増加した。1957年(昭和32年)には通信教育のみによる卒業生が誕生した。1959年(昭和34年)からは合宿スクーリングが開講されたほか、協力校の設定、東海3県交歓会への参加(1958年~)、クラブ設置(1955年)、生徒会の設立などによって教育環境が整備された。1962年(昭和37年)には集団入学が開始され、翌年随時入学が廃止された。集団入学は1997年(平成9年)に東洋紡績株式会社(東洋紡績富田工場)在籍の4名が卒業するまで続けられた。また、1975年(昭和50年)には国立療養所鈴鹿病院の筋ジストロフィー患者の入学を認め、加佐登学級が誕生した。これは1989年(平成元年)に三重県杉の子養護学校高等部が設置されたことに伴い廃止された。全日制と通信制の生徒の間にはほぼ交流はなく、文化祭も別々に行われていたが、卒業式は全日制と一緒に行われていた。通信制普通科が設置され、定員は300名であった。2006年(平成18年)に三重県立北星高等学校の設立に伴い、募集を停止した。家庭科室のある建物は1986年(昭和61年)に宿泊施設として整備され、1クラス分の生徒が泊まることができた。1年生の春には、ここを利用してクラス単位で校内合宿が行われていた。なお、現在は改装され行うことはできない。1955年(昭和30年)に高校単独としては全国初の生活協同組合を設置したが、規模が小さく(売り場は教室一個分)、経営難のため1998年(平成10年)に購買部へと移行した。
出典:wikipedia
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