ローマ建築(ローマけんちく、Roman Architecture)は、古代ローマの文化、芸術を代表する建築。共和政ローマ、そしてローマ帝国の支配地域に広く残る遺跡と、ウィトルウィウスの残した『建築について』の存在により、ルネサンスに始まる古典主義建築の源泉となった。ヨーロッパをはじめとする西方世界において、極めて重要な位置を占めるローマ建築は、エトルリア建築、そしてギリシア建築の影響を受けつつ発展していった。古代ローマにおいてギリシア美術の影響は特に強いものとなったが、古典期のギリシア建築がほとんどひとつの彫刻のように捉えられ、自己完結的であるのに対し、ローマ建築では、建築物相互の関係性、社会的要求、美的要求、その他の要素が複合して成り立っていると考えられている。そのため、ギリシア建築といえばすぐに周囲から孤立した神殿を思い浮かべるが、ローマ建築では神殿でなく、神殿やバシリカなどを包含したフォルム、円形闘技場、公共浴場などの公共施設が想起される。また、精密に構築されたローマ水道、水道を架けるためのアーチ、建築物の天井を覆うヴォールト、ドームなどの優れた土木・建築工学は、古代ローマの文化水準の高さを物語っている。ローマ建築は紀元前6世紀頃から4世紀までに形成された古代ローマの建築である。4世紀以降、ローマ帝国の行政府と文化は東方に継承され、15世紀まで存続することになるが、この東ローマ帝国の建築はビザンティン建築として、ふつうローマ建築とは区別される。古代ローマは、紀元前1世紀に地中海を取り巻く広大な地域を勢力下においたが、共和政時代末期から帝政末期までの全時代を通じて、首都ローマと先進的な東方の属州、蛮族の割拠する北方の建築活動は一様ではなく、当然、その意匠も地域的な差異がたいへん大きかった。ただし、概してヘレニズム文化を擁する東方属州は伝統的要素の源泉であり続け、ローマ建築の影響を受けるのが遅く、一方で、ガリア、ヒスパニアなどの北方・西方属州は様々な点で首都の建築を素早く取り入れ、これを自由に発展させていく傾向にあったと言える。地域性があったとは言え、ローマに組み込まれ、または新たに建設された都市には、ローマ市民権とともにローマ式の社会制度、宗教、文化が導入され、これによってローマの属州は、着実にローマ化されていった。地中海を掌握し、地中海世界の支配者となった古代ローマは、地方から流れ込む潤沢な資本と、有力者の寄進によって活発な建築活動を行った。エトルリア建築の遺産を引き継いだ共和政時代のローマ建築は、ギリシア建築から多大な影響を受けつつ、ローマの社会に即した施設を構築し、独自の建築技術であるオープス・カエメンティキウム(通称ローマン・コンクリート。古代コンクリートとも呼ばれる)を開発する。ただし、ローマン・コンクリート技術については、共和制時代の首都がギリシア芸術の影響で保守的傾向を示していたため、最初はローマ人入植地や軍事拠点となる地方都市の、目立たない場所や施設でひっそりと運用されるだけであった。紀元前27年に帝政が敷かれると、建築を含む諸芸術は皇帝の好みを直接反映するようになり、ローマン・コンクリート技術も積極的に活用されて意匠面での革新をもたらした。このため、ギリシア建築が持つ権威は依然として高かったものの、その重要性は相対的に低下し、1世紀後半以後のローマ市では、純粋なギリシア建築の意匠を持つ建築物が建設されることはなくなった。帝国最盛期となる五賢帝時代には、首都においてローマン・コンクリートを用いた独創的かつ壮大な建築が生み出され、皇帝の手による首都、あるいはその近郊の建築活動がローマの建築を牽引する役割を担った。しかし、2世紀の四半世紀を過ぎると首都は公共建築で飽和状態となり、建築活動は停滞。続く3世紀の危機と呼ばれる時代には、首都の建築活動は完全に停止する。帝国の防衛システムが機能不全に陥ったことで、北方から北東部、東方では大規模な内戦や他民族の侵入が頻発するようになり、これらの地域の建築活動もまた著しく低下した。この時期、ローマ建築は交易によって経済的繁栄を謳歌していた北アフリカ沿岸部の都市で維持された。3世紀末になると、首都の建築活動は再開されるが、ローマ帝国を取り巻く環境は大きく変化していた。ローマ市は首都としての名誉は得ていたものの、もはや帝国の中心都市ではなく、その活動はテトラルキアによって選ばれた都市に継承された。また、帝国各地では伝統的なローマの神々ではなく、東方の宗教が信仰されるようになり、その施設が各地に建設されるようになった。コンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認されると、ローマ建築はキリスト教の礼拝空間を生み出す素地としての役割を果たした。395年のテオドシウス1世の死によって、ローマ帝国は西と東に分裂したまま二度と統合されなかった。西ローマは476年に消滅し、情勢不安、異民族の侵入、戦争などの渦の中でその建築も徐々に消滅していったが、東方ではその経済力と技術力によって、ローマ建築はさらに発展していくことになる(以降のローマ建築については、ビザンティン建築を参照)。都市建設、土木技術に優れる。エトルリアから直接の影響を受けるようになった紀元前6世紀前後は、ローマ建築の黎明期にあたる。発掘された遺跡から、紀元前2世紀に至るまで神殿の構成にギリシア建築の要素はあまり見られず、また、紀元前2世紀以後にギリシア文明に直接触れた後も、ローマは単純にギリシア建築を導入したわけではなかった。紀元前4世紀まで、ローマ市は地中海文明からは完全に取り残された、どちらかというとあまり目立たない存在だった。ローマの最初の建築は、その歴史が示すように、エトルリアからの直接的な影響を受けている。初期のローマの神殿、例えば紀元前509年に奉献されたと伝えられるカピトリヌスの丘のユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿は、深い軒を内陣の前面に有し、内陣が三連の室から成るため、間口の広がった横長のほぼ正方形に近い平面であった。このように、低く横に間延びした構成はギリシア建築の神殿とは全く形態が異なる。三つの内陣は、都市の建設に際して加護を求める三柱の神、ユピテル、ユーノー、ミネルウァのためのもので、その加護は神殿から見渡すことのできる範囲に限られるため、この神殿は市(ウルブス)の最も高い丘の上に、基壇(ポディウム)を構築して建設された。ポディウムを設けて建築物に記念的な効果を持たせる試みはエトルリアにおいても比較的新しい発想で、その意識はギリシア建築の影響によるものと思われるが、基壇の形態そのものはギリシアのものではなく、エトルリアの神殿建築に由来している。このほか、紀元前5世紀初期にフォルム・ボアリウムに建設された、フォルトゥナ、マーテル・マートゥータ神殿も、発掘によってほぼ同じ構成を持つエトルリア式神殿であったことが分かっている。神殿以外の建築物について多くのことはわからないが、パラティヌスの丘に残る紀元前6世紀頃の貯水槽、および同時代の市壁などは、技術的面において、エトルリア建築のものとよく一致している。しかし、紀元前4世紀になると、ローマは転換期を迎える。紀元前338年のラティウム戦争の勝利によって、ローマはカンパーニアにまで勢力を広げ、紀元前275年のエピロス戦争と紀元前247年の第一次ポエニ戦争の勝利によって、マグナ・グラエキア(イタリア半島南部とシチリア島)がローマの勢力下に置かれた。紀元前200年頃のこれらの地域は、シュラクサイ(現シラクサ)やアクラガス(現アグリジェント)、ポセイドニア(現パエストゥム)などのギリシア植民都市が割拠しており、そこはまさにヘレニズム文化の領域であった。ローマはさらに、ポエニ戦争の終結後、紀元前200年にマケドニア王国と緒戦を開き(第二次マケドニア戦争)、紀元前146年にコリントスを征服、マケドニア王国、アテナイを制圧してバルカン半島に進出した。文化的に高い水準を維持していた南イタリアやバルカン半島の征服と略奪は、ローマに多くのギリシア芸術をもたらし、これに反発する人々はいたものの、小スキピオやルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスをはじめとするローマ人に受け入れられ、圧倒的な影響力を及ぼすことになった。建築についても、紀元前2世紀末には、ヘルモドーロスのようなギリシア人建築家がユピテル・スタトル神殿を設計するなどの活動を行っている。ギリシア建築の影響は神殿建築に顕著に現れており、エトルリア時代の木とテラコッタから成る平たい構成の神殿ではなく、ポルトゥヌス神殿のような、大理石を用いた疑似周柱式の構成を持つ神殿が出現した。 オーダーについても、擬似的なオーダーは一掃され、ヘラクレス・ウィクトール神殿に見られるような正確なギリシア式オーダーに変貌した。このようなギリシア芸術の影響は、ローマが衰退し、古代建築の規範が崩壊する4世紀頃まで、ローマ建築の中に受け継がれた。一方、ローマは地中海とは異なる方向、アルプスに至る北方地域にも領土を拡大していた。共和制時代に北イタリアには多くの植民市が建設されたが、これによってローマは、ローマ式の社会構造とそれを収容する施設を都市に導入する機会を得ることになった。アリミヌム(現リミニ)、プラケンティア(現ピアチェンツァ)、ティキム(現パヴィーア)、ネマウスス(現ニーム)、コムム(現コモ)などの軍事拠点都市にはローマの社会構造と地中海文明の都市形態が導入され、格子状の街路によって整然と区画された都市のかたちは、現在でもはっきりと認めることができる。紀元前2世紀以後、急速に進んだ社会構造の複雑化に対応するため、ローマではギリシア起原の建築も独自に修正され、都市の中に組み込まれていった。特に南イタリアでは、典型的なローマ建築と思われている建物、すなわち闘技場、劇場、そして恐らく公共浴場とバシリカが作り出された。共和政時代の都市が残るポンペイの遺跡では、紀元前55年に建設された最初の恒久的なローマ劇場と闘技場が残っている。バシリカもローマ領内では初期のものに属する。このように、共和制時代のローマ建築は、社会構造に適した建築を新たに作り出したり、あるいはギリシア由来の建築物を機能に沿うべく作りかえたりしていた。共和政末期の紀元前45年には、ローマは地中海を中心として、大西洋から黒海に至る広大な領土を獲得した。そして、あらゆる都市に首都ローマの政治的・社会的構造と文化をもたらすことになった。フォルムとこれに付随するバシリカ、クリア、コミティウム、タブラリウム(公文書館)、サエプタ(投票所)、そして神殿などの公共建築は、首都の建築を直接、または間接的に模倣して建設された。現在のローマ市に残る共和政時代の世俗建築は紀元前78年に建設されたタブラリウムしかないが、オスティアやコーサなどの共和政初期に建設された植民市では、かつてローマに建設されていた建物を模倣した公共建築物が発掘されている。ただし、植民市はローマの影響を受けるばかりではなく、保守的な首都に代わってローマン・コンクリートなどの新技術を取り入れる実験場の役割を果たしていた。代表的なものが、アーチとトンネル・ヴォールトの採用である。紀元前4世紀までにアーチの運用方法は確立されていたが、最初は目立たない場所か、あるいは倉庫などの美的観点が要求されないものに使用されていた。紀元前2世紀頃になると、ポンペイの円形闘技場やペルージャのポルタ・マールツィア門などに見られるように、建物の開口部をアーチの連続するリズミカルなものに変えてしまうほど活用され、やがてこれは首都ローマの建築にも導入された。このような運用が確立されると、オーダーは構造的な意味を失ってその権威も低下するが、オーダーが単なる装飾として意識されるようになるのは、さらに後の時代になってからである。プラエネステ(現パレストリーナ)のフォルトゥーナ・プリーミゲニアの聖域は、共和政時代の最も完成された建築であり、しばしば初期ローマ建築の傑作とされる。この建築の正確な建設時期は議論があるが、ローマ建築がその独自性を最初に顕現させたスッラの時代、すなわち紀元前2世紀から紀元前1世紀の間と推定されている。「バロック的」と評され、階段状に組また5つのテラスを上がるごとに建物の姿が現れる仕組み、アーチによってリズミカルにまとめられた立面、そしてローマン・コンクリートによる格間ヴォールトなど、あらゆる要素で時代を先取りした建築となっている。ローマ帝政時代になると、ローマ建築の最大のパトロンは皇帝となるが、元老院議員や属州総督、都市参事会員などの有力市民層による公共建築の建設も活発であった。帝政初期までに、ローマ建築の中にヘレニズム建築は完全に浸透し、アウグストゥス統治下において大理石による仕上げを用いることで成熟していった。同時にローマ建築は保守的傾向を強く示すことになるが、一方で、ローマ大火の後にネロ帝が建設したドムス・アウレアや、ドミティアヌス帝のドムス・アウグスターナでは、ローマ建築に新しい造形が導入された。ユリウス・カエサルと、その後継者にしてローマ帝国の初代皇帝となったアウグストゥスは、保守的傾向の強い共和政末期の建築を継承した。彼らが、元老院が統治する共和制から、皇帝に権力が集中するという政治組織に転換したことによって、皇帝の影響力は絶大なものとなるが、建築も例外ではなく、なによりもまず皇帝自身の好みや選択が建築の形態を決定するようになった。これはローマ建築の新たな潮流であり、時代が下るにつれてこれが顕著に現れてくるが、アウグストゥスが皇帝になった当時は複数の流行が同時代的に見られ、彼の時代に特有な建築的特徴というものはあまり見られない。アウグストゥスは絶大な権力を保持していたが、自らを共和体制の秩序の中に留めるよう慎重に振る舞っており、一個人としての彼の趣味や傾向が、ひとつのスタイルとなって建築に反映されることはなかったようである。しかし、アウグストゥスの好みを示唆する建築物が全くなかった、というわけではなく、彼の時代を代表する建築物はいくつか挙げられる。そのひとつがアウグストゥスのフォルムで、最終的に完成したのは概ね1世紀末と考えられているが、建築の骨格部分はアウグストゥス存命中にはすでに完成していた。全体構成はカエサルのフォルムを繰り返したもので、建築として際立った特徴は持っていない。ただし、スエトニウスが、アウグストゥスが煉瓦の都市であるローマを、大理石の都市として残したことを誇りにしていたと記録しているように、このフォルムには類を見ない大理石装飾がふんだんに取り入れられており、これがアウグストゥスの嗜好を示す数少ない事例のひとつとなっている。大理石彫刻はネオ・アッティカ派の職人の手によるもので、屋階のカリアティードは、アテナイのエレクテイオンを模倣したものである。同じく、ネオ・アッティカ派によるアウグストゥスの時代の彫刻作品として、アラ・パキス(平和の祭壇)を挙げることができよう。アラ・パキスは、13年の内乱平定を記念して造られた祭壇で、政務官やウェスタの巫女が毎年儀式を行うことになったが、これはアウグストゥス自身の偉大さを誇示するものであった。様々な植物が絡み合う知的で洗練された彫刻は完成度が高く、ギリシア美術の影響は歴然としているが、一方で、祭壇を壁で囲む構成や、アウグストゥスを中心として明確な位階を表現する手法はローマのものである。このようなアウグストゥスのフォルムやアラ・パキスの性格は、ギリシア芸術の権威とローマの建築工房の保守的傾向の帰結であり、彼の時代のローマ建築の特徴を端的に示している。アウグストゥスによるローマの大規模な整備は、彼の部下で友人でもあったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパの手腕によるところが大きい。特に開発が進められたのが、アラ・パキスの建つカンプス・マルティウスであった。この場所は、長らく宗教的タブーによって未開発のままだったが、アグリッパはテヴェレ川の治水工事を行って敷地を確保し、エジプトから取り寄せたオベリスクを指針とする日時計の広場を造営した。さらにウィルゴ水道とユリア水道を建設。これとともに水道管理官を組織して水道の分岐管を計測して送水量を調整するなど、ローマの上水道システムを整備した。そしてローマ市初となる浴場、およびパンテオンを建設したが、これらは80年の火災によって完全に失われている。ユリウス・クラウディウス朝からフラウィウス朝までのローマ建築は決定的に保守的で、概してヘレニズム建築の延長であったが、アウグストゥスの時代に顕著であったこの古典主義的傾向は、クラウディウスの時代になると緩やかに衰退し始める。クラウディウス帝時代に完成したプラエネスティーナ門のようなルスティカ仕上げは、それまでの古典的意匠とは相容れず、(水道橋という実用的建築であったこともあるが)それまでの伝統とは異なる新しい建築の表現が現れつつあったことがわかる。帝政初期のローマ建築にあって、皇帝ネロが造形に与えた影響はかなり大きい。彼はローマ芸術の保護者を自認しており、今日、皇帝浴場と呼ばれている建築の先駆けとなるネロ浴場、そしてドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設した。前者についてはほとんど何も分かっていないが、後者はローマ市街を焦土と化した64年の大火災の後に建設された、誇大妄想的な巨大宮殿である。当時ローマ市は非常に密集した状態であったにもかかわらず、エスクイリヌスの丘の斜面にテラスを造り、人工池(現在コロッセオがある場所)とこれを囲む庭園を見下ろす、すばらしい景観を眺めることができた。現在はトラヤヌス浴場の地下に残された一部のみが残る。八角形を半分にしたような中庭を挟んで、方形の中庭を囲む食堂などがある部分と八角堂のある部分に分かれ、おおまかな構成は当時の海辺に建設されたヴィッラそのものである。内部は大理石やモザイクを使った贅沢なもので、その装飾はルネサンス時代にグロテスクと呼ばれ、ラファエロ・サンティらに影響を与えた。しかし、この建物の真に革新的な部分は、ローマン・コンクリートによって構築されたヴォールト天井とドームが架けられた八角型の部屋である。八角堂の形式は他にみられないが、ドムス・アウレアではじめて採用されたとは考えにくいので、直接の原型があると考えられる。ドーム頂部からだけでなく、これに付随する部屋への採光を確保できるような造形は、オクタウィアヌスの時代から培われたローマン・コンクリートがあってはじめて成り立つもので、皇帝自らの邸宅に革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となった。ネロの追放とそれに続く混乱期の後、実権を握ったウェスパシアヌス帝は、「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」が元老院議決により制定されたことで、ユリウス・クラウディウス朝に与えられた諸特権を確保した(これは以後フラウィウス家に引き継がれる)。これにより、彼は、火災や争乱によって破壊されたローマの再建に着手し、灰燼に帰したカピトリウムのユピテル大神殿を再建するとともに、平和が訪れたことを象徴する建築物として、テンプルム・パキスを建設した。この建築物は、三方を列柱廊で囲んだ庭園(ウェスパシアヌスのフォルム)の一辺を占め、ペディメントを持つ神殿の左右に図書館と美術館が付属していた。アテナイのハドリアヌスの図書館のモデルになった可能性も指摘される、ギリシア建築の伝統に則した巨大公共建築であった。同じくヴェスパシアヌスによって起工され、ネロのドムス・アウレアの人工池があった場所を埋め立てて建設されたフラウィウス円形闘技場(コロッセウム)は、こちらはローマの伝統的意匠に則した大建築物であった。コロッセウムの意匠はルネサンスの建築家たちによって繰りかえし手本とされたが、当時はタブラリウム、バシリカ・ユリア、マルケッルス劇場に連なる、どちらかというとすでに使い古されたデザインで、この建築物のすばらしさはむしろ工学的な部分にあると言える。基礎はかなり深く造られており、池の跡に建設されたにもかかわらず建物は全く沈下を起こしていない。下部構造は切り石による積石造で、上部構造は重量を軽減するためにコンクリートが用いられた。建設は4つの部分に分割施工され、材料に応じて入念に行程分けされた。その組織的かつ効率的な建設事業はたいへん高度なもので、ローマ建築の技術レベルの高さを物語る。建築家ラビーリウスによって、93年から96年の間に完成したドミティアヌスの大邸宅、ドムス・アウグスターナは、パラティヌスの丘に聳え、古代末期に至るまで皇帝宮殿として機能した。謁見のための空間であるアウラ・レギア、バシリカ、ララリウム(玄関か?)と、用途のはっきりしない部屋を持った中庭、そして大宴会場トリクリニウムから成る公式な空間は、フォルム・ロマヌムに向かって配置されており、一方で私的空間は、キルクス・マキシムスに向かう斜面に形成され、この二つの空間を列柱に囲まれた中庭が接続した。皇帝の私的空間である翼屋は、公的空間とは対照的な平面を持ち、中庭を介してキルクス・マキシムスに向かって大きなエクセドラがあった。ドミティアヌスの計画した他の建築物は伝統に則した保守的造形であったが、このドムス・アウグスターナのみはネロのドムス・アウレアと同じくローマン・コンクリートによる革新的な造形を持つ建築物で、上階と下階の平面は完全に独立している。敷地の条件によるものではあるが、このように居住空間を上下二段に構成する試みは、アトリウムと中庭のある平面的住宅から、都心部の多層型住宅への方向性を示している。ネルウァ帝と彼に続く五賢帝時代は、ローマ帝国の最盛期であり、近代の歴史家によって「人類史上、最も幸福な時代」と評されたこともあるが、帝国の歴史を俯瞰するならば、繁栄から衰退への転換期であったとされる。建築についても、すでにユリウス・クラウディウス朝後期にヘレニズム建築の伝統は変質しはじめていたが、五賢帝時代になると新たな建築意匠が明確に模索されるようになり、また、表現されることになる。ハドリアヌス帝の死以後、首都の建築活動は衰退するものの、この時代に建設された建築は、属州のみならず、初期キリスト教時代にまで影響を与えた。トラヤヌス帝の建築を考察する際には、建築家ダマスカスのアポロドーロスの名を挙げなければならない。彼がどのような指向を持った人物だったかについては議論があるが、ローマン・コンクリート技術を巧みに操ることのできた技術者で、都市計画についても知識を発揮できた人物であることは確かである。ローマの公共浴場はカンパーニアで始まったと考えられているが、いわゆる皇帝浴場とよばれるタイプの建築はトラヤヌス浴場で完成された。この浴場はエスクイリヌスの丘に建設され、ネロのドムス・アウレアの居住用翼屋の跡に建設されている。すぐ側には、ウェスパシアヌス帝が起工し、ティトゥス帝によって完成されたティトゥス浴場があり、システムとしてはトラヤヌス浴場とほとんど同じであったと考えられている。ただし、トラヤヌス浴場はもっと大規模で、施設の中心に冷浴室(フリギダリウム)、温浴室(カルダリウム)、プール(ナタティオ)が配置され、これを両側から運動場(パライストラ)が挟み込む形式となっていた。南側は窓ガラスが嵌められた開口部がふんだんに開けられ、内部はたいへん明るかったと思われる。機能的には、それぞれ個別の施設であった浴場とギムナシウムが完全に融合しており、中庭の外周には講義室、ギャラリー、図書館、店舗が組み込まれた。カラカラ浴場、ディオクレティアヌス浴場など、以後の皇帝浴場はほとんど同じ形式の建物で、この浴場の影響がどれほど大きかったかが分かる。トラヤヌスのフォルムは、北方属州から導入されたバシリカ・フォルム・神殿複合体と呼ばれる形式で建設されたもので、ローマに建設された皇帝によるフォルムとしては、最後にして最大の作品である。フォルムの西辺にはバシリカ・ウルピアが建設され、そのさらに西側に小さな中庭を挟んでトラヤヌスの神殿があった。中庭には、帝政初期の古典的な技法ではない、個性的な浮き彫り彫刻が施されたトラヤヌスの記念柱が聳えるが、フォルム全体の性格はアウグストゥスのフォルムに則ったもので、バシリカ・ウルピアについても、造形は決定的に保守的であった。しかし、それでもバシリカ・ウルピアはローマ帝国最美の建築とされ、たいへん賞賛され、属州で広く模倣された。トラヤヌスの市場は、クイリナリスの丘とカピトリヌスの丘を結ぶ線上に計画されたトラヤヌスのフォルムの一部を成しており、斜面の等高線に沿った3方向からのアクセスが考えられていた。下部はフォルムからバシリカを経て到達するもので、2層からなる半円形平面を形成する。その上部の道は今日もヴィア・ベラティカと呼ばれる街路として残っており、3階建ての店舗と集合住宅に囲まれていた。東側はそこからさらに上の道に通じていた。トラヤヌスの市場は実用的な商業建築であったので、大理石などの高価な素材による装飾は認められず、建物の装いは煉瓦だけで構成される。プランニングについても、共和制時代の鈍重さから抜け出した自由なもので、アーチを用いた戸口のリズミカルなパターンとカーブしたファサードはローマ建築のあたらしい構成要素のひとつとなった。古代世界で最も偉大な皇帝と呼ばれるハドリアヌスは、トラヤヌスが獲得したパルティアなどの不安定な領土の維持を放棄し、国境線を画定したため、バル・コクバの乱を除いては、帝国は平和な時代を迎えた。ハドリアヌスによってもたらされた平和は、ローマ建築を成熟させ、帝国の威厳を体現するようなすばらしい建築を生み出すことになった。118年から128年にかけて建設されたパンテオンは、現在でも内部空間を実感できる、ローマ建築を代表する建築物である。真円の平面はたいへん単純なものだが、圧倒的な大きさの半球ドームと、その頂点から差し込む光によって、象徴的な空間となっている。あまりにも完成された空間であったことと、構造を改編することが容易だとは思われなかったことで、ローマが完全にキリスト教化した後もこの建物は破壊されず、608年、あるいは610年前後にキリスト教の聖堂として聖別された。この象徴性は、恐らくその設計のなかに隠された明快な比例関係に起因する。また、基礎は、地盤面下幅約7m、深さ約4.5mに渡って造成されたローマン・コンクリートの上に組積された大理石で、建物上部は凝灰岩、その上は軽石とローマン・コンクリートによって整形されている。構造体には意図的に空洞が穿たれ、建物の自重を軽減しており、工学的に見てもたいへん優れた設計が行われていることが分かる。ハドリアヌスがティヴォリに作らせたヴィッラは、18世紀にイギリスで好まれたカントリー・ハウスに酷似した建築である。風景に対する憧れはローマの人々の心にすでに刻まれていたもので、キケロやティベリウス、ネロ、ドミティアヌスらは、自らの好む別荘やヴィッラを所持していた。ハドリアヌスのヴィッラは、この種の建築としては残存する数少ないものであり、特定の平面や構成を持たず、自然の環境や風景に応じて、かなり自由に造られたヴィッラの特徴をよくつかむことができる。ハドリアヌスの趣味はかなり折衷的なもので、彫刻については完全なギリシアのものからエジプト風のものまで一緒に置かれており、ほとんど好事家的であるが、建物そのものは、技術的洗練と曲線の多用、色彩への関心、そして内部空間を外部に率直に表現することへの試みが見られる、当時最新の住宅建築であった。「カノプス」、「海の劇場」、「黄金の広間」など、このヴィッラには多くの前衛的試みが詰め込まれているが、それがこのヴィッラの魅力であると言えよう。ハドリアヌスの建設した建物で、最も有名で、最もよく目にするものが、現在はサンタンジェロ城と呼ばれているハドリアヌスの霊廟である。上部は後に補強されたもので、現在はローマ時代の下部構造が残る。その着想はアウグストゥスの霊廟にあることは間違いないであろうが、より現代的な、そして要塞のようなデザインであった。実際に、4世紀にはアウレリアヌスの市壁に組み込まれた軍事要塞として活用され、現在では完全に城として生まれ変わっている。ハドリアヌス帝の時代まで、ローマ建築は意匠的にも工学的にも、絶え間のない開拓が試みられたが、アントニヌス・ピウスが即位した138年以降、ローマ市の建築活動は極端に鈍化した。首都ローマは2世紀中期には継続的な建設活動によって公共建築の飽和状態を迎えており、また、文化的にも急速に進んだ西方属州に追いつかれようとしていた。皇帝による公共事業は、セプティミウス・セウェルス、カラカラ、アレクサンデル・セウェルスまでの短い期間に行われただけで、比較的大きな公共工事は、カラカラ浴場、アレクサンデル・セウェルスの浴場、そしてパラティヌスの丘の宮殿拡張工事が行われたに過ぎない。続く3世紀には、政治的混乱によって首都の建築活動は完全に停滞期を迎え、やがて首都はコンスタンティヌス帝によって完全に見捨てられることになるのである。首都の停滞をよそに、ローマ帝国領属州では劇的な変化を迎え、特に地中海周辺部は空前の経済的繁栄を達成した。リビアにはカルタゴの商業都市レプティス・マグナとサブラタ、 アルジェリアにはティムガッドなどの都市遺跡が、かなり良好な状態で残っているが、これらは地中海の物質文明の繁栄を今日に伝えている。ギリシア、小アジアのエーゲ海沿岸部では、ヘレニズムの伝統が常に生き続けた。古代から繁栄を続けていた都市には、西方からの影響はほとんどもたらされず、アテネに建設されたアグリッパのオデイオンなどは、イタリアの特徴を備えているという、その特異性からむしろ注目される。東方属州も最終的にはローマの意匠と建築・土木工学を受け入れるが、バシリカですら小アジアでは2世紀になってようやく導入されるほどで、比較的すんなりと受け入れられた建物は公共浴場と劇場に限られる。エフェソスやミレトス、アンキュラ(現アンカラ)などにその遺構が残るが、浴場は東方属州において先例となる施設がなかったため、イタリア形式のものがそのまま建設された。劇場についても、ヘレニズム時代にアナトリア半島を含む東方ではほとんど建設されていなかったため、ローマ時代に導入されたものが多く、その形式もローマ特有の形式となった。その他の建築物、例えば闘技場などは、結局、全く採用されることはなかった。ただし、ローマ軍の拠点都市では、かなり強力なローマ化が計られた。代表的なギリシアの都市が属州アカエアの州都コリントスである。コリントスは古代ギリシアを代表する都市であったが、紀元前146年にローマによって完全に破壊され、現在の遺跡に古代ギリシアに由来するものはほとんどない。コリントスの都市としての骨格はオクタウィアヌスによって造り変えられたものである。東方属州のなかでも、シリアではオクタウィアヌスの時代が建築の転換期となった地域が多く、ヘレニズムの伝統が比較的浅い地域では、これが顕著に現れている。建設者としての才能を持っていたヘロデ大王は、アゴラ、ストアなど、都市の中心施設をヘレニズムの伝統を持った建築としたが、水道橋や浴場、闘技場のほか、神殿をローマ式で建設している。さらに、彼が共和制末期のローマ都市に採用されていた街路側面の列柱を採用して、アンティオケイアに建設した列柱道路は、その後シリアからアフリカの都市に大々的に導入された。ユピテル・ヘリオポリス(現バールベック)はローマの神々ではない土着神の信仰中心地であるが、アウグストゥスが都市を改編した後、徹底的にローマ化され、さらにアントヌス・ピウスからカラカラの時代にかけて巨大な神殿が建設された。アウグストゥスの時代の造営には、首都ローマの国家建築を建設した人々が動員されたことが知られている。バールベックのようなシリア的ローマ建築は、アンティオケイア、ダマスカス、ゲラサ、パルミラなどで見られるが、例えば巨大な列柱道路、中央アーチの左右に水平梁を配置するペディメントなどは、瞬く間に小アジアの都市を席巻し、初期ビザンティン建築においても広く採用された。シリア的意匠が小アジアのみでなく、地中海沿岸部にかなり早く広がったことは、ローマ建築における首都の影響力がますます低下していったことを意味する。2世紀には属州の文化的・経済的水準は首都ローマに匹敵するほど底上げされており、建築のアイディアは首都ローマを経由することなく、属州相互の間で交換されるようになった。また、属州では、イタリア半島のように良質なローマン・コンクリートを得ることができなかったため、建築材料は主に煉瓦を用いたものとなった。煉瓦でヴォールトを構成するという、西方世界ではほとんど採用されることのなかった技法は、やがてローマ建築の新しい手法となり、後にビザンティン建築に継承される。後期のローマ帝国の情勢は、まず、皇帝の権力が帝政前期のものから変質したことに現れている。また、蛮族の侵入による情勢不安はローマ軍団を肥大化させ、国家財政の逼迫により、徴税の強化をはかるため属州の再編成や官僚機構を整備させることとなった。4世紀以降は貧富の差が激しくなり、それまで都市の建築活動の担い手であった都市参事会をはじめとする都市の有力者の裾野を狭めることになった。加えて、彼らは都市の建設活動よりも官職によってその権威を競うようになり、裕福市民層からの寄付を失った都市の建築活動は衰弱していくことになる。すでに五賢帝の時代からローマ帝国は衰退をはじめており、特に国境防衛力の弱体化は、マルクス・アントニヌス帝の時代に顕著となった。さらにセウェルス朝以降になると、東方ではサーサーン朝の、北方ではゲルマン民族の侵入が繰り返されるようになり、デキウス帝はゴート族との戦いで敗死し、ウァレリアヌス帝はサーサーン朝に破れて捕らえられるなどの危機的状況を迎えたため、軍事力の強化は帝国の第一の課題となった。パルミラ王国とガリア帝国を平定したアウレリアヌス帝は、北方蛮族の脅威に対して、失われて久しかったローマの市壁を復活させた。彼の時代には、ローマ市にそれほど差し迫った危険性はなかったものの、市壁が建設されたという事実そのものが、帝国の現状を象徴する出来事であった。このような事態をもたらした3世紀の危機の時代は、ディオクレティアヌス帝が四分治制(テトラルキア)と呼ばれる統治方法を構築して一時的に収束する。ディオクレティアヌスをはじめとする四人の皇帝は、それぞれ活動の拠点を地方都市に移したが、その結果、ローマ市は名目では首都であり続けたものの、実質的にローマの中心地ではなくなった。テトラルキアによって建設された四つの首都の構造は、断片的な情報しかないものの、ローマの構成を模倣したものであったことが知られている。ローマ市が、キルクス・マキシムスを見下ろす位置にドムス・アウグスターナ(皇帝宮殿)を配置しているように、これらの首都においても皇帝宮殿の側に大競馬場が建設された。これは後にローマ帝国の首都となるコンスタンティノポリスにおいても繰り返された。このうち、最も多くの遺跡を見ることができるのは、コンスタンティヌス1世の本拠地であったアウグスタ・トレウェノルム(現トリアー)で、コンスタンティヌスの浴場や、現在ではバシリカとして知られる皇帝謁見室などが残る。それ以外の都市の遺跡はほとんどないが、ローマン・コンクリートによる独創的な造形が採用されていたと考えられる。同時にまた、都市は強固な市壁によって防衛されており、その堅牢さはトレウェノルムのポルタ・ニグラから窺うことができる。テトラルキアの首都ではないが、305年に、ディオクレティアヌスが隠棲するため建設したスパラトゥム(現スプリト)の大邸宅も、やはり軍事的な側面が色濃く、高い城壁と見張り塔によって防衛された閉鎖性の強いものであった。内部の意匠はオーダーとアーチを繰り返し、コロッセウムなどの伝統的な手法を踏襲しているものの、持ち送りやエンタブラチュアにアーチを挿入する手法などは、シリア特有の意匠で構成されている。ローマ建築はヘレニズムに由来する伝統的造形に固執し続け、これはローマ市において特に顕著で、クリア(元老院)などの伝統的な建築物のほか、ディオクレティアヌス帝によって建設されたディオクレティアヌス浴場やコンスタンティヌスの凱旋門においてなお健在であったが、後期のローマ建築は、概してローマン・コンクリートによる自由な造形を特徴とする。トレウェロムやスプリトだけでなく、ローマにおいてさえ、マクセンティウスのバシリカやキルクスなど、ローマン・コンクリートによる革新的な造形の建築物が建設された。ミネルウァ・メディカの神殿と呼ばれている、リキニウスによる宮殿庭園のパヴィリオンは、パンテオンと同じく円形平面でドームを頂く建築であるが、内部はパンテオンのような厳格・静謐なものではなく、大きな開口部と壁面に半円アーチのニッチを有する動的なものとなっている。ドームの構築に対する技術もパンテオンから大きく進歩しており、素焼きの陶器を埋め込んで軽量化するとともに、フォルム・ロマヌムのロムルス神殿などでは曲率の異なる二重ドームを架ける工法が確立された。四分治制はローマ建築に新たな息吹を与えたが、このような体制はディオクレティアヌスの強力な手腕によって維持されたものであり、彼の死後、ローマ帝国は急速に安定を失った。混乱の中で、コンスタンティヌス帝がリキニウス帝に打ち勝ってローマ唯一人の皇帝の座に着いたとき、ローマの政治体制は分権行政でなければ成り立たないほどに肥大化・分散化していた。現実的選択として帝国は二つに分けられ、テオドシウス1世の死後、東はコンスタンティノポリスを、西はミラノ、後にラヴェンナを首都とする統治体制は統合されることはなかった。その結果、経済的に恵まれた東方では、ローマ建築は新たな建築の道を開き、西方世界は歴史の荒波のまっただ中に放り出され、衰退することになる。ローマ建築の最終局面は、キリスト教と深い関わりがある。3世紀の危機の時代以降、すでにローマ帝国領では至る所でミトラ教、マニ教などの東方宗教が信者を獲得したが、最終的に成功を収めたのが、コンスタンティヌスに協力したクリストス教(キリスト教)であった。コンスタンティヌスがニコメディアで発した勅令(いわゆるミラノ勅令)によってキリスト教が容認されると、ローマ帝国の領内ではいくつもの大教会が建設された。当時のキリスト教徒は、ローマ建築が培ってきた様々なプラン、施工方法、技術から、あらゆる要素を任意に選択することができたが、彼らは教会建築として、ローマの世俗建築であったバシリカを多く採用した。ただし、これらの教会堂にヴォールト天井のものは存在しない。キリスト教徒にとって、ローマのヴォールト構造は世俗的で物質的なものだったらしく、ヴォールトはかなり後の時代になってから採用された。装飾についてもフレスコ画は使われず、光を反射させるモザイクによって壁の量塊を極力非物質化させる努力が払われた。初期キリスト教建築は、東ローマ帝国の潤沢な資金と継承された高度な技術の中で成熟していき、6世紀にハギア・ソフィア大聖堂として、その最も完成された姿を現すことになる。東ローマの建築に対し、395年の分裂から西ローマ帝国の滅亡までの間、西方のローマ建築は、いわば喪失の時代であった。西方属州に侵入したゲルマン民族を、弱体化したローマ軍は掃討することができず、西ローマ帝国の国家基盤は早々に瓦解する。408年の将軍スティリコの死によって、西ローマ帝国は蛮族に対抗する力を失い、410年には西ゴート族のアラリック1世によってローマ市が陥落した。その後、将軍アエティウスの活躍によって、アッティラ率いるフン族の占領をなんとか阻止するものの、455年にガイセリック率いるヴァンダル族の侵略に抗いきれず、ローマ市は壊滅した。ローマ建築の活動中心地は、すでに新たな首都ラヴェンナに移っており、その建築は現在でもラヴェンナにおいて見ることができる。同時代の東ローマ帝国の建築活動に比べると、比較にならないほど小規模なものだが、その活動はガッラ・プラキディアの寄進によって、そして西ローマ帝国が滅びた後も、6世紀にランゴバルト人が侵入するまで、東ゴート王国、そして東ローマ帝国により継続された。ローマ帝国では、ギリシア芸術古典的形態を保持することが慣例化しており、通常ローマ芸術とされるものの多くは、ギリシアの建築家・芸術家の作によるものである。ギリシア芸術の権威は高く、新たな形態を導入するには、それを意図的に打開しなければならなかった。そのなかで、新しい造形を生み出す助けとなったのが、技術革新とローマ特有の新しい施設の建設であった。共和政時代の前期から中期にかけて、ローマ市は隣接都市を吸収合併していったが、積極的に都市を建設することはしなかった。当時のローマ市は領域国家としての性格を持たず、一定以上の領域の拡大が基本的には不可能であったことや、エトルリア人入植地をはじめとする中央イタリアの都市(古カシリヌム(現サンタ・マリア・ディ・カプア・ヴェテレ)やマルツァボットなど)は碁盤目状の規則正しい都市構造を有すものが多く、ローマ守備隊はこれを利用して駐屯すればよかったため、都市の建設を促すような積極的な要因はなかった。しかし、ラテン戦争によってローマの勢力域が拡大すると、これらを軍事的に防衛し、かつ、社会的に統治する必要性が生じ、ローマおよびラテン同盟都市による植民市の建設が活発に行われるようになった。紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて行われた、初期の植民市建設の第一義的意義はローマの支配地域の防衛にあり、一般にローマ市民権を持つ人々は、オスティア(紀元前4世紀中期)、アンティウム(現アンツィオ、紀元前338年)、アルシウム(現ラディスポリ、紀元前247年)、プテーオリ(現ポッツォーリ、紀元前194年)、サレルヌム(現サレルノ、紀元前194年)など、沿岸部に植民市を建設し、ラテン同盟都市による植民は内陸部の防衛を主として設置された。ネペト(現ネーピ、紀元前383年)、ルケリア(現ルチェーラ、紀元前315年)、ナルニア(現ナルニ、紀元前299年)、アリミヌム(現リミニ、紀元前268年)、ブルンディシウム(現ブリンディジ、紀元前244年)、ボノニア(現ボローニャ、紀元前181年)などのラテン植民市は、その当時の勢力域の辺境に集中的に建設されたが、これらの都市はラテン同盟の解消によってローマの軍制に直接組み込まれ、ローマの軍事的増強に寄与するようになった。同盟市戦争の後、紀元前89年にポンペイウス法が施行されると、ガリア・キサルピナにおいて本格的なローマ化が始まる。この時期になると、イタリア半島での植民市は軍事的な側面が薄れ、ローマの社会制度の導入、資本の投入といった社会的・経済的な側面が明確になってくる。植民市の建設目的が具体的に何時頃から変化したのか、という点についてははっきりしないが、ガイウス・マリウスがキンブリ・テウトニ戦争の後に、もともと無産市民であった退役兵をアフリカ、シシリ、アカイア、マケドニアなどに植民させたように、共和制末期には軍事的な側面を持たない植民市の建設活動が行われている。ルキウス・コルネリウス・スッラなどは、民衆派に属した諸都市から大量の土地を没収してこれを退役兵に割り当て、クルシウム(現キウージ)、ファエスラエ(現フィエーゾレ)などの植民市を建設したが、彼は都市に割り当てられるトリブスに手をつけない代わりに、指揮下の退役兵を各地に大量に送り込むことによって、これらのトリブスをそのままスッラ支持のトリブスにしている。ガイウス・ユリウス・カエサルも、北方属州にルグドゥヌム(現リヨン)とアウグスタ・ラウリカ(現アウグスト)などの都市を新設し、スッラ同様に退役軍人を入植させて政治的な基盤とした。また、対ギリシア戦で壊滅したコリントスに無産階級の市民8万人を入植させて再建しているが、これによってローマ市民への無料穀物配給を減少させている。都市を新規に構築するにあたって、その計画を逐一立案するのはたいへんな労力と想像力を必要とするため、ローマは都市の構造を一定の原則に沿って構築した。これは同時にローマの社会構造そのものをその支配地域に組み込む働きを担っており、属州のローマ化に対して大いに貢献することになる。ローマの新設都市は、地中海東部に普及していた幾何学的な構造を有する、いわゆる「ヒッポダモス式都市計画」の系譜に連なる。ローマ人は、都市を一辺2400ペース、100ヘレディアの正方形に整然と区画する手法を用いたが、さらに東西南北に大きな幹線道路を通している。これは、都市建設に際して用いられた基軸となる測量線を道路に整備したもので、南北に通る大通りを「カルド・マクシムス」、東西の大通りを「デクマヌス・マクシムス」と呼んだ。デクマヌスは正確な語源は不明であるが、カルドは蝶番や軸を意味し、天空がこれを軸にして回転しているということを示す。都市の創建者は儀式に則って、はじめにこの二本の軸線を決定し、都市の輪郭となる部分は鋤で土を掘り起こしつつ溝を切った。この溝は「ポメリウム」と呼ばれ、都市を他と聖別する重要な溝であった。測量技師は「グローマ」と呼ばれる機器を用いて測量を行い、都市を碁盤目状に区切っていく(これによって整形される街区を「インスラ」と呼ぶ)。ポメリウムの内側には矢狭間を持つ市壁が建設され、デクマヌスとカルドの延長に四つの大きな城門が設けられた。都市の中心にはムンドゥスと呼ばれる穴が掘られ、そこに供物が供えられた。ローマの歴史家たちによれば、これらの儀式はローマ人がエトルリア人から教示されたものとされている。実際に、都市建設の儀式で大地の神が重要視されていることや、都市を守護するカピトリウムの三室内陣を持った神殿は、エトルリア由来のものである。都市の外部も正方形に区画されており、これらは農場として個人分配された。しかし、都市が経済的要因によって膨張すると、幾何学的構造は失われ、まったく異なる形態の都市が形成された。1世紀末に造営された植民市であるクイクルム(現ジェミラ)は、カルドとデクマヌスが通り、両道路の交差部分にフォルムを持つ都市であったが、2世紀に都市の人口が市壁内に収容できる限界を超えると、南に拡張された。かつての南門は都市の新しい中心になり、市壁の外側にフォルムとセウェルスの神殿、バシリカが造られることになったが、新しい市街はそれまでの都市形態とは異なるものであった。カルド・マクシムスはほぼそのまま延長されたが、旧市街の通りにあるような列柱廊は形成されず、デクマヌス・マクシムスらしき道路は直線ではなく、完全な曲線である。概してその形態はフォルムを中心とする放射状で、旧市街ほど明確な構成を持っていない。タムガス(現ティムガッド)もまた、1世紀末に建設された都市だが、やはり正方形のローマの伝統的な都市構成であった。ティムガッドは、カピトリウムのある市壁の西側に都市が拡張され、セルティウス市場などが建設されたが、この新しい街も、クイクルムと同じく規則性を持っていない。このように、繁栄を遂げた都市は、膨張するにつれて最初の骨格が不明瞭になっていく傾向にあり、また、ローマ帝国滅亡後に生き残った都市も、長い年月の間に碁盤目状の構成が失われ、迷宮化していくようになる。周到に計画された都市構成が、都市の成長とともに混迷していく様は、首都ローマにおいても鮮明に現れている。ローマ市は、伝承によれば紀元前753年に、ロムルス王によってパラティヌスの丘に築かれたとされる。近年の発掘により、パラティヌスの丘の南西に、紀元前10世紀以前の数世紀に遡る居住跡が確認され、また、フォルム・ロマヌムとパラティヌスの丘では紀元前10世紀の墓地が発掘されているため、この時期までに、ローマの地にいくつかの集落があったと考えられている。紀元前9世紀頃になると、遺跡の数が増加し、墓地の場所もエスクイリヌスの丘に移ることから、居住空間が再配分され、人口が増え始めたことが示唆されるが、これらが一群の大きな集団であったかどうかは不明である。紀元前8世紀末から紀元前7世紀前半になると、パラティヌスの丘のゲルマルス峰とパラトゥアリス峰に住居が発達し、紀元前650年頃にはパラティヌスの丘とクイリナリスの丘を分ける急流の排水工事によって、後に聖なる道(ウィア・サクラ)と呼ばれる道が開通する。住居域はフォルム・ロマヌムやフォルム・ボアリウムとなる場所にまで拡大したが、ローマの都市化はプラエネステなどの周辺村落よりも遅かった。最初のフォルム、フォルム・ロマヌムが整備されたのは紀元前7世紀頃で、発掘により、紀元前625年頃のティベリス川の洪水の後にコミティウムが舗装され、ほぼ同じ頃にクリア・ホスティリアと思われる建物も建設されていたらしい。現在、目にすることのできるフォルム・ロマヌムで最も古い遺跡であるラピス・ニゲルも、おそらくこの前後に設置されている。紀元前7世紀末から紀元前6世紀末にかけて、ローマはエトルリア系の王を頂き、聖なる空間の整備や瓦葺きのレンガ造建築が建てられはじめ、この時期に、ローマが急速に都市化されていったことがわかっている。フォルム・ロマヌムを中心として、カピトリウムからウェリアに抜けるウィア・サクラ、すなわちカルド・マクシムスと、アルギレトゥム通り、およびトゥスクス通りとなるデクマヌス・マクシムスが形成された。この時期に都市を防衛する城壁(セルウィウス城壁)が形成され、7つの丘を包含する都市の輪郭も構成された。とはいえ、城壁は人口密集地に沿って構築されたのではなく、フォルム・ロマヌム近隣の人口過密地域以外では、人はまばらに住んでいるだけであった。当時、フォルム・ボアリウム(牛市場)やキルクス・マクシムス(現チルコ・マッシモ)はすでに存在していたが、カピトリヌスの丘からヴァティカヌス平原に至るカンプス・マルティウスは宗教的タブーによって開発されておらず、ローマ市から除外されていた。また、テヴェレ川はあくまでも城壁の一部であり、都市は河川をまたぐ構造にはなっていなかった。共和政時代を通じて、市街が拡張していくにつれて、フォルム・ロマヌム周辺にあるような整然とした都市は、徐々にその輪郭がわからなくなっていき、市中心部から放射状に抜ける道路にそって、蜘蛛の巣状の都市が形成された。北に通じるラータ通りは市街を抜けるとフラミニア街道になり、アウェンティヌスの丘のふもとから南西にオスティア街道が、カエリウスの丘(現チェリオの丘)のふもとから南にアッピア街道がそれぞれ抜けるようになった。首都の人口が飛躍的に増大すると、ローマから明確な都市の構造は失われてしまうが、それでも都市の構造を明確にする意味から、共和制末期にフォルム・ロマヌムでは再建が行われる。フォルム・ロマヌムは周囲を丘に囲まれ、雨水が溜まりやすい構造になっていたため、クロアカ・マキシマ(巨大排水溝)が造営されていたが、これはヴォールトによって覆われ、敷石によって広場が形成された。フォルムの軸となるヴィア・サクラ(聖なる道)はすでに古来のデクマヌスとはかなりずれており、東西南北に軸線を構成することは不可能になっていた。このため、聖なる道を東西に通すことは諦め、代わりにカピトリヌスへ向かう方向が設定されたが、その結果、聖なる道はフォルムの途中で著しく折れ曲がってしまった。周囲のフォルム、神殿は、紀元前2世紀から帝政初期にかけて継続的に造営され、今日の姿になるまでに、実に200年近い時間を要している。ローマ市の再構築を妨げていたのは首都の保守性であったが、一方で超過密状態も都市再建の大きな障害となっていた。帝政初期の時代に、ローマ市の人口はすでに推定100万人を突破しており、次第に共同住宅は高層化、ありとあらゆる土地に住宅が建て込まれたため、公共建築をたてるスペースは限られていた。公共施設を訪れる人間も非常に多くなり、裁判もバシリカ(バシリカ・エアミリアとバシリカ・センプロニア)では対処しきれず、屋外で行われることが多くなった。ユリウス・カエサルは、このような状況を打開すべく、当時宗教的タブーによって開発されていなかったカンプス・マルティウスに都市を拡張することをはじめ、カエサルのフォルムの造営を開始した。この計画はカエサルの死によって頓挫したが、対案としてオクタウィアヌスはエスクイリヌスの丘に住宅の建設用地を確保した。しかし、エスクイリヌスの丘は市中心部から遠く、結局ローマの過密状態は回復することがなかった。そのような状況の中で起
出典:wikipedia
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