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小和田恆

小和田 恆(おわだ ひさし、1932年〈昭和7年〉9月18日 - )は日本の元外交官。国際司法裁判所判事。外務事務次官、国連大使、財団法人日本国際問題研究所理事長、国際司法裁判所所長(第22代)等を歴任。皇太子徳仁親王妃雅子の実父。1932年(昭和7年)、新潟県新発田市に生まれた。小和田毅夫・静夫妻の次男で、8人きょうだいの4番目にあたる。生家の跡地は現在清水園の駐車場となっている。本籍地は新潟県村上市。旧制新潟県立柏崎中学校(現新潟県立柏崎高等学校)2年のとき、父の転勤により旧制新潟県立高田中学校に転校した。新潟県立高田高等学校を経て、1955年(昭和30年)に 東京大学教養学部を卒業した(教養学士)。1955年から1959年にかけてケンブリッジ大学にて学び、Bachelor of Laws(法学士)を取得した。1955年 (昭和30年)に外務省に入省する。英語研修(ケンブリッジ大学大学院)、条約局法規課、在ソ連大使館、国連政府代表部などを経て、1971年(昭和46年)に欧亜局大洋州課長、外務大臣秘書官事務取扱、1972年(昭和47年)に国際連合局政治課長、1974年(昭和49年)に条約局条約課長、1976年(昭和51年)に 福田赳夫内閣総理大臣秘書官になる。秘書官には他に福田康夫、保田博、棚橋祐治らがいる。以後、在米大使館公使(ハーバード大学ロー・スクール客員教授)、在ソ連大使館公使、に条約局長、1987年(昭和62年)に外務大臣官房長、1988年(昭和63年)にOECD政府代表部大使、1989年(平成元年)に外務審議官、1991年(平成3年)に外務事務次官、1994年(平成6年)に国連大使などを歴任する。外務事務次官であった1991年(平成3年)の湾岸戦争の際には、自衛隊の派遣に反対の立場をとった。1999年(平成11年)に退官した。退官後は、コロンビア大学、ニューヨーク大学などで客員教授として国際法の教授にあたった。国内では、2000年から早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授(国際機構論)。(財)日本国際問題研究所理事長(1999年3月 - 2003年1月)。外務省顧問、世界銀行総裁上級顧問、2002年(平成14年)からは広島大学学術顧問も兼任した。2003年(平成15年)に国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)判事に任命された。前任は、小田滋(1976年 - 2003年まで3期27年間)。2009年(平成21年)国際司法裁判所所長に選出された。ICJの所長に日本人が就任するのは初めて。所長任期は3年で、2012年(平成24年)2月に退任した。所長選挙は、15人の判事による互選方式で実施された。2010年(平成22年)7月22日にセルビアからのコソボの独立の是非に関して、国際法違反には当たらないとの判断を下した(コソボ#コソボの独立も参照)。所長退任後は判事を継続。兄の顯も柏崎中学校(現柏崎高等学校)の関係者の間で語り伝えられるほどの秀才であったが、弟の恆も同様に大変優秀であった。恆は天才タイプではなく、人知れず早起きをして猛勉強をするという努力家タイプであったとされる。池田勇人や大平正芳が率いた「宏池会」の名付け親である陽明学者・安岡正篤が主宰する「而学会」に江藤淳らとともに参加した。外務省官房長だった1988年に創価学会からの要請に応じて、池田大作名誉会長らの外国訪問旅行に便宜供与を図ったとして、国会で追及されている。評論家の渡部昇一は、中曽根内閣の時に小和田が「"日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である"」と答弁したことを、「国賊と言ってもいいでしょう」と強い調子で非難している。

出典:wikipedia

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