メジロファントムとは日本の競走馬である。1970年代末期から80年代初頭の競馬シーンにおいて名脇役として活躍し、現役引退後も東京競馬場の誘導馬として活躍を続けファンから愛された。半弟のメジロジュピターは中山大障害(春)を、半妹メジロハイネもセントライト記念と中山牝馬ステークスに勝つ活躍をしている。主戦騎手はデビュー以来大久保洋吉厩舎所属の宮田仁が務めていたが、後にはメジロの主戦ジョッキー横山富雄が担当、横山の病気療養により1982年以降は的場均が騎乗した。1975年生まれの「メジロ」の馬には航空機の愛称が命名されており、ファントムは当時の西側諸国が多く採用していた戦闘機F-4の愛称。phantomは英語で「幽霊」の意味を持っていた事から「オバケ戦闘機」・「幽霊戦闘機」のニックネームとなった。1977年12月4日にデビューを果たしたメジロファントムは、緒戦こそ7着に終わったものの、次走を10馬身差で圧勝。年が明けて京成杯に出走すると直線後方より鋭く追い込み、当時関東一番手と目されていたタケデンにハナ差の2着、サクラショウリをハナ差3着、ファンタストを4着に下し、一躍クラシック戦線の主役の一頭に躍り出た。しかし次走の東京4歳ステークスでは1番人気となったがサクラショウリ、ファンタストのアタマ差の接戦から遅れて4着、弥生賞でも両馬に続く3着(1着:ファンタスト)と勝ち切れないレースが続き、クラシックを前に右トウ骨を骨折して8ヶ月半の休養に入ってしまった。秋に条件特別で復帰すると楽勝し、推薦により有馬記念に初挑戦したが15頭立ての14番人気で13着と惨敗した。翌1979年、金杯(東)をシービークロスの2着すると、次走の東京新聞杯で初重賞勝ちを収める。しかしその後中山記念、ダイヤモンドステークスは2、1番人気で5、6着となり天皇賞(春)は回避、京王杯スプリングハンデで勝利を期したがこちらでも1番人気で3着と敗れた。横山騎手に乗り替わった宝塚記念でも後方から直線追い込んだものの5着に終わる。秋シーズンは9月の条件特別勝利後、目黒記念(秋)で4着、初挑戦となった天皇賞(秋)では、最後の直線で郷原洋行鞍上のスリージャイアンツと併せ馬の形となったのも裏目となりハナ差惜敗。次走の有馬記念でも、カネミノブを駆り連覇を狙った加賀武見にインターフェアでは無いかと訴えられる程のアグレッシブな騎乗も、これが引退レースのグリーングラスには通じず、再びハナ差惜敗に終わった。右後肢管骨骨折による長期休養から復帰した1980年も、天皇賞(秋)はプリテイキャストの大逃げに不覚を取り、カツラノハイセイコ、ホウヨウボーイらには先着したものの7馬身差の2着。更に、1番人気での出走となった有馬記念では、失速したプリテイキャストの鞭が見せ鞭となるアクシデントによりホウヨウボーイの4着敗退に終わった。その後も現役生活を続けたものの、1982年の目黒記念(秋)以外に勝ち鞍を収める事が出来ず、1983年の宝塚記念を最後に現役生活に別れを告げる事となった。なお、有馬記念には5年連続出走しており、コスモバルクが2009年に6年連続出走するまではスピードシンボリ・ナイスネイチャと共に最多連続出走記録だった。現役引退後は種牡馬試験を受けたものの、精虫数の不足が判明して種牡馬になれず、JRAに寄贈されて東京競馬場において誘導馬の業務に従事する使役馬となった。通常、誘導馬は芦毛や尾花栗毛といった色彩の美しい馬が務めるものだが、ファントムは鹿毛ながらも風格ある姿勢で誘導馬を勤め上げ、競走馬時代の知名度もあって、東京競馬場の誘導馬の中でも有名であった。1995年に高齢の為、自らも勝利経験のある目黒記念を最後に誘導馬を引退。当日は誘導馬であるにも関わらずパドックに横断幕も登場し、ファンは彼の「2回目の引退」を心から惜しんだ。誘導馬を引退した後は功労馬として北海道で余生を過ごしていたが、2004年に老衰の為29歳の長い生涯を閉じた。
出典:wikipedia
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