圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市の書写山(しょしゃざん)に位置する寺院で、天台宗の別格本山である。山号は書寫山(書写山)。西国三十三所第27番。現住職は第140世。宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である。京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、3つの堂(三之堂)や奥の院のある「西谷」に区分される。伽藍がある標高371mの書写山は、兵庫県指定の書写山鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されている。山内には、姫路藩本多氏の墓所である本多家廟所があり、そこには本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もある。室町時代の応永5年(1398年)から明治維新まで女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)に札を納めて帰った。近年では、2003年(平成15年)公開のハリウッド映画『ラストサムライ』のほか、NHK大河ドラマ『武蔵』(2003年〈平成15年〉)や『軍師官兵衛』(2014年 〈平成26年〉)のロケ地にもなった。書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝えられる。もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前よりその地に祠が祀られていたといわれる。山号の由来はこの「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左(そさ)」も素盞に由来する。創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる。また一つに、その名は、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられる。性空の生年については、西暦903年説、910年説、928年説があるが、『性空上人伝記遺続集』(三千院所有、重要文化財)によれば、性空は延喜10年(910年)の生まれで、貴族の橘氏の出身であったという。性空は出家した時、すでに36歳であり、それから約20年間、霧島山、脊振山など九州で修行を積んだ後、霊地を求める旅に出て、康保3年(966年)の57歳の時、書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりであるとされる。入山して4年目の天禄元年(970年)、天人が書写山内のサクラの霊木を賛嘆礼拝するのを見た性空が、弟子の安鎮に命じて生木のサクラに如意輪観音の像を刻み、その崖に3間四方の堂を建てた。これが如意輪堂(現・摩尼殿)の創建であるという。性空の伝記や説話は『性空上人伝記遺続集』のほか、『元亨釈書』、『今昔物語集』などにも見られる。それらによると、性空は俗事を厭い、栄華や名声に関心がなかったが、都の皇族や貴顕の崇拝が篤かったという。なかでも性空に対する尊崇の念が強かった花山法皇は、寛和2年(986年)に来山して、圓教寺の勅号を与え、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに講堂(現・大講堂)を建立したとされる。花山法皇以外にも、後白河法皇や後醍醐天皇など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われている。花山法皇勅願の「円教」という寺号には、輪円具足を教えるという意味がある。円の形(輪円)は欠けたところがなく、徳において最も成就した状態を象徴していることから、自己を完成する道を教える寺の意となる。武蔵坊弁慶は、一時期、書写山で修行したとされており、机などゆかりの品も伝えられ公開されている。ただし史実である確証はない。一遍、一向俊聖、国阿らの時衆聖らが参詣したことでも知られる。一遍は入寂直前に書写山の僧に、聖教を預けた。天正6年(1578年)、織田信長より中国地方征伐を命じられた豊臣秀吉が、播磨制圧のため乱入し、摩尼殿の本尊である如意輪観音像などを近江の長浜に持ち帰った。その後、天正8年(1580年)に、長浜より如意輪観音像だけが戻された。この摩尼殿の本尊は、性空の如意輪観音像と同木同作の如意輪観音であり、性空の生木如意輪観音像は、延徳4年(1492年)の真言堂からの火災により、蓮鏡院、如意輪堂とともに焼失している。国の史跡に指定されている圓教寺の境内は、姫路市街の北方およそ8kmに位置する書写山の山上一帯を占め、境内地は東西に長く広がる。市街地から近く、標高も371 mとそれほど高くないが、境内地には自然環境が良好に保持され、山岳寺院の様相を呈する。古来、書写山への登山道として、東坂(ひがしざか)、西坂(にしざか)、六角坂(ろっかくざか)、刀出坂(かたなでざか)、鯰尾坂(ねんびざか)、置塩坂(おしおざか)の6つがあったが、1958年(昭和33年)、東坂に沿ってロープウェイが開通してからは、ロープウェイ山上駅から仁王門を経て、摩尼殿へ上る参道が主となっている。境内地には、明確な境界線はないが、仁王門などのある「東谷」、摩尼殿付近の「中谷」、大講堂・食堂(じきどう)・常行堂(じょうぎょうどう)および奥之院などのある「西谷」に分けられる。西国三十三所観音霊場の札所でもある摩尼殿が一山の中心となる堂であるが、圓教寺の本堂にあたる大講堂や、性空の像を祀る開山堂のある奥之院なども、信仰上重要である。ロープウェイ山上駅から、ゆるやかに登る参道を歩み、仁王門を経て摩尼殿までは徒歩25分ほどである。山上駅から仁王門へ至る参道は「西国巡礼の道」と称され、左右に、西国三十三所の各札所本尊を表した銅像が設置されている(1989年完成)。仁王門を通り、寿量院、圓教寺会館、十妙院を過ぎると、参道は「権現坂」と称する下りの階段になり、下りきったところが摩尼殿の縁下である。「権現坂」を下りきると、元和3年(1617年)に姫路城主となった本多忠政が寄進した湯屋橋という小さな石橋があり、その先の崖上に観音堂である摩尼殿がある。摩尼殿正面の階段下から西へ向かう参道があり、これとは別に、摩尼殿の裏手から西へ向かう山道もあるが、いずれの道を経由しても、徒歩数分で大講堂のある広場に出る。白砂の広場を囲んで、右(北)に大講堂、正面(西)に食堂、左(南)に常行堂の3棟が「コ」の字形に並ぶ一画は、中世の寺院景観を現在に伝えており、これら3棟を総称して「三之堂(みつのどう)」と呼ばれている。「三之堂」は元徳3年・元弘元年(1331年)の落雷、永享8年(1436年)の火災で焼失し、現存する各堂は室町時代、15世紀半ばの再建である。大講堂に接して、築地塀で囲まれた本多家廟所がある。元徳3年・元弘元年(1331年)の落雷で焼失するまで、本多家廟所の地には五重塔が建っていた。五重塔を含めたものが本来の伽藍配置であり、1992年(平成4年)、塔頭・十妙院より、五重塔や多宝塔が見られる「播磨国書写山伽藍之図」の版木も発見されている。なお、五重塔に安置されていた平安時代後期の大日如来坐像(木造、像高102.0 cm)が、食堂の宝物館にある。「三之堂」の南方には、鐘楼、法華堂、榊原家墓所、金剛堂などがあり、その南の一段低くなった区域には、松平家墓所および薬師堂がある。「三之堂」の西方には「奥之院」があり、開山堂、護法堂、護法堂拝殿、不動堂などがある。典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。大学生以上1人 志納金¥500、送迎マイクロバスサービスを含んだ特別志納金¥1,000神姫バスが姫路駅北口-書写山ロープウェイ、書写山ロープウェイが山麓駅-山上駅を連絡している。書写山ロープウェイバス停-山麓駅と山上駅-圓教寺は徒歩。カーナビゲーションは、「書写山ロープウェイ」で検索。無料駐車場あり。徒歩で登る場合、主に次の6つの参道がある。何れも山麓の起点には神姫バス停留所が近い。
出典:wikipedia
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