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流星 (航空機)

艦上攻撃機「流星」は、太平洋戦争末期に登場した大日本帝国海軍の艦上攻撃機である。設計・開発は愛知航空機。略符号はB7A。連合国によるコードネームはGrace。敗戦当日、木更津海軍航空基地から房総半島沖の空母ヨークタウンに特別攻撃を行い、海軍公式記録上「最後の特攻」となった。多任務艦上攻撃機で急降下爆撃・水平爆撃・雷撃、すなわち艦上爆撃機と艦上雷撃機の両機種の役割を兼ねる。単発レシプロ機。2人乗りで全金属製、応力外皮(モノコック)構造で作られている。主脚は内側引き込み式で尾輪をもつ。主翼は逆ガル型中翼単葉で外見上の大きな特徴となっている。日本海軍の定義では急降下爆撃の可能な機体は「爆撃機」、雷撃の可能な機体は「攻撃機」に分類されるが(水平爆撃は両機種とも可能)、本機は「爆撃機」に準じた名称を持つ(「星」が付く名称は単発爆撃機用と定められていた。攻撃機は「山」が付く名称)が、「B7A」の略符号が示す(愛知航空機製(A)、7番目の艦上攻撃機(B7))様に機体分類は「攻撃機」になっている。因みに同様に急降下爆撃と雷撃を兼用する陸上機である銀河は、「爆撃機」に分類されている。他の単発艦攻や艦爆と比較して傑出した性能をもっていたが、本機が完成した終戦間際には日本軍は新造航空母艦を本土決戦に向けて温存したため、艦上機としての性能を発揮する機会に恵まれなかった。終戦後、日本を占領する連合国の一国として進駐したアメリカ軍によって4機が接収され、そのうちの1機はワシントンD.C.のスミソニアン航空博物館にて分解状態で保管されている。2014年2月23日に、「流星」の風防の一部が熊本県八代市で見つかっていたことが発表された。「流星」の機体を製造していた第21海軍航空廠(長崎県大村市)へ部品を納入していた三陽航機八代工場の関係者が、機体の一部を戦後も保存しており、これが他者に譲渡されたものを調査したところ「流星」の風防であることが確認された。日本国内に現存する唯一の「流星」の機体の一部だと考えられている。高速能力を得るために空気抵抗となる爆弾は胴体内爆弾倉に搭載する。ただし航空魚雷は爆弾倉外の胴体下面に懸吊する。爆弾倉は胴体下部に位置するため、主翼は中翼形式とし逆ガル翼を採用している。本機の主脚には空母への着艦の衝撃に耐え、大型で重量のある爆弾を搭載するための頑強さが必要とされたのだが、通常の中翼形式では主脚が長くなってしまい、構造的に離着陸の際の安定に欠けるだけでなく強度的にも重量的にも問題があった。そのため逆ガル翼の折れ曲がり位置に主脚を配置することで、その脚の長さを短くし強度を確保したのである。また逆ガル翼は主翼と胴体部を接続するフィレットを必要としないため、重量軽減の効果もあった。主翼後部には彗星で開発された、セミ・ファウラー式フラップを備え、フラップ作動時には補助翼も下がるエルロン・フラップも採用。短距離離着陸能力だけでなく運動性をも向上させている。九七艦攻や天山が、防弾装備を持たなかったのに対し、本機はそれらの装備を持った日本海軍で唯一の艦上攻撃機である。量産機には離昇出力1,825馬力の中島の「誉」一二型を搭載、出力に合わせ4翅の定速プロペラを採用している。防御力の強化や頑強な機体構造により機体重量は3.5t、全備重量は6t弱と大重量の機体となったものの、2,000馬力級エンジンの搭載と洗練された空力性能、可動フラップの採用により、艦攻としては抜群の高速性能と、軽快な運動性を兼ね備えていた。第一次世界大戦から第二次世界大戦までの各国の艦上機は、戦闘・爆撃・雷撃・偵察と用途ごとに開発・設計が行われていた。しかし従来の急降下爆撃機の搭載量では、防御力が増した艦船に対し威力不足となりつつあり、より大型の爆弾を搭載するための強固な機体が必要となっていた。一方の雷撃機でも、より機敏な運動性能とそれに耐えうる機体強度が必要とされていた。このように両機種に要求される性能が接近しており、機種の統合が企画されるようになっていった。また、機種統合による一本化は搭載機数に限りのある空母の運用から見ても望ましい事案であった。昭和16年(1941年)、こうした流れをうけて日本海軍は艦上爆撃機(急降下爆撃機)と攻撃機(雷撃機)の統合を計画。実用機試製計画に基づいた十六試艦上攻撃機として艦上機開発で実績のある愛知航空機に開発を命令し、B7A1の略符号を与えた。主な仕様要求は以下の通りである。(以上の文面は、機体設計者の尾崎紀男の手記の表現によるもの)要求内容は過酷であったが、誉一一型発動機を搭載した試作1号機が1942年12月に完成し、初飛行を遂げる。この際、重量過多や強度不足、楕円翼の主翼の空力特性が悪かったため、試作2号機からは主翼が後端が直線となったテーパー翼に変更するなど全体的に再設計が施され、これに対しB7A2の略符号が与えられ関係者の間では「流星改」と呼ばれたという言説がある。しかし、流星の設計主務者を務めた尾崎紀男技師はそのような大規模な改修は行っておらず、軽量化のため一部の設計を変更したことと量産に備えて設計図面の様式を変更したことが誤って伝えられたのではないか、と手記に記している。これと符合する様に、流星の量産型の略符号をB7A2とするのは間違いで、流星の略符号は量産型まで含めてB7A1で、B7A2は発動機を誉二三型に変更した性能向上型の略符号であるという指摘がされている。その後製作された8機の増加試作機を用いて試験と改設計が行われ、1945年2月に「流星一一型」として制式採用されている。量産型の生産は1944年4月から行われているが、高性能な機体ゆえに、またB-29による爆撃と1944年12月7日に発生した東南海地震による工場の被災もあり、生産は遅々として進まなかった。生産拠点の分散のため、大村の第二一海軍航空廠での転換生産も行われていたが、やはり生産速度は上がらず終戦を迎えた。最終的な生産機数は試作機9機を含めても約110機である。一部が横須賀海軍航空隊で実験機として使用されたが、終戦までの間に実戦部隊で「流星」を装備したのは、第三航空艦隊所属の第七五二海軍航空隊・攻撃第五飛行隊のみであった。「流星」を装備した第七五二海軍航空隊・攻撃第五飛行隊は、1945年5月以降、千葉県の木更津海軍航空基地に展開し、終戦直前の1945年7月下旬(7月25日)から同年8月15日の終戦当日までの数回にわたり、当時、関東沖を中心として日本本土近海に接近し、日本本土各地に対する空襲作戦を遂行していた米・英海軍高速空母機動部隊に対する攻撃を(7月25日の夜半に第二波攻撃隊として出撃した5機編成の夜間雷撃隊による夜間雷撃を含めて)少数機により敢行したが、その戦果は不明である。

出典:wikipedia

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