墨子(ぼくし、生没年不詳、紀元前450年~390頃?)は中国戦国時代の思想家。河南魯山の人。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した。いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られている。諱は翟(テキ、羽の下に隹)という。当初は儒学を学ぶも、儒学の仁の思想を差別愛であるとして満足せず、独自の学問を切り開き、墨家集団と呼ばれる学派を築くに至った。生誕地は魯であると思われる。墨(ぼく)という名前から、墨(すみ)を頻繁に使う工匠、あるいは入れ墨をした囚人であった、などの諸説があるが、詳しいことは全くわかっていない。司馬遷の史記・孟子荀卿列伝における墨子についての記述でも、「蓋し墨子は宋の大夫なり」(恐らく墨子は宋の高官であろう)などと憶測の文章になっている。前漢代から早くも謎多き人物であったようである。かなりの学があったと思われ、卑しい身分の出身では無かった可能性が高い。当時は、学問するにも書物を読むにも相応の家柄でなければ出来なかったからである。著書『墨子』(53篇現存)は墨子本人やその弟子の思想を記した書物。大部分は墨子本人による記述ではなく、その弟子によって編まれたとみられる。一部が散逸しており、元の姿は無い。近年の先秦時代由来の出土文献と比べることで、墨家集団消滅(後述)以来、清代末までほとんど編集の手が加えられてこなかった事が伺える。主な思想は以下のとおりである。兼愛・非攻のような非常に理想主義的な思想を展開する墨子は、当時勢力の拡大に躍起になっていた諸侯の考え方とは相容れず、諸侯からは敬遠されがちであったことが、墨子の多くの編から読み取ることが出来る。兼愛とは「天下の利益」は平等思想から生まれ、「天下の損害」は差別から起こるという思想。全ての人に平等な愛をということである。非攻とは一言で言えば、非戦論である。墨子直著と見られ、「人一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか」と疑問を投げかけている。墨子と弟子とのやりとりからは、功利主義的な多くの弟子を諭すのに苦労する墨子の姿が散見される。また、墨子自ら楚に赴いて、宋を攻めようとする楚王を説き伏せようと努力することもあった。このような幾多の墨子の努力の甲斐有って、思想集団として、また、兼愛・非攻の究極の実践形と言える防御・守城の技術者集団として、墨家は儒学と並び称される程の学派となった。墨子の没後、墨家集団は三墨と呼称される三つの集団に分裂するも、未だ大勢力を誇るが、秦帝国成立後、突如として各種文献から墨家集団の記述は無くなり、歴史上から消えてしまった。なぜ墨家は忽然と消えてしまったのか。焚書坑儒の言葉に代表される秦帝国の思想統制政策により、集団として強固な結束をもっていた墨家は儒学者その他の思想派よりも早く一網打尽にされ、一気に消滅したと思われる。さらに漢代になると、墨家と激しく対立していた儒家が一大勢力となった為、墨家思想排斥の動きが加速したであろうことは想像に難くない。その後、墨子の思想は中国でほとんど顧みられる事が無く、清代まで時代が下る。清末の動乱期になって西洋文明を積極的に摂取していく動きが中国に広がる中で、墨子の思想はキリスト教の思想に酷似しているとの見地や、「墨弁」の科学的な内容への評価から再研究を始める学者が徐々に現れ始めた。その代表的な学者に孫詒譲がいる。かれら清末の学者らによって、墨子の思想は2000年以上の雌伏を経て再評価されるようになった。
出典:wikipedia
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