LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

姫路市企業局交通事業部

姫路市企業局交通事業部(ひめじしきぎょうきょく こうつうじぎょうぶ)は、兵庫県姫路市で路線バス、モノレール、ロープウェイ(書写山ロープウェイ)事業を行っていた公営事業者である。当初は姫路市交通局と称していた。モノレールは累積赤字の影響で廃止、書写山ロープウェイは姫路市観光交流推進室に移管、路線バス事業もモータリゼーションの進展等で利用者が減少し2010年3月26日で神姫バスに路線移譲された。22路線44系統、営業距離 105.74kmの路線を運行していた。姫路駅の南北にターミナルを設けており、飾磨駅・網干駅発着の路線もあった。平成18年(2006年)年度末時点での輸送人員は12,327人/日。神姫バスと区別するため、単に「市バス」もしくは「市営」とも呼称されていた。戦後の混乱期に民間事業者のバスがストライキ等で麻痺した経験から、市民のための交通機関として石見元秀市長が主導して設立された。開業初期は車両が足りず、トラックに幌をかけて客席を取付け、幌バスとして運転するなどした。モータリゼーションの進展と、運行エリアがインナーシティ問題や重化学工業衰退の影響を強く受ける地区のため経営状況は非常に厳しく、累積欠損額は平成18年度決算で約11億5千万円に達しており、様々な合理化が行われてきた。姫路市の市営バスは1947年の開業後、市民サービス向上の方針のもとに路線網の拡大を進めていった。当初は神姫バスも協力的だったが、市営バスの路線拡大と共に競合路線が増加し、次第に対立関係となっていった。しかし1960年代に入り、モータリゼーションの進捗による利用者の減少などから、他の公営バス事業者でも顕在化していた赤字体質が問題化していた。そこで、1971年6月18日に交通事業再建対策審議会が発足、7月21日に吉田豊信市長から諮問を受け、翌1972年2月10日に同審議会は吉田市長へ答申。これを受け、1972年9月30日に交通事業再建整備計画が策定された。1972年当時、姫路市交通局では神姫バスとの競合路線も多く非効率だったため、主に国道2号より南側を市営バス、国道2号の北側や市域外にかけては神姫バスのエリアとして路線交換を行うこととし、1972年12月22日に路線再編成第1次分を、翌1973年4月5日に第2次分を実施した。市営バスは合理化を達成できたが、神姫バス側は有力な南部路線を手放す形になった。その後も散発的に神姫バスへの路線譲渡を実施しており、1996年以降に大日東口線や青山ゴルフ場線、網干駅 - ダイセル(ダイセル姫路製作所網干工場)線などが神姫バスに譲渡され、2007年3月24日に書写駅(書写山ロープウェー)線と大池台線、2008年3月22日には姫路駅北口 - 才崎橋西詰 - 新日鉄病院・新日鉄(新日本製鐵広畑製鐵所)線が譲渡されている。その後も姫路市街付近などでは神姫バスと重複する区間があり、姫路市営バス・神姫バス双方で指定された区間に限り利用できる共通定期券を発行。神姫バスは、自社発行のNicoPaやJR西日本のICOCAなどのIC乗車券に対応しているが、姫路市営バスではNicoPaなどのIC乗車券には対応しないまま、事業撤退を迎えた。2008年9月16日に、当時運行していた16路線34系統すべてを、公募で選定した1つの運行事業者に2か年かけて移譲し、バス事業を廃止することが発表。2008年11月6日に、バス事業の移譲先が神姫バスに決定した。移譲路線と移譲時期は下記の通り。2010年3月26日をもって全路線の民間移譲を完了し、市営バス事業は廃止になった。なお、姫路市に続いて、明石市営バスも2012年3月16日に、尼崎市営バスも2016年3月20日から全路線を阪神バスへ委譲する形でそれぞれ廃止しており、神戸市(政令市)以外の兵庫県内の公営バスは伊丹市のみになった。日産ディーゼル(現「UDトラックス」)・日野・いすゞ・三菱ふそうの国産4メーカーをほぼ均等に導入していた。末期はCNGノンステップバスを含むノンステップバスがほとんどを占めており、一部ワンステップバスが在籍していた。車体も純正メーカーがほとんどだが、若干西日本車体工業製も在籍していた。民営化にあたり大半が神姫バスに引き継がれたほか、芸陽バスに日野ブルーリボンの西工架装車1台、富山地方鉄道に日産ディーゼルRM・いすゞエルガミオの2台が移籍している。姫路市交通局モノレール線は兵庫県姫路市の姫路駅から同市の手柄山中央公園にあった手柄山駅までを結んでいた鉄道(モノレール)路線(廃線)。1966年に開業したが営業不振などにより1974年休止、1979年廃止となった。正式な路線名は無く、一般には姫路市営モノレールなどと呼ばれていた。(データ出典:『鉄道ピクトリアル』1970年4月号『姫路モノレール』)姫路市の戦後復興を指導した石見元秀市長の下、交通混雑の緩和と市勢拡大を目指して、市南部の工業地域や市北部の住宅地域と都心を結ぶ目的で企画された。石見は海外視察で乗車したアメリカのディズニーランドのモノレールの快適さに強く興味を引かれたという。1966年4月6日から同年6月5日にかけて手柄山で開催された「姫路大博覧会」(以下、姫路博)会場への輸送機関という名目で、姫路(仮)駅 - 手柄山駅間を先行開業させた。総工費14億5千万円と8か月の工期を要した。当初は開幕に先立つ4月3日の開業を予定していたが、姫路駅予定地の立ち退き交渉に手間取ったこと、台風や集中豪雨の影響もあって姫路博開幕には間に合わず、会期後半の5月17日になってようやく開業した。これに続けて飾磨・広畑の臨海工業地域まで路線を延ばすことが検討され、さらに市内に環状路線を建設し、日本海側の鳥取まで路線を延伸する壮大な構想が立てられていたという。しかし、運行距離が短く、終端が山上の都市公園内という立地もあって、姫路博終了後は利用者が激減。開業初年度は402,967人だった利用者数も、翌年(1967年)度には334,517人、翌々年(1968年)度は245,718人と、当初予想の100万人を大きく割り込んだ。起終点の立地もさることながら、並行する山陽電鉄の姫路 - 手柄間の運賃が1969年まで20円、1974年まで30円だった時期に、姫路 - 手柄山間が100円という高額な運賃の影響も大きく、「タクシーの方が安かった」とまで言われた。営業係数は開業した1966年で195、翌年以降は400を超える水準で推移し、毎年1億円あまりの資金が姫路市の一般会計から投入され、一部の市民からは「市のお荷物」とまで言われたという。その後、建設推進派の石見が市長選挙で落選し、反対派の吉田豊信が当選したことや、当時は国からの補助金交付制度がなかったこともあり、累積赤字が膨らみ路線が延伸されないまま、「乗客増が見込めない」「老朽化による維持修繕費の増大が見込まれる」「特殊な構造のため部品補充が難しい」という理由により、わずか8年で営業休止となり、1979年に正式に廃止された。1974年4月時点での累積赤字は10億7200万円にも達していた。廃止後も軌道桁などの設備は、撤去費用や起債の償還等の問題もあり放置されていたが、一部で歩道化など再利用についての検討も行われていた。この間、休止中は実施されていた、保線車両による保守が廃止で取りやめとなった結果、1984年10月13日夜に手柄山駅北方で老朽化した饋電線が800mにわたって落下する事故が発生。このため同年以後は他事業に絡む部分から撤去が開始された。しかし恒久施設として建設された鉄筋コンクリート製橋脚の解体や、大型レッカー車の手配を要する軌道桁の撤去には約20億円もの費用がかかるため、現在でも軌道跡下にビルなどが建っている部分などを中心に橋脚や軌道桁が撤去されずに残っている区間がある。1991年には社会学者の鵜飼正樹(現・京都文教大学准教授)が、古代ローマの水道橋をも連想させるこの廃線跡を「現代遺跡」と命名した。姫路市営モノレール線が営業していた8年間の各年度ごとの輸送・営業実績を下表に記す。輸送量は目標に遠く届かなかった。下表では、各項目の最高値を赤色の背景色で、最低値を青色で表示している。全駅兵庫県姫路市に所在。姫路駅 -(0.5km)- 大将軍(だいしょうぐん)駅 -(1.1km)- 手柄山駅跨座式モノレールであり、ロッキード式と称された。軌道桁の上に設置された一本の鉄製レール(当時の新幹線と同じ50Tレール)の上を鉄車輪で走行する方式で、桁の両側には下部安定輪用の22kgレールが、手柄山に向かって右側に給電用の30kgレールとが取り付けられていた。高速走行も可能で、一般的な鉄道車両技術とも一定の共通性があり都市交通機関として発展が期待された。しかし、その走行時の騒音は後年日本跨座式として標準化された、ゴムタイヤを用いる日立アルウェーグ式に比べて格段に大きく、特に国鉄山陽本線を乗り越えるトラス橋を中心とする、鋼製橋梁部分の通過時には、大きな反響音が発生した。しかもその最終期はシステム開発に携わったアメリカのロッキード社(現在のロッキード・マーティン)がモノレール市場そのものから撤退して日本ロッキード・モノレール社が1970年9月に解散。これに伴う補修部品の供給難と予算不足で車両、軌道共に保守状態が悪化していたために乗り心地が著しく低下してもいた。部品不足を補うため、4両在籍した旅客車の内1-2両を休車として部品の補填を行っていた。最高160km/hまで可能とされた高速走行のメリットを除外すれば、鉄車輪と鉄軌条を用いるこのロッキード式は急勾配登坂能力と静粛性の点で不利である。遊園地の送迎はともかく未来の都市交通の担い手として考えた場合、部品供給を絶たれたこの方式の継続使用に合理性を見いだすことはできなかった。ロッキード式は日本国内では他に、小田急電鉄の向ヶ丘遊園モノレールに採用された。こちらは部品を自社工場で製作する技術力と資金力があり、しかも鉄道車両と親和性の高いシステムで保守上致命的な問題が長期にわたって発生せず、姫路市営線の廃止後も長く運行されたが、最終的には台車に亀裂が入り運行中止となった。開業時に片運転台式の100形101・102、両運転台式の200形201・202の計4両が川崎航空機岐阜工場で製造された。これらは同じロッキード式の小田急500形電車が観光路線向けの「標準I型」と呼ばれたのに対して、より大型の「標準II型」と呼ばれていた。他に内燃式の軌道点検車が1両あった。アルミニウム合金製の部材を沈頭鋲で組み立てるという、完全に航空機の流儀で設計された軽量セミモノコック構造の流線型車体で、全長15m、全幅2.9m、自重は100形が18t、200形が18.4t。車体前面は曲面ガラスと貫通扉を組み合わせ、100形の連結面と200形には貫通幌が装着された。窓配置は100形がd1D4D11(d;乗務員扉、D:客用扉、D隣接の1枚窓は戸袋窓で幅が約半分、それ以外は約1.5m幅の広窓を採用した)、200形がd1D4D1dである。車内は窓配置に合わせた固定式クロスシートのみという、当時としては贅沢な設計であった。側窓は、常用で約11センチ、非常で約35センチ下降させることができた。天井にはファンデリアが設置され、常時稼働で強制換気を実施した。モノレール特有の非常脱出装備として円筒形の脱出シュートが各車両に備え付けられ、非常時には扉外側につり下げられることになっていた。電装品は端子電圧300Vの75kW級主電動機を4基搭載、直角カルダン駆動により各台車の各車輪を個別に駆動し、4.0km/h/sという高加速性能を実現した。台車は川崎車両が製作した、ダイアフラム式空気バネとトーションバーを組み合わせた特徴的な構造の2軸ボギー式で、610mm径の弾性車輪を採用、タイヤのフラット発生が直接乗り心地に悪影響をおよぼすため、自動車によく見られたドラムブレーキが採用された。ブレーキシステムは三菱電機製HSC電磁直通ブレーキで回路構成の簡略化のためか発電制動はなく、減速度は4.0km/h/sである。車輪径が610mmと小型であるため、コンパクトかつ低い車高で完全にフラットな床面構造を実現していた。姫路博期間中は3両編成で運行されていた。姫路博終了後は200系の単行でも十分な程度の乗客しかいなかったが、万一の故障に備えて2両編成で運行されていた。全体構想は一般的な市内交通としての位置付けであったが、開業区間は都心地域と都市公園(手柄山総合公園)を地理的に近づける水平エレベーター(短距離の公共交通機関をエレベーターに例えたもの)としての機能が意識されていた。また手柄山公園の駐車場を利用したパークアンドライド・観光バスアンドライド(観光バスを郊外に置き公共交通機関へ乗り換えること)を実施するなど、非常に先進的な実施事例があった。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。