ラエティア(、古い文献での綴りは Rhaetia)は、ローマ帝国の属州である。その領域は、現在のスイス東部および中央部(ライン川上流やボーデン湖を含む)、ドイツのバイエルン州南部やドナウ川上流部、オーストリアのフォアアールベルク州、オーストリアとイタリアにまたがるティロル地方の大部分、およびイタリアのロンバルディア州の一部からなる。ローマ帝国時代のラエティアは、西はヘルウェティイ族の国に接し、東はノリクム、北はウィンデリキア()、南はガリア・キサルピナに接した。北側の国境線は、リーメス(ドイツから続く長城)の一部によってドナウ川沿いに166kmにわたって守られていた。ラエティアとイタリアとの間は、アルプス山脈をレッチェン峠(レージア峠)で越えるクラウディア・アウグスタ街道によって結ばれていた。ラエティア人はいくつかの記録によると、アルプス周辺の民族の中でも勢力が強く好戦的だったようだが、起源についてはほとんど知られていない。 リウィウスは、ラエティア人はエトルリアから起こったとしており("Ab Urbe Condita" v. 33)、この説をニーブールやモムゼンも支持している。また、ジャスティン()(xx. 5)や大プリニウス(博物誌、iii. 24、133)の歴史的資料によると、ラエティア人は元々ポー川流域に住んでいた民族で、それがガリア人の侵略を受け山地に逃れ、そのときのリーダーの名前「ラエトゥス(Raetus)」が民族の呼称となったとされている。ただし、呼称については、ケルト語の “rait” (山地)から派生した可能性が高いと考えられる。かつてラエティアであった現在のオーストリア西部の人々の遺伝子からY染色体ハプログループを調査した結果、かつてエトルリア人が分布していた地域に共通するGグループの人が多いことが判明している。さて、起源はエトルリアかもしれないが、ローマ人がエトルリアについて知るようになった時代には、ケルト人の民族がラエティアを支配し、住民の生活習慣も完全にケルト人に同化していたので、この時代のラエティア人は一般的にケルト人とみなされている。ただし、それに混じって、一部にはケルト人ではない民族(レポンティー族やエウガネイ族)も暮らしていた。ラエティアに関する最も古い記述はポリュビオスの文献(Histories xxxiv. 10, iS)にわずかに記載されているが、その後は共和政ローマが終わるまでほとんど記録に残っていない。とはいっても、紀元前15年にティベリウスとネロ・クラウディウス・ドルススによって征服されるさまで、ラエティアが独立を保っていたことはほぼ間違いない(ホラティウス, "Odes
出典:wikipedia
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