山中 幸盛(やまなか ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。尼子氏の家臣。通称は鹿介(しかのすけ)。巷間では山中鹿介の名でよく知られる。幼名は甚次郎(じんじろう)。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。幸盛の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。通説によれば、天文14年8月15日(1545年9月20日)に出雲国富田庄(現在の島根県安来市広瀬町)に生まれたとされる(詳しくは#出自の謎を参照。)。山中氏の家系も不明な点が多い。山中家の系図はいくつか存在するが、有力な説としては宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門衆である。尼子清定の弟である山中幸久を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。山中家は尼子氏の家老であったが、父・満幸が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手柄を立てた。16歳のとき、主君・尼子義久の伯耆尾高城攻めに随行し、因伯(因幡国と伯耆国。現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った。幸盛は次男であったため、尼子氏の重臣である亀井氏の養子となるが、後に山中家に戻り当主である兄の幸高(甚太郎)に替わって家督を継いだ。永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲国へ進軍する。毛利氏は去る天文4年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢を厳島の戦いで破ると、弘治3年(1557年)には大内氏を滅ぼし、防長(周防国と長門国)を新たに支配していた。また、永禄5年6月には石見国を勢力下に治め、中国地方の一大勢力となっていた。一方の尼子氏は、当主であった尼子晴久が永禄3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等もあり勢力が衰えつつあった。毛利元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永禄5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。永禄6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城へ攻撃を開始する。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠点であった。9月21日(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大将とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する。戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。退却の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を担当し、追撃する吉川元春・小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った。なお、白鹿城は10月中旬頃に落城している 。永禄7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関で戦い、幸盛もこれに参戦する。このとき、日本海側からの補給拠点である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆国の拠点確保と勢力の挽回に努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆国の重要拠点の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れた。以後、伯耆国は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。永禄8年4月(1565年5月)、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると、城下の麦を刈り取って月山富田城へ攻撃を開始する。4月17日(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う(第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口(しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退した。また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取った。4月28日(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した。9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川将員を一騎討ちで討ち取った(山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滞在していた小河内幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多数の兵を討ち取った。永禄9年5月24日(1566年6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出来なった。11月21日(1567年1月1日)、城内の兵糧が欠乏し将兵の逃亡者も相次いだため、これ以上戦うことが出来ないと判断した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る。そして11月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦国大名尼子氏は一時的に滅びることとなる。義久ら尼子3兄弟は、一部の従者と共に円明寺へ連行され幽閉されることとなった。幸盛は随従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた。その後、幸盛は尼子家を再興するため尽力することとなる。幸盛の尼子再興運動は、概ね3回に分けて見ることができる。尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後、永禄9年 - 同11年の間(1566年 - 1568年)の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、有馬温泉で傷を癒した後に順礼の姿をして東国へ赴き、武田氏(武田信玄)・長尾氏(上杉謙信)・北条氏(北条氏康)などの軍法をうかがい、越前国の朝倉氏の家風を尋ね入り、その後、京に上ったとされる。永禄11年(1568年)、幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させると、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがった。永禄12年4月(1569年5月)、毛利元就が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵の機会をうかがっていた幸盛は、出雲国へ侵攻を開始する。このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊であった。山名氏の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領国であった備後・伯耆・因幡を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回復を図るにあたって手を結んだと考えられる。もっとも、その後に毛利氏から要請を受けた織田信長の軍によって領内を攻められ、支援はままならなかったようである。6月23日(8月6日)、幸盛らは丹後国もしくは但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。幸盛らがここで再興の檄を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し、5日の内に3,000余りの軍勢になったという。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると、山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。7月中旬、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり、また、城内より投降者がでるなど尼子方が優勢であった。しかし、石見国で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な状態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して同軍の救援に向う。救援に駆けつけた幸盛は、この石見の毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後、出雲国内において16の城を攻略し、その勢力を6,000余りにまで拡大させた。また、元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛、三刀屋久扶などの出雲国の有力国人を相次いで味方につけると、出雲国の一円を支配するまでになった。さらに、伯耆国においても尾高城を始め、中央の八橋城、因幡国との境にある岩倉城など、多くの主要な城を攻略。謀略を用いて末吉城の神西元通を寝返らせたのをはじめ、日野郡一帯を支配する日野衆を味方につけるなど、伯耆国全土にも勢力を拡大していった。その他、因幡・備後・備中・美作においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている。加えて10月11日(11月19日)、大内輝弘が大内家再興を目指して周防国山口へ攻め込み、築山館跡を占領する事態が発生する。10月15日(11月23日)、相次ぐ領内の反乱により支配体制の危機を感じた元就は、反乱軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する。10月18日(11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると、10月25日頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する。輝弘は富海で自刃し、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大内輝弘の乱)。反乱を鎮圧した毛利軍は、12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還している。永禄13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反乱(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲国の拠点である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部山(現在の島根県安来市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える。2月14日(3月20日)、尼子再興軍は、布部山で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として残り、軍の崩壊を防いだ後に居城の新山城へ帰還している。戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し、尼子再興軍の包囲から城を解放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。6月、布部山の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめられていた。7月 - 8月には、両城下で毛利軍による麦薙ぎが行われるなど危険な状態となるが、9月5日(10月4日)、安芸国で元就が重病に陥り、吉川元春を残して毛利輝元・小早川隆景らの軍が国許へ帰還すると状況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠点である十神山城や末吉城など、出雲・伯耆の国境にある城を次々と奪還するとともに、一時、清水山要害を攻略して再び月山富田城へ迫った。また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連携を図るため、宍道湖北岸に満願寺城を建設。吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城(平田城)へ攻め込むなど、その攻勢を強めている。さらに、隠岐国の国人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており、日本海側の制海権も取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。元亀元年10月6日(1570年11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、出雲国で苦戦する毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直属の水軍部隊・児玉就英を出雲へ派遣させる。この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が、12月には満願寺城が落城するなど、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していくこととなる。そして、元亀2年8月20日(1971年9月8日)頃には、最後の拠点であった新山城が落城。籠城していた尼子勝久は、落城前に脱出して隠岐へ逃れている。同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ、吉川元春に捕らえられる。幸盛は尾高城へ幽閉されることとなるが、その後に隙をついて脱出している。こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。尾高城から脱出した幸盛は、海を渡って隠岐国へ逃れると、元亀3年3月 - 4月(1572年2月 - 3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬国に潜伏する。そして、瀬戸内海の海賊・村上武吉や美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取りつつ、再び尼子家再興の機会をうかがっていた。なお、このとき幸盛は亀井姓を名乗っていたようである。元亀4年(1573年)初頭、幸盛は但馬から因幡へ攻め込み、桐山城を攻略して拠点とすると、因幡の地で様々な軍事活動を開始する。幸盛は、因幡を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計画していたと思われる。このとき、因幡国の実質的な領主は、毛利方の国人・武田高信であった。高信は、去る永禄6年(1563年)に当時の因幡国主・山名豊数と争って勝利を収めると、毛利氏と連携をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。幸盛ら尼子再興軍は、豊数の弟で山名氏再起を目指す山名豊国を味方につけると、因幡の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、天正元年8月1日(1573年8月28日)、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると(鳥取のたのも崩れ)、高信の居城・鳥取城攻めを本格化させる。尼子再興軍は、約1,000の兵で武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した(尼子再興軍による鳥取城の戦い)。城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏した。鳥取城には山名豊国が入り、尼子再興軍は、私部城に本拠を構え居城とした。幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3,000余りに拡大し、東因幡一円の支配に成功した。ところが11月上旬、豊国が、田公高次などの懐柔により毛利方に寝返る。尼子再興軍は、わずか1ヶ月余りで毛利氏に鳥取城を奪い返されてしまった。鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い、因幡平定に向けて尽力することとなる。因幡国内で毛利軍と交戦する一方、美作美浦氏や備前国の浦上氏、豊前国の大友氏などの反毛利勢力と連携を図るとともに、密かに織田信長配下の柴田勝家と連絡を取って体制の立て直しを図っていった。これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月(1574年12月)、美作三浦氏の居城・高田城で宇喜多直家軍を撃退し功績を挙げたとして、大友宗麟から火薬の原料となる塩硝1壷をもらい受けるなどしている。天正3年5月(1575年7月)、但馬の山名祐豊が毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を成立させる。かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であった。但馬山名氏の支援を受けられなくなった幸盛は、天正3年6月14 - 15日(7月21 - 22日)に因幡の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠点をここに移す。元の居城・私部城には亀井茲矩が入ったとされる。この若桜鬼ヶ城は、因幡から但馬・播磨へ向かう山間交通路の結節点に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる。6月、吉川元春と小早川隆景は、約47,000の兵を率いて因幡へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する。元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、8月29日(10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する。尼子再興軍は、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、10月上旬頃には私部城が落城し、因幡における尼子再興軍の拠点はこの若桜鬼ヶ城の1城を残すのみとなるのである。しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、山陽方面で織田氏と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、10月21日(11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多数の付城を築いて因幡から撤退する。ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡、浦上氏の衰退、また支援を受けていた美作三浦氏が毛利氏に降伏したことなどもあり、尼子再興軍は因幡の地において完全に孤立化する。さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年(1576年)5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡から撤退する。こうして、2回目の尼子再興運動も失敗に終わった。因幡より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る。京で信長に面会した幸盛は、信長より「良き男」と称され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったという。その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり、但馬国の八木城攻めや丹波国の籾井城攻めに参加する。11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する波多野・赤井軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした。天正5年(1577年)、幸盛は、信長の嫡子・織田信忠に従い、片岡城攻めや松永久秀が篭城する信貴山城攻めに参加する(信貴山城の戦い)。幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた。また、この戦いで幸盛は、久秀配下の将・河合将監を一騎討ちで討ち取っている。10月、信長の命令を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。12月(1578年1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠点である上月城を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る。尼子再興軍は、この城を拠点として最後の尼子家再興を図って行く。上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の国境に位置し、この地域を治める上で重要な拠点であった。城番となった幸盛は、この区域の守備を行うと共に、織田氏と美作江見氏との仲介を行うなど、美作国人の懐柔・調略を行っていく。天正6年2月1日(1578年3月9日)、宇喜多軍の将・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している。2月中旬(3月下旬)、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する。織田氏と交戦状態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3万以上の兵をもって播磨に進軍する。そして4月18日(5月24日)、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する。5月4日(6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと共に1万の軍を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する。しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや、6月21日(7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって、6月26日(7月30日)に陣を引き払い書写山まで撤退する。その結果、上月城は孤立無縁となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため、7月5日(8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する(上月城の戦い)。降伏の条件として、尼子勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる。その他、毛利氏に敵対した多く者は処刑され、それ以外の者は許され解放された。人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる。しかし、途上の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏の刺客により謀殺された。幸盛の死は尼子再興運動の終幕ではあったが、上月城陥落時に亀井茲矩率いる部隊は秀吉に従い難を逃れていたため尼子遺臣団の完全な解体とはならなかった。尼子遺臣団の一部は亀井家の家臣団として再編成され近世大名への道を歩み始める。その後は東軍に属して関ヶ原の戦いでも前衛の部隊として参戦、徳川幕藩体制に組み込まれ、幕末を迎えた。長男とされる山中幸元(鴻池新六)は父の死後、武士を廃して摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で酒造業を始めて財をなし、のちに大坂に移住して江戸時代以降の豪商鴻池財閥の始祖となった。衰亡した主家に忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が創られていく。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用された。幸盛の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。軍記史料も、生まれた場所や年など記載に相違がある。一般的に、出生日は『太閤記』『後太平記』に記載される、天文14年8月15日(1545年9月20日)とされる。『名将言行録』によれば「天正6年7月2日(1578年8月5日)に34歳で死亡」と記載され、逆算すると天文14年に生まれたことになり、『太閤記』『後太平記』に記載される年と一致する。しかし、もっとも成立の古い『雲陽軍実記』では、天正6年7月13日(1578年8月16日)に39歳で死亡したと記載される。これを逆算すると、生まれた年は天文9年(1540年)になる。また、『陰徳太平記』、『中国兵乱記』においても天正6年に39歳で死亡したとする。そのため、出生年を天文9年とする説がある。なお、通説では、死亡した日は天正6年7月17日(1578年8月20日)とされる。これは『山中系図草案』『片寄家譜』によるものである。出生地においても定かでない。一般には、月山富田城の麓(現在の島根県安来市広瀬町 (島根県))に生まれたとする。これは『太閤記』によって記載され、現在も屋敷跡が存在する。『雲陽軍実記』『後太平記』では鰐淵寺の麓(現在の島根県出雲市別所町)に生まれたと記載される。同じく屋敷があった地が伝えられ、現在は会社の資材置き場となっている。その他、信濃国(長野県)の見上城で出生した説もある。勇猛な美男子であったとされる幸盛であるが、その容貌については諸説がある。幸盛は三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑をした姿でよく知られる。講談や小説などにおいてもこの姿で描かれることが多い。月山富田城跡に建つ、幸盛の銅像もこの姿で作成されている。通説では、この冑は山中家に先祖代々から伝わるもので、幸盛が家を継ぐにあたって譲られたとされる。しかし『太閤記』や『雲陽軍実記』などの軍記資料によると、その冑の様相は多少異なる。幸盛の通称(字)、鹿介の命名についての逸話がある。幸盛の幼名は甚次郎といい、病弱な兄に代わって家督を継ぐときに改名して鹿介と称した。一般には、このとき譲り受けた冑に三日月の前立てと鹿の角の脇立がついていたため、冑にちなんで名前を鹿介と改めたとされる。その他には、山の中で鹿の如く走り廻る姿を見て名前を鹿介としたとする説などもあるが、軍記資料に残る改名の理由は次のとおりである。
出典:wikipedia
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