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定山渓鉄道線

定山渓鉄道線(じょうざんけいてつどうせん)は、かつて北海道札幌市白石区の東札幌駅(開業当初は白石駅)から南区の定山渓駅を結んでいた定山渓鉄道(現、じょうてつ)の鉄道路線である。1969年に廃止された。廃止時の状態1913年に、国鉄苗穂駅から定山渓に至る軽便鉄道として、定山渓温泉への観光客の輸送、木材の輸送、鉱石と石材の輸送を主な目的として計画された。しかし同年8月の豊平川洪水を受けた護岸工事で当初の敷設予定地が使えなくなった。資金繰りの難もあり、会社の設立は1915年12月に遅れた。白石駅からの路線に変更して1917年4月に着工し、81万2千円の費用をかけて1918年に完成した。10月17日に開業し、白石と定山渓を1時間30分で結んだ。定山渓鉄道は、定山渓温泉の発展とともに順調に業績を伸ばした。会社は1932年から札幌からのバス運行も始めた。1930年代には木材・鉱石の貨物輸送も増えた。戦時中には温泉客が減り、鉱石・石材輸送に重点がおかれた。資材不足が深刻になり、終戦時には稼働率4割に落ち、列車の窓の1/3がベニヤ板に変わっていた。定山渓鉄道線の全盛期は戦後復興とともに訪れた。まず、定山渓温泉が繁栄を取り戻した。1949年から1963年まで、定山渓鉄道線は、夜間発の往復と、ビール券、とうきび、枝豆、温泉利用をセットにした月見電車を走らせた。会社が整備した豊平川沿いのハイキングコースは、多くの市民に利用された。1944年に事故で閉山した豊羽鉱山が1950年に再開し、定山渓鉄道がその鉱石の輸送を引き受けた。1957年に、東京急行電鉄が定山渓鉄道の株を買収し、傘下におさめた。しかしこの頃から鉄道は貨物をトラック輸送に奪われ始めた。特に1963年からは豊羽鉱山の鉱石輸送がトラックに切り替えられた。また、東急傘下入り後に打ち出されていた複線化が実現できず運転間隔が短縮できないまま道路事情が好転し、徐々に乗客がバスやマイカーに奪われたことに加え、1966年に北海道警察本部から豊平駅近くの国道36号線上の踏切が交通上の障害になっているとして高架化するか廃止して線路を撤去するなどの適切な処置を取るよう勧告された。こうした劣勢の中で、札幌市が地下鉄南北線を建設することに伴う用地買収を申し出た。会社はこれに応じて、1969年に鉄道部門を廃止した。廃止後は電車路線に沿う形で代行バスが運行されていたが、既存のバス系統と再編・統合され1970年に廃止された。"鉄道部門廃止以降の会社の沿革についてはじょうてつの項目を参照のこと。"1934年10月1日当時1969年3月19日当時鉄道弘済会の「道内時刻表1967年7月号」92pより作成。v 学校休み運休
+ 土曜運転、ただし学校休み運休この時代の北海道私鉄の気動車の多くが他社に譲渡されたが、当系列は右側運転台や電車との併結に対応するなど特殊要素が多く、同線廃止と運命を共にした。廃線直前の駅・停留所※白石駅 - 東札幌駅間は1945年廃止。以下の駅舎は解体され現存していないが、当時駅前付近に位置していた建築物は、2007年現在も残存している。その他は前述のとおり、一部を除いて痕跡が失われた。廃線後の路線の状態は以下のとおりである。現在、札幌コンベンションセンターとなっている。また、南郷通-国道36号間は路線跡が道路・倉庫・空き地などになっており、豊平駅跡からもほぼ一直線のため容易に辿ることが可能である。この区間でじょうてつに関連する建物(じょうてつアイム東札幌スカイコート、東急不動産ブランズ東札幌、じょうてつ物流、札幌ストアーなど)が軒を連ねているのは、鉄道用地を転用したためである。ただし、旧千歳線とも一部重複するこの区間は、通常は含めない場合が多い。道路及び、地下鉄用地として利用されている。現在の白石中の島通と交差する部分(豊平区平岸3条7丁目、ロードランナー平岸店の前)は隆起しており、当時踏み切りだったことを伺わせる。現・地下鉄平岸駅 - 南平岸駅間の途中からは、地下鉄軌道(地上部)を覆うシェルターが現れるため、現・地下鉄真駒内駅までは容易に辿ることが可能である。ただし、地下鉄が地下に潜ってから先の旧・豊平駅跡までの間は道路として利用されており、緩やかな曲線部などの特徴から鉄道線の痕跡が一部残っている。この区間は、現・地下鉄真駒内駅から計画されていた地下鉄南北線延長区間の用地として、廃止時に札幌市へ譲渡されていた。現在、地下鉄延長計画は凍結され、延長予定区間の多くは空き地となり、森林、畑、駐車スペース、自動車道、歩行者専用道路、公園内散策路やサイクリングロードなどに活用されている。緑ヶ丘停留所からは石切山駅方面に向かって森林となり、鉄道跡を寸断する形の交差点近辺(真駒内南町)はじょうてつバス転回場兼駐車場となっている。交差点からは森林及び歩道となり、石山陸橋下をくぐるトンネルから続く自動車道と歩道とが合流する。石山陸橋は、旧国道230号(藻南橋方向 - 石山中央方向)と国道453号(真駒内花園方向 - 常盤方向)が合流する地点に、道路が定鉄をオーバークロスする跨線橋として架設されていた。鉄道廃止後もしばらく跨線橋は残存していたが、交差点改良による拡幅でまず跨線橋の西側(石切山側)が埋設され、後に東側も埋設された。その後、改めて旧跨線橋の地点にトンネルが構築されたが、しばらく放置されていた。地下鉄南北線延長計画が凍結され、その後正式に延長中止が決定され、現在、このトンネルは一方通行の一車線自動車道(石山→真駒内方向)として活用されている。このトンネル以南、石切山駅を中心とした南北付近は、歩道付き自動車道からはずれ、公園内の舗道(散策路)となり、再び車道や生活道路、空き地となっている。石切山駅以南も、国道230号とほぼ平行に南方方向から西方向に折れていくが、廃線後、同国道は新道に切り替わったために、廃線跡と交差する形となった。札幌市立石山小学校のグラウンド拡張工事などに伴って痕跡は徐々に失われつつあるが、この近辺は比較的、容易に辿ることが可能。この区間の築堤は、豊平川の河岸段丘や段差を利用したことや、地盤の脆弱さから、営業中にたびたび補修を要した。放置された現在では崩落している区間も多く、足を踏み入れることが危険な地域もある。また、笹薮や森林に帰っている所も多い(詳細後述)。砥山通などの自動車道として拡幅され、活用されている。郊外型大型店舗敷地内として買収されたことに加え、廃止後に並行していた国道230号も拡幅されたため、位置の確定は困難である(連合町内会などが中心となって作成された一部地図には、この区間の路線跡が記されているが、実測された上で記されたものか、当初の地図と重ね合わせたものかは不明)。路線痕跡はほぼすべて消失している。多くはホテルなどの敷地として買収されたり、商店街に吸収された。一部は生活道路や公園内の歩道として残っているとされるが、廃線跡をそのまま利用したものかどうかについては不明である。路線位置確認が困難になりつつある。豊平川の河岸段丘を利用していたため、廃止後に崩落した箇所も多く、足を踏み入れることはきわめて危険である。さらに前述の通り、豊滝停留所への歩行者専用道路も消失している。東簾舞停留所から途中までは畑やそこへ通じる通路として利用され、その先は豊平川河岸段丘を利用していて、高圧電線用の鉄塔もあるが、途中には崩落の恐れがある箇所もあり藪や森林となっている。以前は遊歩道として記されている地図もあったが、現在は通行不能。さらに学校法人の敷地内へと入り実質の痕跡は消失。その先の下藤野停留所までは、車道脇や個人住宅の土台や敷地内にそれらしいと思われる痕跡もあるが、現在は見解が分かれていて、当時の築堤跡を利用したものかは検証不能。1958年、親会社となった東急社内に札幌付近陸上交通機関整備委員会が設置され、この委員会で定山渓鉄道の複線化ならびに中山峠方面への路線延長と札幌乗り入れ、および資本金6億円で「札幌急行鉄道」を設立して札幌 - 上江別間20.5kmの地方鉄道を新規開設し、上江別から夕張鉄道線に乗り入れて、札幌から夕張までを直結させることが決まった。東急は早速夕張鉄道の親会社である北炭と共同で設立にとりかかり、免許申請を行った。東急は、札幌市内を地下鉄で建設し、この新設鉄道を鎹にして定山渓鉄道・夕張鉄道の一元化を図り一大私鉄網を築いて、北海道振興に寄与することを最終目的としていた。しかしながら、その後東急社内による調査の結果、札幌急行鉄道を新規開業することによる投資効果が希薄であり、不採算事業となるだけであるとされ「札幌急行鉄道」は設立されず、免許申請も取り下げられた。

出典:wikipedia

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