御茶ノ水駅(おちゃのみずえき)は、東京都千代田区と文京区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。神田川(外堀)南側(千代田区側)にJR東日本の駅が、北側(文京区側)に東京メトロの駅がある。所在地はJR東日本が千代田区神田駿河台二丁目、東京メトロが文京区湯島一丁目である。JR東日本の各線(後述)と、東京メトロの丸ノ内線が乗り入れる接続駅である。中央線快速の駅番号は「JC03」である。中央総武線各駅停車の駅番号は「JB18」である。丸ノ内線の駅番号は「M 20」である。JR東日本の駅は、当駅の所属線である中央本線と、当駅を終点とする総武本線(支線)との分岐駅となっている。中央本線の当駅以西(新宿駅方面)は急行線(快速線)と緩行線との複々線区間である。急行線には東京駅発着の中央線快速電車が、緩行線には総武本線(錦糸町駅方面)と直通運転を行っている中央・総武線各駅停車が乗り入れる。ただし早朝・深夜帯は、東京駅発着で中央緩行線に乗り入れる各駅停車も運行される。またJR東日本の駅は、特定都区市内制度における「東京都区内」、類似の制度である「東京山手線内」に属している。駅名の元となった地名の由来については御茶ノ水を参照。現在の中央本線の新宿 - 八王子間は、私鉄の甲武鉄道が建設した。その後甲武鉄道は東京市街地中心部への路線延長を図り、1895年(明治28年)4月3日に飯田町駅まで蒸気機関車による運転で開通した。この飯田町駅は飯田橋駅よりも東側にあった駅で、後に貨物駅となり1999年(平成11年)に廃止となった。さらに甲武鉄道は、列車運転本数の増加を図るとともに、蒸気機関車の運転による音や煤煙の公害を軽減する目的もあって、路線の電化を行って電車の運転を開始し、路線の市街地方面へのさらなる延長を行った。こうして1904年(明治37年)12月31日に飯田町から御茶ノ水までの路線が当初から複線電化で開通し、御茶ノ水駅がこの際に開業した。御茶ノ水 - 中野の間で1日28往復、新宿までは10分間隔の運転であった。当初の御茶ノ水駅は現在地よりも新宿寄り、御茶ノ水橋を挟んで反対側にあった。当時の駅舎の跡地には神田警察署お茶の水交番が所在している。駅舎は洋風木造平屋建て、またプラットホームは相対式ホーム2面2線であった。この区間の建設に当たっては、東京市区改正委員会から道路への影響を避けるように求められ、結果として外濠の内側を走る経路が選択された。また土手や崖地の景観をできるだけ保全するように求められ、さらに湧水にも苦しめられる難工事となった。こうした条件から、御茶ノ水駅は神田川と崖が迫る狭隘な場所に建設される結果となった。甲武鉄道はさらに御茶ノ水駅より東側の区間の建設を進めていた。しかし1906年(明治39年)10月1日に鉄道国有法により甲武鉄道は国有化され、御茶ノ水駅は国有鉄道の駅となるとともに、御茶ノ水駅より東への延長工事も国鉄へ引き継がれた。1908年(明治41年)4月19日に昌平橋駅までが開通して、当駅は中間駅となった。また同年10月12日に国有鉄道線路名称が制定されて、御茶ノ水駅が所属する路線は中央本線と命名された。1923年(大正12年)9月1日には関東大震災に見舞われ、御茶ノ水駅は駅舎が一部焼失する被害を受けた。しかしこれは応急復旧されてそのまま使用された。また神田川に面した崖が大規模に崩落し、この箇所を復旧した形跡は2010年代に入ってもなお残されている。それまであまり輸送量の大きな路線ではなかった中央本線は関東大震災後、復興資材となる砂利の輸送が拡大し、通勤輸送についても輸送量が急増した。さらに失業対策事業の一環もあって、大正末期に御茶ノ水 - 中野間の複々線化工事に着手することになった。またこの頃、総武本線は両国駅が起点だったため、旅客はバスに乗り換えて他の路線の駅に向かわなければならなかった。総武本線を市街中心地まで延長して他の路線と連絡させる計画は古くからあったが、関東大震災で市街地が焼失したことを契機とする区画整理の一環として線路用地を買収し、両国と御茶ノ水を結ぶ高架路線を建設することになった。この工事に伴い、御茶ノ水駅はそれまでの所在地より東側の、お茶の水橋と聖橋の間に移転した。出入口は御茶ノ水橋と聖橋の双方のたもとに設けられた。プラットホームは島式ホームを2面設置して、両国と連絡する総武本線の線路を内側、中央本線の線路を外側にした方向別配置とした。総武本線の線路は御茶ノ水を出ると、33パーミルの上り勾配で登って中央本線の上り線を跨ぎ越す構造とされた。総武本線は中央本線の緩行線・急行線の双方ともに連絡でき、かつ折り返しもできる配線とされた。プラットホームは完成時点では全長152.2メートル、幅は川側の中央本線上り・総武本線下りホームが6.5メートル、山側の総武本線上り・中央本線下りホームが5.8メートルとなった。工事は、中央本線の電車が行き交う脇で、しかも駿河台の民家に近接して高さ12メートルにおよぶ擁壁を構築する必要があるなど、困難なものとなった。施工は大倉土木(現在の大成建設)が請け負った。総武本線側の工事が完成して1932年(昭和7年)7月1日から御茶ノ水駅に総武本線の電車が乗り入れを開始し、続いて1933年(昭和8年)9月15日に御茶ノ水 - 飯田町間の複々線化工事が完成して中央線急行電車(現在の中央線快速)が運転を開始した。総武本線の乗り入れ工事に合わせて、2代目の御茶ノ水駅舎の建築が行われた。この頃の建築界では、過去の様式にとらわれずに新しい建築材料にもっとも適した建築をしようというウィーン分離派(ウィンナー・セセッション)の動きが出ていた。そして鉄・ガラス・コンクリートといった材料を使って、無装飾で実用本位な建築を行うインターナショナル・スタイルが誕生し、日本においてもこうしたモダニズム建築の動きが見られるようになった。こうしたモダニズム建築の様式による駅舎の設計を行ったのは、東京帝国大学建築学科を卒業して鉄道省に入省した、建築家の伊藤滋であった。設計に際しては、湯島聖堂の近くにあるから東洋趣味を重んじたものにするように、との外部団体からの要望も寄せられたが、伊藤はこれを一蹴し、震災復興橋梁として先に完成していた聖橋(1927年完成)、御茶ノ水橋(1931年完成)との調和を重視した設計を行った。それまでの駅はいったん乗客を待合室に滞留させてからプラットホームへ導くものであったが、伊藤は駅は道路の一部であるとして旅客流動を重視した設計を行い、やってくる乗客を次々に捌く新しい電車時代の駅を設計した。これは駅舎設計の根本的な転換で、以降の通勤電車の駅の設計の基本となった。これ以降、乗降客数は比べ物にならないほど増加したものの、御茶ノ水駅はその機能を果たし続けている。第二次世界大戦後は、国鉄の駅にはプラットホームの延長や上屋の設置といった工事が行われた。1954年(昭和29年)1月20日には帝都高速度交通営団(営団)丸ノ内線の御茶ノ水駅が開業し、1969年(昭和44年)12月20日には営団千代田線の新御茶ノ水駅も付近に開業している。丸ノ内線の御茶ノ水駅の建設にあたっては、国鉄駅より駿河台側や国鉄駅の直下なども検討されたが、建設費節約の関係から現在地の神田川左岸が選択された。御茶ノ水駅は神田川に面した急傾斜地に建設された関係で、アプローチ部分が半地下の駅舎のような構造となったが、建設費の節約を追求した当時の鈴木清秀営団総裁の「いたずらに宏壮華美を求めない」との方針の影響を受けてか国鉄の御茶ノ水駅と同じくインターナショナル・スタイルで設計されることになった。設計を担当したのは、国鉄の御茶ノ水駅の設計にも伊藤滋を補佐して関わった土橋長俊の主宰する土橋大野建築事務所であった。風致地区であったため上質な仕上げが心がけられ、ガラスをはめ込んだ出入口や軟石を貼るなどされている。単純な直線と曲線を組み合わせたシンプルで無駄のない造形であり、頂部の半円形の連続窓は土橋のかかわった交通博物館のガラス張りの階段室に通じるとされる。第二次世界大戦中の鉄筋コンクリートなどの資材不足により一度は途絶えた日本の鉄道におけるモダニズム建築はここで再び受け継がれ、以降の国鉄の駅舎の多くがインターナショナル・スタイルで建設されていくことになった。当駅付近の丸ノ内線建設工事の際に、縄文時代の遺物が発見されて学術調査により貝塚と認定され、お茶の水貝塚と命名されている。1968年(昭和43年)7月16日の22時30分頃、当駅の1番線ホームを出発した豊田行き10両編成の電車のドアに乗客が挟まれているのを駅員が発見し、非常停止ブザーを扱ったために電車が非常停止した。後続の高尾行き10両編成の電車の運転士は、先行列車が出発するだろうとの見込みに基づいて、自動列車停止装置 (ATS) の電源を切って停止現示の信号を無視して進入したため追突事故を起こし、重軽傷者150人以上を出した。国鉄分割民営化直後、JR東日本では1988年(昭和63年)に御茶ノ水駅の改築計画を打ち出した。従来の単なる通過点としての駅から、人々が楽しみ、最新の情報が得られる多様なサービス機能を備えることが必要であるとして、「都市型未来志向のモデル駅」として、事業費65億円、賞金2000万円の公開コンペを1989年に実施した。252点の応募があり、ゼネコンの応募した作品が最優秀に選ばれた。最優秀賞の設計は、3階建て延べ床面積約11,000平方メートルで、1階は列柱とアーチのコンコース、2階には水族館とホール、3階には美術館を備えるものであった。しかしその後、列車の運行を止めずに工事を進めるには上部を支える強い支柱が必要で技術的に難しいといった理由からJRはチームを解散し、改築計画は自然消滅となった。改築計画の消滅により、1932年に完成した駅構造がそのまま21世紀まで使い続けられることになった。駅が神田川と駿河台に挟まれた狭隘な場所にあるという構造上・立地上の問題からバリアフリー対応が十分に行われず、車椅子用のリフトは設置されているが、エレベーターやエスカレーターは設置されていないままであった。周辺に大学病院などの大規模な病院が数多く立地し、外来で通院する高齢者などから苦情が寄せられていたため、2002年に周辺の8病院が連名でJR東日本にバリアフリー対応の要請を行い、また、2006年12月下旬からエレベーターとエスカレーターの設置を求める署名運動が行われて、2008年に約1万2000人分の署名を千代田区長に提出して対策推進を要望した。これに対して、JR東日本は長らく費用面から及び腰であったが、2010年3月26日に、当駅で2010年度末からバリアフリー整備を行うことがJR東日本より発表された。また同日千代田区もJR東日本と連携して駅前広場の整備事業を行うことを発表した。その内容は、線路上空に人工地盤を設置し、改札内に連絡通路を新設し、御茶ノ水橋口駅舎および聖橋口の駅前広場機能の整備を行う。また、聖橋口駅舎を人工地盤上に移設してエレベーターやエスカレーターなどを設置することによりバリアフリー整備を行うものであった。これには、聖橋口前での旧日立製作所本社ビル(御茶ノ水セントラルビル)跡地での大型複合ビル建設など、病院の町としてだけでなく新たなオフィスビルの集積を目指した都市改造プロジェクトが進められていることから、新たな客層獲得がJR東日本の改修工事着手を後押しすることになったと推測されている。今回の計画は、同駅が狭隘な位置に立地していることから非常に難易度の高い大規模な工事になり、それに伴い列車の運行を変更する可能性もあるという。2010年度内に概略設計や関係者との調整を行い、同年度末の工事着手を目指して検討が進められる。2013年の秋以降は、駅構内や周辺の耐震補強を含めた本格的な駅改良工事へ入り、バリアフリー整備関連は2018年度まで、駅前広場機能整備は2020年度の完成を目標としている。なおJR中央線は、2020年度を目途に快速電車へ2階建グリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのため快速電車が発着する1・4番線は、今後12両編成の列車が停車できるようにホームを延長する工事が実施される。島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。御茶ノ水橋と聖橋の間にホームがあり、それぞれの橋の南側に出口がある。それぞれ御茶ノ水橋口と聖橋口と称する。駅本屋は御茶ノ水橋側(水道橋側)にある。さらに聖橋口より東側(秋葉原側)に平日の朝のみ機能している出口専用の臨時改札口がある。高台の擁壁と神田川の間に線路が敷かれているため、ホームの幅が非常に狭い。トイレは御茶ノ水橋口と聖橋口の両改札口内にあるが、ともに多機能トイレはない。御茶ノ水橋口駅舎は、1932年(昭和7年)7月の総武本線乗り入れに合わせて使用開始された、伊藤滋設計によるモダニズム建築であり、それまでの乗客を待合室に滞留させてからプラットホームに導く駅から、旅客流動を重視して次々に乗客を電車に流し込む、新しい通勤電車の駅のスタイルを初めて確立した。西側の聖橋口駅舎は大きく改築されており原形を留めていないが、御茶ノ水橋口駅舎は建設以来大きく手を入れられていない。しかしバリアフリー対策工事に2013年度から着手することになっていることは前記した。外側2線を中央線快速が、内側2線を中央・総武線各駅停車がそれぞれ使用し、同じ方向の列車を同じホームで乗り換えできる、方向別複々線となっている。これを実現するために御茶ノ水駅の前後に立体交差が設置されている。並走する三鷹 - 御茶ノ水間のうち同方向であれば、階段を使わずに乗り換えが可能な唯一の駅である。当駅を境に中央線と総武線の各駅停車の列車が相互直通運転を行う。ただし、早朝と深夜は両線で分離して運転を行う。総武線は当駅で折り返すが、中央線は当駅の水道橋方で快速電車が走る急行線と緩行線との間を転線して東京駅発着で運転され、快速用のE233系電車が使用される。総武線の上り列車は2番線に到着し、そのまま中央緩行線下り本線に引き上げ、その後3番線に入線して総武線下り列車となる。この時間帯には、千葉方面から新宿・中野・三鷹方面、その逆の三鷹方面から錦糸町・津田沼・千葉方面へ行く場合は、どちらも当駅での乗り換えが必要となる。(出典:JR東日本:駅構内図)相対式ホーム2面2線を有する地下駅。1番線銀座方に池袋方面線路への片渡り線が1本ある。定期ダイヤでの当駅発着列車は2010年現在設定されていないが、池袋 - 御茶ノ水間が開業した時から東京延伸まで引き上げ線として使われた後、淡路町まで延伸開業した際(当時は単線運転)に池袋方面行の電車が渡り線を使用し転線していた名残りである。2007年6月にホームドアが設置されたが、車両とホームの隙間を調整する工事のため、2008年3月22日まで稼動を一時休止して、翌23日に再開された。かつては定期券うりばがJR口改札前にあったが、1993年11月に東京駅へ移転となり、代替措置として継続定期券発売機が設置された(のちに新規定期券も購入可能)。JRの駅とは違い、両改札口にエレベーターが設置されている。なお、1番線ホームへの改札口にあるエレベーターは、東京医科歯科大学に直接入ることができる。駅は神田川に面した急傾斜地に建設された関係で、アプローチ部分が半地下構造の駅舎に類する設計で設けられた。この部分は、国鉄・JR御茶ノ水駅の1932年完成の駅舎にも関わった土橋長俊が主宰する土橋大野建築事務所の設計で、国鉄・JRの御茶ノ水口駅舎と同じインターナショナル・スタイルを採用している。かつては千代田線新御茶ノ水駅との連絡業務を行っていたが、都営地下鉄新宿線小川町駅が開業し、新御茶ノ水駅と淡路町駅が直接つながったことで、新御茶ノ水駅と当駅(東京メトロ)との連絡を解消した。各年度の1日平均乗降人員は下表のとおりである(JRは除く)。各年度の1日平均乗車人員は下表のとおりである。JR線の北を神田川が流れる。丸ノ内線の駅は神田川の北側にあり、御茶ノ水橋でつながる。聖橋は東、お茶の水橋は西に架かる。駅周辺は明治・日本・順天堂・東京医科歯科の各大学などがあり、『日本のカルチエ・ラタン』とも呼ばれる学生街として知られている。また、楽器店やスポーツ用品店、歴史ある有名病院も数多い。なお、お茶の水女子大学の最寄り駅は当駅ではなく丸ノ内線茗荷谷駅と有楽町線護国寺駅である。前身の東京女子高等師範学校が湯島聖堂および現在の東京医科歯科大学の敷地内にあったためである。駅西口の「御茶ノ水駅前」停留所に、都営バスと千代田区地域福祉交通「風ぐるま」(日立自動車交通が運行)の路線が乗り入れている。
出典:wikipedia
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