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幽州

幽州(ゆうしゅう)は、中国にかつて存在した州。上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『爾雅』、『呂氏春秋』では「燕である」としており、『周礼』では「東北」としている。『晋書』地理志では「北方は陰気が多いことにより、幽冥をもって名称とした」としている。元封元年、前漢は全国を13州に分割、各州に刺史を設置した際に、現在の河北省、遼寧省、北京市、天津市を中心とする地域に幽州を設置、涿郡、勃海、代郡、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東、玄菟郡、楽浪郡、燕国の11郡国を管轄した。前漢末の混乱期には冀州の王郎により占拠されたが、後漢の挙兵の結果光武帝の勢力下に入り、後漢が成立すると薊国に州都を設置した。後漢末には公孫氏が幽州東部を占拠、その後約半世紀にわたって中原政権から半ば独立した政権が成立したが、238年(景初2年)に魏により滅亡させられた。五胡十六国時代になり、後趙の勢力が弱まると龍城を中心とする前燕の勢力下に入った(前燕は一時幽州の薊城を国都にしたこともある)が、やがて北魏に攻め滅ぼされた。また400年(咸寧2年)には後涼により幽州東部に平州を設置されている。北魏の時代になると468年(皇興2年)に安州、太和年間には燕州が分割・新設されている。その後成立した北周は幽州を東北国境の軍事要衝として東北道の総管府を設置された。隋朝が成立すると当初は幽州が設置され下部に3郡6県をい管轄したが607年(大業3年)、燕州と統合され涿郡が設置されている。隋代の下部行政区画については下記表を参照。華北平野の北端に位置し北方への陸路交通の要衝とされていた幽州であるが、608年(大業4年)に永済渠が建設され北方の沁水と黄河が連絡され水上輸送面でも重要視されることとなった。また611年には煬帝自ら江都(現在の江蘇省揚州市)より黄河、永済渠を経由して涿郡まで行幸している。また611年(大業7年)より3度にわたり実施された高句麗遠征では兵站基地として利用されている。唐朝が成立すると618年(武徳元年)に幽州とされたが、742年(天宝元年)に范陽郡と改称、758年(乾元元年)に再び幽州と改称された。唐代も幽州は軍事面で重要視され、特に高句麗や渤海等に対する防衛拠点とされ、范陽節度使(安史の乱以後は盧龍節度使)が設置されている。756年(至徳元載)には范陽節度使の安禄山による安史の乱が発生している。また唐末には盧龍節度使であった劉仁恭の子劉守光が自立して皇帝と称したが、後唐の李存勗によって滅ぼされた。938年(天福3年)、石敬瑭が幽州を含む燕雲十六州を契丹に割譲した。契丹は幽州を副都とし燕京と改称、幽州の行政区画名は消滅した。

出典:wikipedia

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