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那珂 (軽巡洋艦)

那珂(なか)は、日本海軍の軽巡洋艦。川内型軽巡洋艦の3番艦。艦名は栃木県、茨城県を流れる那珂川に因んで命名された。艦内神社は大洗磯前神社からの分祀。進水絵葉書には那珂川と筑波山が描かれた。太平洋戦争序盤は第四水雷戦隊旗艦として活動。1942年(昭和17年)4月のクリスマス島攻略作戦で損傷。復帰後は第十四戦隊旗艦として輸送・護衛任務に従事した。1944年(昭和19年)2月17日、軽巡洋艦阿賀野救援のため出動したところトラック島空襲に遭遇、アメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて沈没した。大正時代の日本海軍は、7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷)。1921年(大正10年)3月19日、建造予定の二等巡洋艦4隻(川内型軽巡洋艦)に、それぞれ加古、那珂、川内、神通の艦名が与えられる。6月9日、4隻(加古、那珂、川内、神通)は二等巡洋艦として艦艇類別等級別表に登録された。同年9月、日本海軍は知床型給油艦佐多を建造した横浜船渠(後日三菱重工業横浜製作所)に二等巡洋艦1隻(那珂)と砲艦1隻を発注する。川内は1922年(大正11年)2月26日(長崎三菱造船所)、那珂は同年6月10日(横濱船渠)もしくは6月14日、神通は同年8月4日(神戸川崎造船所)で、それぞれ起工した。だが佐世保海軍工廠で建造予定の川内型軽巡加古は同年3月に建造中止の通達があり、10月9日に一等巡洋艦加古型(古鷹型)加古として神戸川崎造船所で建造されることが正式に決まった。これをもって加古は二等巡洋艦(川内型軽巡)から一等巡洋艦に類別変更され、川内型軽巡洋艦は3隻(那珂、川内、神通)となった。前述のように、那珂は加古型軽巡の2番艦(加古、那珂、川内、神通)として横浜船渠で建造がはじまった。だが1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災。被災当初の火災は鎮火したものの、桜木町方面からの延焼により横浜船渠は施設の大部分を焼失。同年10月10日進水(横浜船渠側によれば9月2日進水計画)を予定して建造最終段階の船体は、盤木の焼失により船台上に落下して右に傾いた。復旧の見込みなしと判定される。また周辺の工場も大被害を受けた。日本海軍側は他社に再建造させる意向だったが、横浜船渠側の要請により、同社で再建造することが決まる。旧那珂は解体の上、川内型3番艦として改めて起工し、1924年(大正13年)5月24日に工事再開。1925年(大正14年)3月24日、海軍大臣代理安保清種海軍次官列席のもと、午後4時30分に進水。最初の起工から約3年が経過した11月30日に就役した。その際に艦首形状をスプーン型からダブル・カーブド型に改めている。1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖で行われた夜間無灯火演習において、那珂は第五戦隊(第1小隊《加古、古鷹》、第2小隊《神通、那珂》)を編制。また那珂には観戦武官として伏見宮博義王が乗艦している。夜間演習では、第一戦隊(長門、陸奥)、第三戦隊(鬼怒、阿武隈)、第四戦隊(金剛、比叡、伊勢、日向)、第六戦隊(由良、龍田)を仮想敵にみたてて接近中、戦艦伊勢および軽巡由良、龍田等から照射を受けた第2小隊(神通、那珂)は距離をとるべく右に転舵、すると2隻は後続していた第五戦隊第1小隊(加古、古鷹)および第二水雷戦隊(旗艦夕張)、第26駆逐隊、第27駆逐隊(菱、蕨、葦、菫)の一群に突っ込んだ。神通と第27駆逐隊2番艦蕨が衝突(蕨は沈没)、それを避けようとして左に転舵した那珂は衝突艦を避けようとして右に転舵していた同駆逐隊3番艦葦の左舷後部に衝突し、両艦ともに大破した。自力航行可能だった那珂は戦艦比叡と重巡古鷹に護衛され、損傷激しい神通は重巡加古護衛下で戦艦金剛に曳航され、葦は軽巡阿武隈に曳航されそれぞれ帰投した。のちに、事件当時の神通の艦長だった水城圭次大佐は自決した。これを美保関事件という。修理にあたって神通の艦首は那珂と同様の形状に改められた。1935年 (昭和10年) 9月25-27日、那珂は第四艦隊事件に遭遇した。第四水雷戦隊旗艦那珂は第11駆逐隊(初雪、白雪)、第12駆逐隊(白雲、薄雲、叢雲)、第7駆逐隊(潮、曙、朧)、第8駆逐隊(天霧、夕霧)を率いて演習をおこなっていた。9月25日、初雪で溺者1名が発生、那珂は『此ノ際油断大敵ナル事ヲ銘記セヨ』と各艦に注意した。9月26日夕刻、荒天により駆逐艦夕霧が艦首を切断(行方不明27名)、その救援中に初雪よりSOSが発せられる(艦首切断行方不明24名)。夜が明けたのち夕霧は軽巡大井に、初雪は重巡羽黒に曳航され大湊へむかった。この事件で那珂は若干の損傷を受けた。1937年の日華事変時においては第2艦隊に所属し作戦活動に従事した。1939年(昭和14年)11月15日、第二水雷戦隊旗艦は那珂から神通に変更された。那珂は新編の第四水雷戦隊に編入される。11月25日、第一水雷戦隊司令官栗田健男少将は第四水雷戦隊司令官に任命された。栗田は11月29日より那珂に将旗を掲げた。1941年には姉妹艦の神通と共に雷装の強化が行われ、九三式酸素魚雷の発射能力を得た。1941年(昭和16年)11月26日、那珂は第四水雷戦隊(司令官:西村祥治少将)の旗艦となった。当時の第四水雷戦隊には、第2駆逐隊(司令橘正雄大佐:村雨、五月雨、夕立、春雨)、第4駆逐隊(司令有賀幸作大佐:嵐、萩風、野分、舞風)、第9駆逐隊(司令佐藤康夫大佐:朝雲、夏雲、峯雲、山雲)、第24駆逐隊(司令平井泰次大佐:海風、山風、江風、涼風)が所属していた。だが第4駆逐隊は南方部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官が率いる南方部隊本隊(旗艦愛宕)に引き抜かれる形で同部隊に所属しており、第四水雷戦隊の直率下にはなかった。なお、戦争が起きなければ第2駆逐隊と第24駆逐隊は四水戦から第一水雷戦隊(旗艦阿武隈)へ転出、そのかわりに朝潮型駆逐艦4隻の第8駆逐隊(朝潮、満潮、大潮、荒潮)および夕雲型駆逐艦を基幹とする第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)が四水戦に配備され那珂の指揮下に入る予定であった。太平洋戦争緒戦では高橋伊望中将率いる第3艦隊の一員としてフィリピン南部への侵攻に参加し、陸軍第48師団を運ぶ輸送船を護衛した。その際、米陸軍航空軍の攻撃により軽微な損傷を受けた。また第9駆逐隊山雲は触雷して損傷、同駆逐隊は事実上3隻編制となってしまった(山雲は5月15日に9駆から除籍)。1942年(昭和17年)1月、第四水雷戦隊は蘭印への侵攻に割り当てられ、呉第2特別陸戦隊と坂口支隊をタラカンおよびバリクパパンへ送る船団を護衛した。1月10-12日、タラカン島攻略作戦に従事する。12日午前9時30分、タラカン守備隊降伏という報告を受けた西村少将は那珂以下四水戦と掃海隊を率いてタラカン港へ進入、掃海艇に機雷除去を命じた。ところが砲台は沈黙しておらず、第11掃海隊(司令山隈和喜人中佐:第13号掃海艇、第14号掃海艇)は10分以内に撃沈され、司令を含む156名(生存者53名)が戦死。油断していた那珂と第2駆逐隊は何も出来なかった。夜、脱出を図るオランダの敷設艦プリンス・ファン・オラニエを四水戦麾下の駆逐艦山風と第38号哨戒艇が撃沈、四水戦の士気は回復した。1月23日、ボルネオ島のバリクパパンで部隊を上陸させている時、船団は断続的に空襲を受けていた。19時30分、オランダ軍爆撃機1機が輸送船南阿丸を爆撃して炎上させ、船体放棄に追い込んだ。24日0040分、悪天候のため浮上中であったオランダ海軍の潜水艦が那珂に対して魚雷4本を発射した。00時45分、那珂南西約1kmに停泊していた輸送船敦賀丸が被雷して沈没。西村提督は那珂と駆逐隊および哨戒艇部隊に対しK-XVIIIの追跡を命じたが、失敗に終わった。この後、那珂および第2駆逐隊・第9駆逐隊は泊地東海面の哨戒を実施するが、北上してきたアメリカ海軍第5任務部隊の駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード、ポープ、パロット、ポール・ジョーンズ)が、護衛のいなくなった船団を攻撃して輸送船を撃沈している事に気付かなかった。米艦隊が脱出したのち、西村提督は「敵潜水艦、魚雷艇ニ対シ警戒ヲ厳ニセヨ」と下令している。船団は輸送船5隻沈没(敦賀丸、呉竹丸、須磨浦丸、辰神丸)、哨戒艇37号沈没、輸送船2隻(球磨川丸、朝日山丸)損傷という大きな損害を受けた。本海戦(日本側呼称バリクパパン沖海戦、連合国軍呼称マカッサル海戦)は、アメリカ海軍にとって太平洋戦争緒戦における数少ない勝利であり、大々的に宣伝した。なお本海戦で沈没した哨戒艇37号は旧樅型駆逐艦菱であり、同艦は『美保関事件』において第27駆逐隊1番艦であった(那珂は27駆3番艦葦と衝突)。1942年2月末、ジャワ島占領のためジャワ島東部へ陸軍第48師団と坂口支隊を輸送することとなり、第五戦隊(那智、羽黒、妙高)、第二水雷戦隊(旗艦:神通)、第四水雷戦隊(旗艦那珂)などからなる護衛艦隊がその護衛についた。2月27日、輸送艦隊はマカッサル海峡を南下してジャワ海を航行していた。連合国軍のABDA艦隊はこれを迎撃すべくスラバヤを出撃したが、連日の戦闘配置により乗員の疲労が高まっていたこともあり、カレル・ドールマン司令官は補給のため一旦艦隊をスラバヤへ帰投させることにした。基地航空隊から『敵巡洋艦五隻、駆逐艦六隻接近』の報告を受けた第五戦隊司令官高木武雄少将は、第五戦隊(那智、羽黒)・第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊《雪風、時津風、初風、天津風》、臨時編入艦《潮、漣、山風、江風》)・第四水雷戦隊各隊に戦闘準備を下令する。12時5分(現地時間。以下同じ)、那智の水偵が連合軍艦隊を発見し日本艦隊に位置を通報した。第四水雷戦隊も輸送船団の護衛を若鷹に任せて、敵艦隊に向かう第五戦隊に合流しようとしたが、連合軍艦隊が輸送船団の攻撃に向かっているのか、帰投しようとしているのか判断しかねており、四水戦は反転して一旦輸送船団護衛に戻った。一方、連合軍艦隊はスラバヤに入港しようとしたところ日本軍船団発見の報を受けて反転。日本艦隊も那智機の報告を受けて敵艦隊との会敵予想針路を取った。第四水雷戦隊は那智機の電報を受信するのが遅れ、西村司令官は船団護衛を第24駆逐隊司令と指揮下2隻(海風、夏雲)に任せると那珂・第9駆逐隊(朝雲、峯雲)・第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨、夕立)を率い、第五戦隊・第二水雷戦隊の後を追って予想会敵地点へ向かった。16時(1750)ごろ第四水雷戦隊は戦闘戦域に到着、退避する神通以下第二水雷戦隊の前を突っ切って連合国軍艦隊に接近した。四水戦は距離15,000mで一斉に27発の魚雷を発射、神通は四水戦の外側から魚雷4本を発射したがいずれも自爆、だが日本側は大口径砲か機雷の爆発とみて混乱する。遠距離砲戦を繰返しながら時間が経過していくうち、連合軍艦隊が態勢を立て直すために変針したのを見て、高木少将は『全軍突撃セヨ』を下令した。日本艦隊は、四水戦―二水戦―第五戦隊という順番で突撃を開始。旗艦那珂は連合軍艦隊に距離12000mまで近づくと魚雷4本を発射して避退、四水戦の子隊である第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は更に接近する。第2駆逐隊は距離10000~7500mで魚雷を発射、佐藤康夫9駆司令指揮下の第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は距離6000mまで近づいて魚雷を発射したが、これらは命中しなかった。しかしドールマン少将が英重巡エクセターを避退させるために英駆逐艦2隻(エレクトラ、エンカウンター)に攻撃を下令し、英駆逐艦2隻と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は3000mで砲戦を交えた。第9駆逐隊(朝雲、峯雲)はエレクトラを撃沈、エンカウンターを避退させたが朝雲も損傷した。この頃の戦闘海域は砲煙と煙幕と日没が重なって視界は極度に悪化、日本艦隊司令官達は輸送船団の反転と、配下駆逐隊の集結を命じた。スラバヤ沖海戦はその日の日没後、および3月1日にも戦闘があったが、これらに四水戦は関わっていない。また2月28日には、四水戦麾下の第2駆逐隊(村雨)がオランダの病院船オプテンノールと遭遇してこれを拿捕し、駆逐艦天津風に引き渡している。3月、第四水雷戦隊はジャワ島とセレベス島の間の海域の哨戒任務に就いた。その頃、インド洋では南雲機動部隊(司令長官南雲忠一中将:旗艦赤城)に所属する第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:空母蒼龍、飛龍)及び第三戦隊第2小隊(3番艦榛名、4番艦金剛)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)の8隻が、別働隊として機動部隊本隊から分離していた。二航戦(蒼龍、飛龍)の護衛に17駆2小隊(浜風、磯風)を残し、戦艦2隻(金剛、榛名)・駆逐艦2隻(谷風、浦風)の4隻は3月7日早朝にクリスマス島へ艦砲射撃を行う。圧倒されたイギリス軍守備隊は白旗を掲げた。だが4隻は白旗を放置してクリスマス島を去った。山口司令官から報告を受けた南雲司令長官は『クリスマス島の攻略は小兵力を以て容易に実施可能』と結論づけている。3月15日、第十六戦隊司令官原顕三郎少将(3月10日まで第五水雷戦隊司令官)を指揮官とするクリスマス島攻略部隊が正式に編制され、3月31日の攻略を目指した。主隊/第十六戦隊(名取、長良)、警戒隊(司令官西村祥治少将:第四水雷戦隊那珂、第9駆逐隊第1小隊《峯雲、夏雲》、哨戒艇2隻、球磨川丸、君島丸)、第24特別根拠地隊分遣隊、補給部隊(あけぼの丸)、さらに第16駆逐隊天津風という兵力部署であった。本海戦に参加した駆逐艦天津風の艦長原為一中佐は『攻略部隊旗艦は那珂』と回想しているが、那珂は警戒隊旗艦である。攻略作戦中の3月31日早朝、軽巡3隻(名取、長良、那珂)は水上偵察機を投入して偵察・哨戒・対地支援攻撃を行った。午前8時、クリスマス島守備隊は白旗を掲げ、警戒隊・輸送船は入泊して陸戦隊の揚陸を開始する。20時30分、天津風が到着して対潜哨戒に加わった。4月1日18時、四水戦(那珂、峯雲、夏雲)はクリスマス島北方海面を哨戒していた。この時、潜水艦シーウルフ ("USS Seawolf, SS-197") が本艦を雷撃した。魚雷1本が那珂右舷中央部に命中して大破、一時航行不能となり2隻(天津風、哨戒艇34号)が護衛した。那珂は名取に曳航され、護衛部隊(夏雲、峯雲、長月、水無月)と共にジャワ島バンタム湾へ退避したが、途中で自力航行可能となり、4月3日昼過ぎに到着した。クリスマス島攻略部隊は4月3日の名取バンタム湾到着をもって解散(那珂、夏雲、峯雲は4月2日附で除かれる)、四水戦(那珂、夏雲、峯雲)は4月6日にバンタム湾を経ちシンガポールへと移動した。4月10日着後、西村司令官は那珂を工作艦朝日に托し、第四水雷戦隊旗艦を駆逐艦夏雲に変更して内地へ向かった。また艦隊の再編により第24駆逐隊(海風、江風、山風、涼風)は第一水雷戦隊へ転出、第8駆逐隊(朝潮、荒潮、《大潮、満潮》5月15日除籍)が第四水雷戦隊に編入された。那珂修理中の5月9日、長良型軽巡洋艦4番艦の由良が第四水雷戦隊に編入された。5月20日、四水戦旗艦は夏雲から由良に変更される。一方、那珂は6月3日にシンガポールを出発、台湾馬公市を経由して12日に横須賀帰着。15日附で第四水雷戦隊から除かれた。6月21日、舞鶴市に到着。舞鶴海軍工廠での修理に入った。当時の舞鶴海軍工廠は、秋月型駆逐艦2隻(秋月、初月)、夕雲型駆逐艦複数隻、島風型駆逐艦島風の建造、軽巡洋艦や駆逐艦複数隻(薄雲、大潮、霞《8月13日舞鶴着》、不知火《9月3日舞鶴着》、初春《11月6日舞鶴到着》。)等の修理整備工事を抱えており、本艦の修理と改造もその中でおこなわれた。近代化改装にあたっては、5番主砲が撤去され、5番主砲の位置には12.7cm連装高角砲1基が搭載された。小発動艇を4隻搭載、中甲板以下の舷窓を閉塞するなど、輸送作戦や対空戦闘に対応する改修を実施して、その訓練に従事する。1943年(昭和18年)3月31日、修理完成。1943年(昭和18年)4月1日、軽巡洋艦2隻(那珂、五十鈴)で第十四戦隊が新編される。ただし五十鈴は第三次ソロモン海戦等で受けた損傷を横浜で修理中だった。第十四戦隊は第四艦隊(4月5日より司令長官小林仁中将、旗艦鹿島)に所属する事になり、夕張が同艦隊から除籍された。十四戦隊司令官伊藤賢三少将は本艦に将旗を掲げた。4月5日、那珂は舞鶴港を出港、訓練や哨戒を実施しつつ内海西部を経由して横須賀へと向かった。4月25日、本艦は駆逐艦3隻(時雨、有明、長波)と共に空母2隻(雲鷹、冲鷹)を護衛して横須賀を離れ、4月30日にトラック諸島に到着した。5月から6月の間ヤルート(ジャルート環礁)へ進出した。6月18日、ヤルートでの警戒を終えてトラック泊地へ戻った。一方、修理を終えた五十鈴は空母飛鷹の曳航を実施したのち、第三戦隊(金剛、榛名)や空母龍鳳等と共に横須賀を出発、21日にトラック泊地へ到着。第十四戦隊はようやく定数2隻を揃えた。同日、連合艦隊司令長官は、戦艦大和、第十四戦隊、第十六戦隊(名取、鬼怒、球磨)、巡洋艦部隊(阿武隈、香椎、青葉、川内)各艦の水上偵察機・整備兵をパラオに派遣し、対潜哨戒に従事するよう命じた。那珂水上偵察機はパラオへ移動途中の7月4日、ソロール島で故障して使用不能となった。6月22日より、第十四戦隊はトラックからナウルへの兵員輸送を命じられた。この輸送作戦のため、第四水雷戦隊より軽巡長良、第16駆逐隊(雪風)と第17駆逐隊(浜風、谷風)、第27駆逐隊(有明:22日附で時雨と交代)が選抜され、第十四戦隊(那珂、五十鈴)と行動を共にする。第一次輸送隊(那珂400名、五十鈴453名、浜風70名、谷風70名)は22日、第二次輸送隊(長良350名、雪風70名)は23日、第三次輸送隊(時雨69名、駆潜艇28号、秋葉山丸50名)は24日にそれぞれトラック泊地を出発、25日-26日-29日ナウル着、28日午前-28日午後-7月3日トラック泊地帰着という輸送任務を達成した。続いて那珂と駆逐艦朝凪は7月17日よりトラックからミレ(ミリ環礁)への輸送任務に従事した。この第66警備隊後発隊(約600名)は、空母翔鶴に便乗して7月15日にトラックへ到着した部隊であった。同隊は7月20日にミリ環礁へ到着、先遣隊600名と合流した。8月15日、アメリカ軍はベララベラ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いは緊迫の度合いを増した。同日より五十鈴はラバウル方面に緊急輸送を実施する。8月25日、巡洋艦2隻(那珂、高雄)および第24駆逐隊(海風、涼風)という戦力でラバウルへの輸送任務を実施。29日にトラックへ戻った。9月は3日から兵員輸送をおこなう輸送船2隻(日枝丸、富士山丸)をトラックからクェゼリンへ護衛する。さらに第7駆逐隊漣が途中まで同行した。7日にクェゼリンへ到着、引き続きマロエラップへの兵員輸送に従事。12日、那珂と駆潜艇2隻、輸送船香取丸等はにて米潜水艦パーミット ("USS Permit, SS-178")の雷撃により損傷した特務艦知床と特設航空機運搬艦富士川丸の救援に赴いた。なお救援中にパーミットから雷撃されたが、魚雷は那珂左舷30mを通過するなどして、命中しなかった。知床は香取丸に曳航されてクェゼリンへ向かい、富士川丸は自力でルオット(ロイ=ナムル島)へ向かった。19日からはミレ、ウオッゼへの兵員輸送をおこなった。10月5日、連合艦隊司令長官は、第十四戦隊司令官伊澤少将を指揮官として陸軍第十七師団の南東方面派遣任務『丁四号輸送部隊』の編成を下令した。那珂を旗艦とする部隊戦力は、第十四戦隊(那珂、五十鈴)、軽巡2隻(木曾、多摩)、駆逐艦3隻(野分、舞風、山雲)、輸送船団(栗田丸、日枝丸、護国丸、清澄丸)であった。上海から回航された第一輸送部隊(木曾、多摩)はトラック泊地で駆逐艦卯月を合同後、ラバウルへ向かうが爆撃により木曾は損傷、駆逐艦2隻(卯月、五月雨)の救援を得てラバウルへたどりついた。23日附で軽巡2隻(木曾、多摩)は丁四号輸送部隊から除かれた。第二輸送隊(那珂、五十鈴、山雲、護国丸、清澄丸)は10月11日にトラック泊地を出発、上海市へ向かった。途中、五十鈴は被雷した給糧艦間宮の救援に向かい、艦隊から分離した(18日上海着)。10月21日、第二輸送隊はトラックを出発。10月22日、輸送船団は東シナ海で敵潜に襲撃された。2隻(那珂、山雲)は爆雷攻撃を行った。この米潜水艦はシャード ("USS Shad, SS-235") であった。那珂右舷側に魚雷1本が命中していたが、不発だったという。28日、トラック泊地へ到着する。同地にて戦力の再編がおこなわれ山雲は第三輸送隊(野分、舞風、日威丸、神威丸)に編入、代艦として第17駆逐隊の陽炎型駆逐艦2隻(磯風、浦風)が第二輸送隊へ編入され、那珂の指揮下に入った。11月1日、第二輸送隊はトラックを出港した。11月3日、第二輸送隊はカビエンの北60浬にてアメリカ第13空軍所属B-24爆撃機のべ40機の空襲を受け、機銃掃射により那珂は十四戦隊首席参謀以下戦死7名・重傷者20名という損害を出し、ほかに特設巡洋艦清澄丸が被弾浸水して航行不能となった。至近弾の水柱で「那珂」の姿が蔽われたため、五十鈴側は那珂が撃沈されたと思ったという。空襲後、五十鈴は清澄丸の曳航を実施、3隻(那珂、磯風、水無月《途中合流》)はその警戒と護衛にあたった。4日0時40分、秋月型駆逐艦若月が合流するが、同艦は午前4時に分離してラバウルへ向かった。伊澤少将は健在艦2隻(浦風、護国丸)を分離、先行してラバウルに向かわせた。11月4日午前7時、カビエンに到着。ラバウルより到着した軽巡夕張をふくめ、各艦は清澄丸搭載物件と兵員を転載した。同日、五十鈴と磯風は触雷して小破。磯風はカビエンに残置された。ラバウルへは那珂、五十鈴、夕張、水無月が向かった。同日附をもって第17駆逐隊(磯風、浦風)は南東方面部隊に編入され、第十四戦隊の指揮下を離れた(磯風は内地回航、浦風はラバウル残留)。輸送船団は11月5日にラバウルに到着したが、ちょうどその日にラバウル空襲があり、ラバウル停泊中の重巡洋艦部隊(指揮官栗田健男中将:旗艦愛宕、摩耶、高雄、最上、筑摩、阿賀野、第二水雷戦隊各艦)は大損害を受けた。第十四戦隊(那珂、五十鈴)は被害なく対空戦闘を実施、撃墜15機(重複含む)を記録している。11月6日、第十四戦隊と護国丸はラバウルを出発し、9日にトラックへ戻り原隊へ復帰した。改編第三次輸送隊(野分、舞風、山雲、日枝丸、日威丸、神威丸)は11月3日にトラック泊地を出発したもののラバウル大規模空襲やアメリカ軍潜水艦に反復攻撃された事などから、命令によりトラック泊地へ引き返した。9日になり、第4駆逐隊(野分、舞風、山雲)は輸送船日枝丸を護衛して再びラバウルへ向かった。11月21日、アメリカ軍はギルバート諸島・タラワ環礁へ攻撃を開始、『タラワの戦い』がはじまった。連合艦隊は第四艦隊長官を指揮官として、タラワ増援部隊を編成した。支援部隊(第四戦隊、第七戦隊、第八戦隊、第二水雷戦隊)、南洋方面航空部隊、補給部隊(第十駆逐隊、東亜丸、富士山丸)と共に、輸送部隊(指揮官伊澤少将:第十四戦隊《那珂、五十鈴》、長良、第6駆逐隊《雷、響》)、先遣隊潜水艦9隻という戦力が作戦に組み込まれた。21日、第十四戦隊はトラックを出発、22日にポナペ島に到着して陸軍部隊を収容、25日にクェゼリンに到着した。26日までに軽巡長良、第6駆逐隊(雷、響)はクェゼリンに集結、第十四戦隊(那珂)の指揮下に入る。こうしてギルバート方面への逆上陸準備は完了した。だがタラワはすでにアメリカ軍により陥落しており、逆上陸作戦は実行されなかった。タラワの陥落と、並行して勃発したギルバート諸島沖航空戦の敗北により、日本軍は制海権も制空権も失いかけていた。このような状況下、陸軍部隊の一部を各方面に転用することになり、3隻(那珂、五十鈴、雷)は28日にクェゼリン発、12月1日にミレへ到着した。12月5日、アメリカ軍機動部隊艦載機はルオットを襲撃し、軽巡2隻(五十鈴、長良)を損傷させ、多数の輸送船を撃沈・撃破した(マーシャル諸島沖航空戦)。損傷艦はトラック泊地へ回航された。2隻の損傷により随伴艦は雷のみとなり、2隻(那珂、雷)はポナペ島の陸軍部隊をクサイ島(コスラエ島)へ転進させる輸送作戦に従事する。輸送任務終了後の10日、2隻はトラックに到着してマーシャル方面での行動を終えた。12月17日、空母瑞鳳がトラック泊地に到着、瑞鳳から基地物件を受け入れた。19日トラックを出発し、22日ルオット着。その後、アメリカ軍機の空襲によりサイパン輸送作戦は中止、24日にトラックへ戻った。1944年(昭和19年)1月10日、第十四戦隊司令官は伊藤賢三少将から清田孝彦少将に交代する。松永市郎(当事、那珂通信長)によれば、那珂は内地帰投の予定だった。2月16日、米潜水艦スケート("USS Skate, SS-305")の雷撃で内地へ向け回航中の阿賀野型軽巡阿賀野がトラック泊地北方で航行不能となった。その阿賀野も2月17日午前1時45分、ついに沈没していった。那珂は阿賀野の救援の下令を受けてトラック島を出港したが、途中で阿賀野沈没の連絡を受けてトラックに引き返した。なお、阿賀野の生存者は駆逐艦追風や哨戒艇に救助されている。2月17日未明、アメリカ海軍の第58任務部隊がトラック島を空襲した。トラックへ入泊寸前(北水道を航行中)だった那珂は空襲警報を受けて反転、外洋に出ようとした。だがすでにアメリカ軍機動部隊に捕捉されており、午前7時に艦攻(爆装)約20機、9時に艦爆十数機、正午に艦爆・艦攻約20機、午後2時に艦爆4機の反復攻撃を受けてしまう。当時の天候は全曇でうねりが高く、アメリカ軍機は雲を利用して攻撃をかけてきたという。空母バンカー・ヒル ("USS Bunker Hill, CV-17") および軽空母カウペンス ("USS Cowpens, CV-25") 艦載機部隊の波状攻撃を受けた。魚雷1本と爆弾1発が那珂の艦中央部に命中、艦前部(艦首から約50m、約1/4)を喪失した。前部乗組員は総員退去となり、脱出者はカッターボートで那珂の後部へ移動した。対空戦闘を目撃していた哨戒艇が『那珂は艦橋切断、今なお奮戦中』と打電するほどの対空戦闘を続けたが再び直撃弾を受けて浸水が進み、那珂は午後2時頃に沈没した。地点。約240人が戦死し末沢慶政艦長を含む210人は哨戒艇に救助された。トラック泊地北水道周辺では、空襲と米戦艦部隊の艦砲射撃により第4215船団より3隻(練習巡洋艦香取、駆逐艦舞風、特設巡洋艦赤城丸)が沈没、駆逐艦1隻(野分)のみサイパン方面へ脱出した。第4215船団と同時刻に北水道を通過した第27駆逐隊(時雨、春雨)は、空襲により損傷しつつもパラオ方面へ脱出していった。2月28日、末沢慶政大佐は那珂艦長の職務を解かれた。3月4日、第十四戦隊は解隊され、清田少将(十四戦隊司令官)は横須賀鎮守府附となった。3月31日、トラック島空襲で沈没した艦艇群(那珂、阿賀野、舞風、太刀風、追風、文月)等は同日附で除籍された。また、姉妹艦の川内がブーゲンビル島沖海戦、神通もコロンバンガラ島沖海戦ですでに沈没しており、那珂の沈没により川内型軽巡洋艦3隻は全隻喪失、艦艇類別等級別表からも除籍された。

出典:wikipedia

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