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ロシア帝国

ロシア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1547年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。君主がツァーリを名乗ったそれ以前のロシア・ツァーリ国においても「ロシア帝国」と翻訳されることがあるが、ロシア語では「ツァーリ」(本来は東ローマ皇帝を指したが、やがて一部の国の王、ハーンなどを指す語となった)と「インペラートル」(西欧に倣った皇帝を指す語)は異なる称号であるため、留意を要する。帝政は1721年にツァーリ・ピョートル1世が皇帝(インペラートル)を宣言したことに始まり、第一次世界大戦中の1917年に起こった二月革命でのニコライ2世の退位によって終焉する。領土は、19世紀末の時点において、のちのソヴィエト連邦の領域にフィンランドとポーランドの一部を加えたものとほぼ一致する面積2000万km²超の広域に及び、1億を越える人口を支配した。首都は、1712年まで伝統的にモスクワ国家の首府であったモスクワからサンクトペテルブルクに移され、以降帝国の終末まで帝都となった。政治体制は皇帝による専制政治であったが、帝政末期には国家基本法(憲法)が公布され、国家評議会とドゥーマからなる二院制議会が設けられて立憲君主制に移行した。20世紀はじめの時点で陸軍の規模は平時110万人、戦時450万人でありヨーロッパ最大であった。海軍力は長い間、世界第3位であったが、日露戦争で大損失を出して以降は世界第6位となっている。宗教はキリスト教正教会(ロシア正教会)が国教ではあるが、領土の拡大に伴い大規模なムスリム社会を内包するようになった。そのほかフィンランドやバルト地方のルター派、旧ポーランド・リトアニアのカトリックそしてユダヤ人コミュニティも存在した。ロシア帝国の臣民は貴族、聖職者、名誉市民、商人・町人・職人、カザークそして農民といった身分に分けられていた。貴族領地の農民は人格的な隷属を強いられる農奴であり、ロシアの農奴制は1861年まで維持された。シベリアの先住民や中央アジアのムスリムそしてユダヤ人は異族人に区分されていた。ロシア帝国ではロシア暦(ユリウス暦)が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい。20世紀はじめ時点のロシア帝国の規模は世界の陸地の1/6にあたる約 に及び、イギリス帝国の規模に匹敵した。しかしながら、この当時は人口の大半がヨーロッパロシアに居住していた。100以上の異なる民族がおり、ロシア人は人口の約43%を占めている。現代のロシア連邦のほぼ全領土に加えて、1917年以前のロシア帝国はウクライナの大部分(ドニプロ・ウクライナとクリミア)、ベラルーシ、モルドバ(ベッサラビア)、フィンランド(フィンランド大公国)、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア(の大部分を含む)、中央アジア諸国のカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン(トルキスタン総督府)、リトアニア、エストニアとラトビア(バルト諸州)の大部分だけでなく、ポーランド(ポーランド王国)とアルダハン、アルトヴィン、ウードゥル、カルスの相当の部分、そしてオスマン帝国から併合したエルズルムの北東部を含んでいた。1860年から1905年にかけて、ロシア帝国はトゥヴァ(1944年に併合)、カリーニングラード州(第二次世界大戦後にドイツより併合)そしてクリル列島(第二次世界大戦後に実効支配)を除く現在のロシア連邦の全領土を支配した。サハリン州南部(南樺太、第二次世界大戦後に実効支配)は1905年のポーツマス条約により日本に割譲されている。1613年に全国会議(ゼムスキー・ソボル)がミハイル・ロマノフをツァーリに選出したことによって300年続くことになるロマノフ朝が開かれた。その孫にあたるピョートル1世(1682年 - 1725年)は近代化改革を断行して、専制体制を確立させた。1721年、大北方戦争(1700年 - 1721年)に勝利したピョートル1世に対して元老院と宗務院が「皇帝」(インペラートル)の称号を贈り、国体を正式に「帝国(インペラートルの国)」と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国(インペラートルの国)」と称したことにより、ロシア帝国が成立する。ピョートル1世の死後、女帝と幼帝が続き、保守派によって改革が軌道修正されることもあったが、ロシアの領土と国力は着実に増しており、エリザヴェータ(在位1741年 - 1761年)の時代に参戦した七年戦争(1756年 - 1763年)ではプロイセンを破滅寸前に追い込んでいる。により、夫ピョートル3世(在位1761年 - 1762年)を廃位して即位したエカチェリーナ2世(1762年 - 1796年)は啓蒙主義に基づく統治を志したが、結果的には貴族の全盛時代をもたらす施策を行っており、農奴制を強化している。彼女の治世にロシアは西方ではポーランドを分割をなし、南方ではオスマン帝国との戦争に勝利してクリミア半島を版図に加え、ロシア帝国の領土を大きく拡大した。次のパーヴェル1世(1796年 - 1801年)は母帝を否定する政策をとったが、によって殺害された。皇位を継承したアレクサンドル1世(1801年 - 1825年)は自由主義貴族やスペランスキーを起用して改革を志したが、保守層の抵抗を受け不十分なものに終わっている。彼の治世はフランス革命戦争やナポレオン戦争の時期であり、列強国となっていたロシアも欧州の戦乱に巻き込まれた。ロシアに侵攻したナポレオンに壊滅的な打撃を与えたアレクサンドル1世は神聖同盟を提唱し、戦後のウィーン体制を主導している。アレクサンドル1世の急死によって即位したニコライ1世(1825年 - 1855年)はその直後にデカブリストの乱に直面した。乱を鎮圧したニコライ1世は「専制、正教、国民性」の標語を掲げて国内の革命運動・自由思想を弾圧し、国外でも反革命外交政策をとった。オスマン帝国との戦争に勝利してバルカン半島への影響力を広げたが、治世末期のクリミア戦争(1853年 - 1856年)では英仏の介入を招く結果となった。ニコライ1世は戦争中に死去しており、帝位を継いだアレクサンドル2世(1855年 - 1881年)は不利な内容のパリ条約の締結を余儀なくされた。アレクサンドル2世はロシアの後進性を克服するための改革を志し、1861年にを発布したが、地主貴族に配慮した不十分なもので社会問題は解消されなかった。これ以外にも地方行政・司法・教育・軍制の諸改革が実施され、一連の改革は大改革と呼ばれる。オスマン帝国との戦争に勝利してバルカン諸国の独立を実現させるとともに、バルカン半島への影響力も拡大するが、警戒した列強国の干渉を受け、ベルリン会議で譲歩を余儀なくされている。国内の知識人の間では革命思想が広がり、ナロードニキ運動が起こった。政府はこれを弾圧するが、アレクサンドル2世は革命派ので暗殺された。父の暗殺によって即位したアレクサンドル3世(1881年 - 1894年)は反動政策を行い、革命運動を弾圧したが、彼の時代にロシア経済は大きな躍進を遂げている。最後の皇帝となるニコライ2世(1894年 - 1917年)は専制政治を維持したが、日露戦争(1904 - 1905年)の敗北によって1905年革命が起こり、国民に大幅な譲歩をする十月詔書を余儀なくされた。十月詔書によってドゥーマ(国会)が開設され、ロシアは国家基本法の下で立憲君主制に移行したものの、依然として皇帝権が国会に優越したものだった。ストルイピン首相が強権を伴う国内改革を断行したが、中途で暗殺されて終わり、ロシアは国内が不安定なまま第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を迎えることになる。ロシア軍は緒戦で惨敗を喫し、ドイツ軍がロシア領に深く侵攻した。ロシアはドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国との総力戦を戦い、2年間の戦闘で530万人もの犠牲者を出している。国民と兵士に厭戦気分が広まり、1917年に首都ペトログラードで労働者が蜂起する二月革命が起こった。兵士は労働者の側について労兵ソビエトを組織し、権力掌握に動いた国会議員団はニコライ2世に退位を勧告した。ニコライ2世はこれを受諾し、ロシアの帝政は終焉した()。1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに推戴されて以降、1917年に帝政が終焉するまでのおよそ300年にわたりロマノフ家がロシアの君主であり続けた。ホルシュタイン=ゴットルプ公だったピョートル3世(在位1761年 - 1762年)が即位して以降はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝(")とも呼ばれる。1721年にピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は称号をツァーリから変えて「全ロシアの皇帝」(インペラートル:')たるを宣言した。彼の後継者たちも1917年の二月革命で帝政が打倒されるまで、この称号を保ったが、一般的にはツァーリとも呼称されていた。1905年の十月詔書以前、皇帝は絶対君主として君臨しており、(')第一条は「ロシア皇帝は独裁にして無限の権を有する君主であり、主権の全体は帝の一身に集中する」と規定している。皇帝は(既存の体制を維持するための)次の2つの事項にのみ制約されていた。一つは皇帝とその配偶者はロシア正教会に属さねばならない。もう一つはパーヴェル1世(在位1796年 - 1801年)の時に定められたに従わねばならないことである。これ以外のことではロシアの専制君主の統治権は如何なる法律にも制約されず事実上無制限であった。この状況は1905年10月17日に変化した。1905年革命の結果出された十月詔書以降、皇帝の称号は依然として「全ロシアの皇帝かつ専制者」であり続けるが、1906年4月28日に制定された国家基本法は「無制限」の語を取り除いている。皇帝は自主的に立法権を制限し、いかなる法案も国会(ドゥーマ)の承認なく法制化できなくなった。しかしながら、皇帝は国会の解散権を有しており、彼は一度ならずこれを実行している。加えて皇帝は全ての法案に対する拒否権を有しており、国家基本法を自ら改正することも出来た。大臣は皇帝に対してのみ責任を負っており、国会は問責はできるが解任はできない。このため、皇帝権はある程度は制限されたものの、帝政が終焉するまで強大であり続けた。ロシア皇帝はフィンランド大公(1809年以降)およびポーランド国王(1815年以降)を兼ねていた。国家基本法第59条はロシア皇帝の正式名称として君臨する50以上の地域名を列挙している(ロシア皇帝を参照)。アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の時代にスペランスキーの改革の一つとして1811年に設置された国家評議会("Государственный Совет":枢密院とも訳す)は法律の立案および頒布に関して君主に参与すべき審議官である。国家評議会が法案を審議し、皇帝は多数決によるその意見を「傾聴し、決定する」ことになっていたが、実際には決定は皇帝の意思に依った。1890年時点の国家評議会は勅選議員60名から構成され、議長は皇帝もしくは大臣委員会議長その他勅選された者が務めた。1906年2月20日の国家基本法施行により、国家評議会はドゥーマに関連付けられ、立法機関の上院の役割を果たすこととなった。これ以降、立法権は皇帝が二院と調整した上で実行されることになる。国家評議会はこの目的のために再組織され、勅選議員98名、公選議員98名の計196議員で構成されることとなった。勅任される大臣は国家評議会出身者である。公選議員は6議席が正教会関係、18議席が貴族団、6議席が科学アカデミーと大学関係者、12議席が商工ブルジョワジー、34議席が県ゼムストヴォ、22議席がゼムストヴォのない県の大土地所有者であった。国家評議会は立法機関としてドゥーマと同等の権限を有していたが、立法を率先することは稀であった。二院の一つとなった国家評議会は保守派の牙城となり、ストルイピン大臣会議議長(首相)の土地改革に抵抗している。ドゥーマ(":国会)は1905年の十月詔書により創設された代議制議会である。ロシア帝国の立法機関は二院制で国家評議会が上院、ドゥーマは下院にあたる。議員数は1907年の時点で442人である。選挙方式は所有財産によって別けられた地主、都市(ブルジョワジー)、農民、労働者の4つのグループからなる複雑な間接選挙方式で、地主やブルジョワジーに極めて有利な制度であった。1906年4月23日に発布された国家基本法(憲法)では皇帝は依然として専制君主と規定されており、法案の拒否権とドゥーマの解散権を留保した。大臣会議議長(首相)と大臣は皇帝の任命によるもので、議会に対して責任を負う責任内閣制でもなかった。また、予算審議権も戦時関係予算や勅令・法律による歳入出はドゥーマの管轄外であるなど制約の多いものであった。1906年4月27日に開会された国会は地主の1票がブルジョアジーの3票、農民の15票、労働者の45票に相当する選挙制度そして政府の選挙干渉にも関わらず、自由主義左派の立憲民主党(カデット)が第一党となった。このドゥーマは立憲民主党が地主の土地の強制収用を含む大胆な土地改革を強硬に主張したために紛糾し、7月8日に軍隊が投入されて強制解散された。(第一ドゥーマ)次の選挙には社会革命党(エスエル)とボリシェヴィキも加わり、その結果、社会主義諸派が議席の40%を占めるより急進的な構成となった。1907年2月20日に開会されたドゥーマはストルイピン大臣会議議長(首相)の土地改革に従おうとせず、6月3日に解散された。(第二ドゥーマ)ストルイピンは解散と同時に新選挙法を発布させ、これは更に地主に有利な制度であり、地主の1票は農民の260票、労働者の540票に相当した()。1907年11月1日に新選挙法の元で選ばれた政府寄りの自由主義右派(オクチャブリスト)を中心とするドゥーマが開会され、1912年6月9日までの会期を全うした。(第三ドゥーマ)1912年11月に第三国会と同じ選挙法の元で選ばれた第四ドゥーマが開会された。第四ドゥーマ中の1914年に第一次世界大戦が勃発した。戦争指導を巡って政府とドゥーマとの対立が激化し、立憲民主党や十月党左派、その他諸派の中道自由主義者がを結成して信任内閣を要求している。1917年に二月革命が起こると、議員たちはを組織して権力掌握に動き、社会主義者の労働者・兵士ソビエトと臨時政府を組織してニコライ2世に退位を求め、帝政を崩壊させることとなる。大臣委員会(")は国家の高等行政に関する事務を審査をする機関である。アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の改革の一環として、1802年にそれまでの参議会制に代わる省庁制が設けられると同時に大臣委員会が置かれた。ナポレオン戦争期にはその権能が拡張し、皇帝が出征中は国家行政事務の全てを担った。ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に大臣委員会の権能が定められ、第一に各大臣および元老院の権限以外の重要事項について協議すること、第二に公安、公共糧食、正教会の保護および公共交通とくに鉄道敷設の許認可に関することとなった。その他、地方行政の監督も大臣委員会の職責であった。1905年10月18日法により大臣委員会は改組され、皇帝を補佐する最高行政機関として大臣会議議長(首相に相当)を長とする(")が創設された。これは諸国の内閣に相当するもので、各省大臣と主要行政機関の長によって構成される。1905年にロシア側全権代表として日本とポーツマス条約を締結して帰国したセルゲイ・ヴィッテが初代大臣会議議長となった。1700年にモスクワ総主教が死去するとピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は後任の選出を許さず、1721年に正式に総主教座を廃止し、ロシア正教会を統括する最高機関としての宗務院(":聖宗務院、聖務会院、シノドとも訳される)を設立させた。基本法は「教会の政治に於いては君主の独裁権は宗務院を媒介として行動すべきものである」と規定している。宗務院の職務は第一に教義の正統解釈と聖職者の監督そして宗教出版物の検閲、第二に宗教教育機関および1885年に設置された教区小学校の管理、第三は行政もしくは司法の全ての教会事務の最高法廷そして婚姻に関する事務の採決である。宗務院のメンバーは皇帝の代理人である俗人の宗務院総監とモスクワ、サンクトペテルブルク、キエフの3府主教、グルジアのエクザルフそして幾人かの主教が交替で務めた。1711年にピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は出征中に内政を預かる(セナート:")を設けて9人の議員を任命した。当初は臨時の措置であったが、これが常設化して行政・司法の執行に関する監督と立法を司る国政の中心機関となった。エカチェリーナ1世(在位1725年 - 1727年)とピョートル2世(在位1727年 - 1730年)の時代には最高枢密院が権力を握り元老院はこれに従属させられたが、アンナ(在位1730年 - 1740年)は即位直後に最高枢密院を廃止している。エリザヴェータ(在位1741年 - 1761年)の時代に元老院は権力を回復した。その後、アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の大臣委員会創設によって権限が減少して、主に最高司法機関として機能するものとなった。帝政末期の元老院は複数の部から構成され、法律の布告および解釈、地方行政官職の監督、行政裁判、商業裁判所そして刑事および民事の破棄院(最高裁判所)としての広範な権限を有していた。元老院は帝国の行政に関わる全ての紛争に対する最高管轄権を有しており、とりわけ、中央政府の代理人と地方自治機関との間の係争を取り扱っていた。また、元老院は新法の登記と布告を審査する役割を持ち、基本法に反するものを拒否する権限があった。ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の行政改革の一環として、管轄範囲が明確でないイヴァン4世(在位1533年 - 1584年)以来の官署が廃止されて、新たに北欧諸国の制度に倣った合議制で運営される(コレギア:")が設置された。外務、陸軍、海軍を「主要」とし、都市、所領、司法、歳出、監査、商業、工業、鉱業といった参議会が設けられている。その後、参議会は責任の所在が曖昧で非効率になり、パーヴェル1世(在位1796年 - 1801年)の時代に改革が試みられ、合議制から専決制に代えられた。彼の暗殺後に即位したアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)が参議会を廃止して、陸軍、海軍、外務、司法、内務、大蔵、通商、文部の8部の大臣を任命し、省庁制を発足させた。帝政末期の20世紀初頭の時点では以下の省庁が存在した。ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の時代、1722年に14の官等からなる官吏および軍人の位階が定められた()。中等教育修了者は官吏になることができ、昇格は勤務年数で決められており、九等官で一代貴族、四等官で世襲貴族になれた。1899年時点の官等は以下の通り(第11等と第13等は廃止)。ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は当時の西欧で主流であった糾問主義手続きの司法制度を導入した。民事および刑事の裁判は非公開手続きであった。全ての裁判は書面審理で行われ、判事は判決時にのみ当事者および傍聴人と対面した。この非公開性と判事の報酬が僅かであったことが組み合わさり、贈賄と汚職が蔓延することとなった。法廷の調査は複数回あったが(5、6回またはそれ以上)、悪行の回数を増やすだけであった。証拠書類は法廷から法廷へと積み上げられたが、その書類を書いた事務官だけがその要旨を語ることができる類のものであり、費用がかさんだ。これに加えて、大量の勅令、法令そして慣習法(これらはしばしば矛盾した)により、法廷の運営はよりいっそう遅滞し、混乱した。さらに、司法と行政の線引きはなかった。判事は専門家ではなく、彼らは官吏に過ぎず、偏見と悪徳が蔓延していた。帝政終焉まで続くロシア帝国の司法制度は「解放皇帝」アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)のによって成立した。英仏の制度を部分的に取り入れた司法制度は司法と行政の分離、判事と法廷の独立、公開裁判と口頭審理、法の前での全ての身分の平等といった幾つかの大まかな原則によって成立している。その上、弁護士制と陪審制の採用によって民主主義的要素も取り入れられた。これらの諸原則による司法制度の確立は司法を行政の範囲の外に置くことにより、専制に終わらせ、ロシア国家の概念に大きな変化をもたらした。しかしながら、1866年のアレクサンドル2世暗殺未遂事件以降には幾らかの反動が見られるようになった。1864年勅令によって成立した制度は英仏形式の二つの完全に分けられた法廷から成り、おのおのが独自の上訴裁判所を有し、最高裁判所の役割を果たす元老院にのみ連携する。イギリス形式のものは選挙で選ばれたの法廷で民事刑事の軽微な事件を管轄し、郡治安判事会議に上訴できる。もう一つのフランス形式の任命された判事による普通裁判所は重要事件を扱い、陪審員の置かれた地方裁判所、控訴院そして最高裁判所に当たる元老院の三審制である。また、農民の軽犯罪・民事は農村共同体の郷裁判所において旧来の慣習法で裁かれる。これらとは別に聖職者の規律や離婚を扱う宗教裁判所、そして軍人に対する軍法会議があり、政治犯は軍法会議で裁かれる。1914年時点のロシアは81県(グベールニヤ)、20州(オーブラスチ)そして1行政庁()の行政単位に分かたれていた。ロシア帝国は中央アジアのブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国を保護国としており、1914年にはトゥヴァが加えられている。11県、17州そしてサハリン行政庁がアジア・ロシアに属している。8県がフィンランド、10県がポーランドである。残りはヨーロッパ・ロシアで59県と1州(ドン軍管州)となる。ドン軍管州は軍事省の管轄下にあり、その他の諸県州には知事と副知事(行政評議会議長)が置かれていた。これに加えて、複数の県を管轄し、駐留軍の指揮権を含む広範な権限を有する総督が置かれている。1906年時点でフィンランド、、イルクーツク、キエフ、モスクワ、、トルキスタン、ステップそしてに総督府が存在していた。サンクトペテルブルク、モスクワ、オデッサ、セヴァストポリ、ケルチ、ニコラエフ、ロストフといった大都市は県知事から独立した独自の行政制度があり、警察署長が長官の役割を果たした。中央政府の地方組織とともに、ロシアには行政の役割を果たす3つの公選による自治機関が存在する。その起源が定かではない農村共同体(:'またはオプシチナ:')は、村ごとの農民の自治組織である。ミールは村長と各世帯の家長たちからなる村会を持ち、村の行政と司法そして耕地の割替を行っていた。耕地や森林、牧草地は農民個人のものではなくミールの共同所有とされ、政府はミールを利用して徴税や賦役を課しており、農奴解放後も土地の共同所有は変わらず、却ってミールの役割が強化されることとなった。アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の行政改革で、農村共同体を基礎に地方行政の末端機関としての村団(セーリスコエ・オブシチェストヴォ:")が組織された。幾つかの村団が集まって郷(:")を構成しており、村団の代表者による集会を持っていた。この集会で郷長が選ばれており、また郷裁判所が持たれ、ここでは軽犯罪や民事訴訟などを取り扱っていた。アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の行政改革の一環として、1864年に34県とドン軍管州およびこれに属する郡に地方自治機関であるゼムストヴォ(")が設置された。郡ゼムストヴォには住民によって選挙された郡会とこれに指名されたメンバーによる執行機関の郡参事会があった。県ゼムストヴォの県会および参事会は郡会の代表者によって構成される。ゼムストヴォは地主、都市居住民そして郷(ヴォロースチ)が別々に代議員を選挙していた。参事会は次の五つの階級から選出された。(1)590エーカー以上を有する大地主は1議席(2)中小地主および聖職者の代表(3)裕福な都市住民の代表(4)都市中産階級の代表(5)ヴォロースチから選出された農民の代表である。創設当初のゼムストヴォには地域の課税、教育、保健、道路整備などといった広範な権限が与えられていたが、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代に厳しい制限を加えられている。この結果、郡ゼムストヴォは県知事、県ゼムストヴォは内務省に従属することとなり、ゼムストヴォの決議すべてに県知事・内務省の同意が必要とされ、県知事と内務省は議員たちを統制する強力な権限を有するようになった。ゼムストヴォの選挙人資格には財産規定があり、このため郡会、県会ともに代議員は貴族・地主が常に優勢であったが、1870年代以降、ゼムストヴォは立憲制を求める自由主義者たちの拠点と化しており、1906年に開設された国会の自由主義政党(立憲民主党や十月党)の母体となった。1870年の新都市法の発布以降、ヨーロッパ・ロシアの市当局はゼムストヴォと同様の代議制都市自治機関(都市ドゥーマ)を持つようになった。家主、納税している商人・職人・労働者は資産量の順番にリストに記載されていた。財産所有評価によって三つのグループに分かたれ、当然各グループの人数は大きく異なるのだが、各々が同人数の都市ドゥーマ議員を選出する。行政部は選挙された市長や都市ドゥーマから選ばれたメンバーによる都市参事会が執り行った。しかしながら、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の治世にゼムストヴォと同じく、都市ドゥーマは県知事や警察に従属させられた。1894年と1895年にシベリアとカフカースの幾つかの都市に(より一層制限されたものではあるが)都市ドゥーマが設けられている。17世紀末時点のピョートル1世(在位1682年 - 1725年)のロシア帝国軍は約16万の兵力を有しており、この規模は他のヨーロッパ諸国の軍隊と比べて遜色ないものであった。だが、大北方戦争(1700年 - 1721年)緒戦のナルヴァの戦い(1700年)でロシア軍はカール12世のスウェーデン軍に惨敗を喫してしまう。この後、カール12世がポーランド=リトアニア=ザクセン制圧に転戦したため、ピョートル1世は軍隊を再建する余裕を得ることができた。ピョートル1世は教会の鐘を鋳つぶして大砲を製作するとともに都市民や農民を対象とした本格的な徴兵を開始した。これ以前にも臨時の徴兵は行われていたが、租税民である農民を対象とした恒常的な徴兵制度ははじめてであった。「20世帯につき1人」の兵士供出が各村に命じられたが、兵役は25年であり、事実上生涯に渡って村から切り離されることを意味しており、苛酷で死亡率の高い軍隊勤務は貧農に押しつけられる傾向が強かった。「兵士の滞納」は後を絶たなかったが、それでもピョートル1世はこの徴兵制によって年間2万人以上の新兵を得ることができた。貴族の国家勤務査閲を強化して将校の養成を行い、不足は外国人を雇用していたが、1721年の段階でほぼロシア人将校で充足することができるようになっている。陸軍参議会、海軍参議会、砲兵官庁、兵站部そして参謀本部が設けられ軍事行政も整備された。これら軍制改革で強化されたロシア軍はポルタヴァの戦い(1709年)でロシアに侵攻したスウェーデン軍を壊滅させ、大北方戦争を勝利に導いた。18世紀のロシア軍は数次にわたるオスマン帝国やペルシアとの戦争に勝利して領土を拡大させ、七年戦争ではプロイセン王フリードリヒ2世を破滅寸前に追い込んでいる。19世紀のナポレオン戦争ではロシア軍はアウステルリッツの戦い(1805年)やフリートラントの戦い(1807年)でナポレオンに敗北したものの、ロシア遠征に向かったナポレオンに壊滅的な打撃を与え、最終的な勝利者となったアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)は「ヨーロッパの救済者」と呼ばれた。「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれたニコライ1世(在位1825年 - 1855年)は欧州政治に積極的に介入し、軍事力を持ってポーランドやハンガリーの革命運動を粉砕している。しかしながら、指揮官の大部分を占める貴族出身の将校で有能な者は一部であり、兵士出身の将校・下士官は教養が低かった。ピョートル1世以来の徴兵制度は25年の兵役を課して社会から切り離すものであり、農民にとっては刑罰同然のものと考えられ、兵士の待遇は劣悪であり貴族の将校は兵士を農奴同様に扱い、軍隊内での体罰や病気での死亡率も高かった。クリミア戦争(1853年 - 1856年)が勃発した時点のロシア軍は将校27,745人、下士官兵112万人で、ヨーロッパ最大の規模であった。だが、装備は旧式で砲弾も不足しており、加えて国内の鉄道網が未整備で軍隊の急速な展開が不可能な状態にあった。ロシア軍はセヴァストポリ攻囲戦(1854年 - 1855年)で英仏軍に敗れて黒海の非軍事化を含む屈辱的な内容のパリ講和条約を結ばされ、「ヨーロッパ最強国」の自尊心は打ち砕かれた。敗戦後、アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)は大改革と呼ばれる農奴解放を含んだ行政改革を実施しており、軍制改革もこれに含まれる。この当時、ドイツやフランスの軍隊は国民男子全員に兵役を課して軍隊経験を積ませる国民皆兵であるのに対し、ごく一部の国民に長期の兵役を課す農奴制・身分制的なロシアの軍制は幅広い予備兵力層を欠いており、時代遅れなものになっていた。軍事大臣ミリューチンは軍制の近代化に着手し始め、まず、軍隊内での体罰は禁止された。1861年に兵役は16年に短縮され、1874年には国民皆兵制が施行されて陸軍は兵役6年予備役9年、海軍は兵役7年予備役3年となった。もっとも、家族状況による兵役免除もあって実際の召集率は対象者の25-30%程度に留まっており、また学校教育を受けた者は兵役期間を軽減される規定により裕福な特権階級層は事実上兵役を免れている。初等兵学校、中等兵学校そして士官学校といった教育機関が整備され、貴族以外からの将校への道も広げられた。軍事行政は総合参謀本部と七つの軍事最高機関が設けられ、各部門の長による軍事評議会が組織された。露土戦争(1877年 - 1878年)でロシア軍はバルカン半島とザカフカースでオスマン軍と戦い、苦戦の末にイスタンブールに迫った。オスマン帝国はサン・ステファノ条約によってバルカン半島の大部分の喪失を余儀なくされ、ベルリン会議を経てモンテネグロ、ルーマニアそしてセルビアが独立、大ブルガリア公国が成立している。アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代には総動員に必要とする日数の短縮、戦時における騎兵の即応性および下馬歩兵戦闘への適応(軽騎兵や槍騎兵が竜騎兵に置き換えられた)、国境地帯の要塞および鉄道網の強化そして砲兵および輜重隊の強化が図られている。ニコライ2世(在位1894年 - 1917年)の時代にはアジア方面の戦力と即応性が強化され、民兵も再編された。日露戦争(1904年 - 1905年)開戦時、シベリア鉄道はバイカル湖迂回区間が未開通であったためヨーロッパロシアからの兵員輸送に時間を要し、糧食の一部は現地調達に頼らざるを得なかった。戦術思想は銃剣突撃に固執して銃剣を固定した小銃を用いた結果、射撃精度が低下しており、運用もナポレオン戦争と大差ない密集隊形による一斉射撃だった。機関銃は配備されていたがその価値が認められるまでには時間を要した。兵士は困苦欠乏に慣れ、皇帝を素朴に崇拝しており、困難な状況でも頑強に戦ったが、戦争目的を理解していなかった。将校の質は義和団事件(1900年)の際にイギリス軍士官から「(ロシア軍は)ロバに率いられたライオン」と酷評されたもので、一部を除けば無気力で能力も低かった。ロシア陸軍は日本陸軍の攻勢を前に後退を繰り返すことになり、旅順要塞を失陥し、奉天会戦でも敗れた。この敗北が1905年革命を引き起こすことになった。この時期のロシア軍は正規兵、カザークそして民兵におおまかに区分される。1911年時点の平時戦力は将校42,000、兵110万人(うち戦闘員は95万人)であり、戦時戦力は将校75,000人、兵450万人になっていた。この兵力にほぼ無尽蔵な人的資源を加味すると第一次世界大戦(1914年 - 1918年)開戦時のロシア軍の規模はヨーロッパ最大であったが、鉄道網の慢性的な不効率はロシアの潜在的戦力を大きく減じていた。高級司令部と兵站部は汚職と不効率によってひどく弱められており、工場生産の不備から武器弾薬が不足していた。将校の質的な弱点は改善されない上に数が不足していた。近代装備についても通信システムが未整備で師団司令部が平文で無線連絡を交わし合う有り様であり、軍の自動車は700台に満たなかった。第一次世界大戦が開戦するとロシア軍はドイツ軍の予想よりも早く動員を終えて主力が不在の東プロイセンに攻め込んだが、タンネンベルクの戦いで包囲殲滅され大損害を出してしまう。ロシア軍はドイツ軍の攻勢に敗走を余儀なくされ、ポーランド、リトアニアそしてベラルーシ西部を占領された。大戦はドイツ軍、オーストリア・ハンガリー軍そしてオスマン軍を相手の総力戦となり、ロシア軍は1400万人もの動員を行ったが2年間の戦闘で530万人の犠牲者を出している。軍の士気は低下して厭戦気分が広まった。1917年に首都ペトログラードで二月革命が起こると兵士たちは皇帝の命令に従うことを拒否して蜂起した労働者の側に付き、労兵ソビエトを組織して帝政打倒を訴え、ロシア帝国を崩壊に追い込むことになる。ロシア海軍はピョートル1世(在位1682年 - 1725年)によってつくられた。1695年にオスマン帝国の属国クリミア・ハン国領のアゾフ要塞攻略に失敗したピョートル1世はモスクワ近郊の町やヴォロネジで平底川船1300艘、ガレー船22艘、火船4艘の艦隊を建造し、1696年にこの艦隊を用いて海上補給路を断ち、3か月の包囲戦の末に要塞を陥れて念願の海への出口を手に入れた。スウェーデンとの大北方戦争(1700年 - 1721年)では占領したイングリアやバルト地方にクロンシュタットをはじめとする造船所をつくり、バルチック艦隊を建造した。バルチック艦隊はガングートの海戦(1714年)や(1720年)でスウェーデン艦隊に勝利してバルト海の制海権を確保し、戦争の勝利に貢献した。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代の第一次露土戦争(1768年 - 1774年)ではクロンシュタットを発した提督率いるバルチック艦隊がジブラルタル海峡を経て地中海に入り、オスマン艦隊を撃破してロシアの海軍力を誇示している。戦争に勝利してクリミア・ハン国を併合したエカチェリーナ2世はポチョムキンを新領土総督に任命してクリミア経営にあたらせた。ポチョムキンはセヴァストポリを根拠地とする黒海艦隊を創設する。その後に発生した第二次露土戦争(1787年 - 1792年)やアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の時の第三次露土戦争(1806年 - 1812年)でもロシア艦隊とオスマン艦隊は戦火を交えている。ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に入るとギリシャ独立戦争(1821年 - 1832年)に介入したロシアは地中海に艦隊を派遣して英仏と連合艦隊を組み、ナヴァリノの海戦(1827年)でオスマン・エジプト連合艦隊を撃滅しており、この勝利によりギリシャを独立へと導いている。1853年にロシアとオスマン帝国は再び開戦した(クリミア戦争:1853年 - 1856年)。開戦早々にナヒモフ提督の黒海艦隊がスィノプ港に停泊していたオスマン艦隊に奇襲をかけて全滅させ、港湾機能を破壊した(シノープの海戦)。海戦には勝利したが、英仏の新聞が「スィノプの虐殺」と報道したことにより反ロシア的世論を煽る結果となってしまう。参戦した英仏連合艦隊が黒海に入り、黒海艦隊はセヴァストポリに籠城する作戦をとったが、1年以上の包囲戦の末にセヴァストポリは陥落し、黒海艦隊は降伏前に自沈した。パリ講和条約の条項により、黒海の艦艇保有数に厳しい制限がかけられ、艦隊を配備することは禁じられた。クリミア戦争の敗戦後、アレクサンドル2世(在位1855-1881)の弟コンスタンチン大公が艦隊の再編と近代化を指揮した。1860年代に帆走軍艦は姿を消し、蒸気軍艦が主体となった。南北戦争でのハンプトン・ローズ海戦(1862年)に関心を持ったロシア海軍はさっそく木造軍艦2隻を装甲艦に改装させ、さらにアメリカの装甲艦モニター号に類した沿岸防衛用のモニター艦を17隻建造している。普仏戦争(1870年 - 1871年)にフランスが敗れて第二帝政が倒れるとロシアはパリ条約を破棄して黒海艦隊を再建した。露土戦争(1877年 - 1878年)では発明されて間もない魚雷を用いてオスマン海軍の船を撃沈することに成功している。1860年の北京条約で清国から沿海地方を割譲されており、この地に建設されたウラジオストクが太平洋艦隊の根拠地となる。1898年に清国から大連・旅順地域を租借したロシアは旅順要塞を築いて太平洋艦隊の根拠地となし、日本に備えた。20世紀はじめのロシア海軍はバルチック艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊そしてカスピ海艦隊から成っていた。日露戦争(1904年 - 1905年)開戦時の戦力は戦艦21隻(5隻建造中)、海防戦艦3隻、旧式装甲巡洋艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦13隻(5隻建造中)、軽巡洋艦8隻、駆逐艦49隻(11隻建造中)の主要艦艇からなり、イギリス、ドイツに次ぐ世界第三位の海軍大国であった。日本の連合艦隊と対することになった太平洋艦隊の主力(旅順艦隊)は旅順港に封じ込められた。艦隊はウラジオストクへの脱出を図るが黄海海戦で大損害を受けて阻止され、旅順陥落で全滅した。ヨーロッパロシアから長距離の航海を経て極東にたどり着いたバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は日本海海戦(ツシマ海戦)でほぼ全滅する。陸海での敗戦に国内は動揺し、黒海艦隊では戦艦ポチョムキンの反乱が起こっている。この戦争でロシア海軍は戦艦14隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦21隻を失った。1907年、海軍省は戦艦32隻、巡洋戦艦16隻、巡洋艦36隻、駆逐艦156隻からなる野心的な建艦計画を提出するが、ドゥーマ(国会)の猛反対にあい、縮小した計画も承認を得られず、1909年のドイツとの関係悪化でようやくバルチック艦隊向け弩級戦艦4隻の予算が承認された。日本との関係が緩和する一方で独墺とは険悪化すると1911年に黒海艦隊向けの弩級戦艦3隻その他の予算が承認される。1911年のモロッコ危機で対独関係がさらに悪化すると海軍省は「大建艦計画」と呼ばれる野心的な海軍法をドゥーマに承認させた。これは1927年までに総計戦艦27隻、巡洋戦艦12隻を建造しようとするものであったが、実現することはなかった。艦隊再建の途上でロシア海軍は第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を迎える。このためバルチック艦隊と黒海艦隊の作戦は機雷戦を中心とした防御的なものになった。ロシア海軍は開戦早々の1914年8月に触雷沈没したドイツの軽巡洋艦から暗号表を回収してイギリスへ送り、連合国の戦争努力への大きな貢献を果たしている。戦前に起工された戦艦のうちバルチック艦隊向けのガングート級戦艦4隻と黒海艦隊向けのインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦3隻が大戦中に竣工したが、インペラトリッツァ・マリーヤ級は戦争と内戦の混乱で全て失われた。1917年の二月革命で帝政が瓦解し、さらに十月革命ではバルチック艦隊の水兵がボリシェヴィキに与し、巡洋艦アヴローラが冬宮を砲撃した。続く内戦の混乱によって海軍の組織は崩壊し、レーニンをはじめとするボリシェヴィキの指導者は海軍の必要性を理解せず、その結果、艦艇の多くが失われるか行動不能になり、建造中の艦は放置されることになる。西欧諸国やアメリカと同じくロシアでも19世紀後半から動力飛行機の試みがなされており、ソ連時代には世界初の動力飛行はライト兄弟よりも20年近く早い、1884年のモジャイスキーによるものであると主張されていた。19世紀末にツィオルコフスキーが先進的なロケット技術の諸論文を発表しており、今日では「宇宙ロケットの父」と呼ばれている。1909年には「ロシア航空の父」と呼ばれるジューコフスキーがロシア初の航空団体を設立した。そして、1914年にシコールスキイが世界初の4発飛行機イリヤー・ムーロメツを完成させた。第一次世界大戦(1914年 - 1918年)開戦時、陸軍は約250機、海軍は約50機の航空機を保有していた。国産軍用機も存在していたが少数生産に留まっており、ロシア軍は輸入機やライセンス生産機主体で戦った。イリヤー・ムーロメツの爆撃型が製造され、シコールスキイ自身が率いる爆撃隊の活躍があったもの、ロシア軍航空隊は用兵と運用の拙劣さもあってを相手に劣勢を強いられている。1897年の国勢調査に基づく1905年の報告書によれば、ロシア帝国内の各宗教宗派の概算信者数は右表のとおりである。 1905年の「信教の自由に関する勅令」により公的には全ての信仰が認められるようになった。ロシア帝国の国教は正教会(ギリシャ正教、東方正教会)である。独立教会ロシア正教会の首長は「教会の最高守護者」の称号を有する皇帝であった。皇帝は叙任権を有していたが、教義や説教に関する問題を決定することは無かった。ロシア帝国の多数を占める東スラヴ系のロシア人、小ロシア人(ウクライナ人)、白ロシア人(ベラルーシ人)は正教もしくは無数にあるその分派を信仰している。東スラヴ系以外ではルーマニア人(モルドバ人)、グルジア人も正教である。フィンランドのカレリア地方の正教徒はロシア革命後の1917年に自治教会フィンランド正教会を創設している。ウラル・ヴォルガ地方ではモルドヴィン人のほとんどが正教であり、ウドムルト人、 、チェレミス人(マリ人) とチュヴァシ人も同様であるがキリスト教やイスラム教の影響を受けたシャーマニズムとの混合であった。シベリアではヤクート人が18世紀後半頃に正教に改宗しているが、これもシャーマニズムの要素を残している。ロシアのキリスト教受容は10世紀頃のことである。以降、コンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下に置かれ、ほとんどの府主教がギリシャ人であったが、東ローマ帝国が衰退してバーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議で東西教会の合同が宣言されたことを受け、1448年にモスクワ府主教座がコンスタンディヌーポリ総主教庁から事実上独立した。東ローマ帝国の滅亡に伴って、モスクワはローマ帝国のローマ、東ローマ帝国のコンスタンティノープル(古期ロシア語ではツァリグラードと呼ばれた)に次ぐ「第三のローマ」であるという言説が見られるようになった。1589年にロシア正教会はコンスタンディヌーポリ総主教イェレミアス2世より、独立教会の祝福を正式に受け、モスクワ総主教座が成立した。ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)以前の正教会の修道院・教会は農民の4分の1を支配し、世俗権力から独立した勢力を持っていた。ピョートル1世はロシア正教会をプロテスタント諸国の国教会的な組織に改編すべく、教会改革を断行した。1700年にモスクワ総主教が死去するとピョートル1世は後任の選出を許さず、皇帝に忠実なフェオファン大主教を起用して1721年に「聖務規則」を作成させ、総主教位を廃止して合議制の宗務院を設け、教会を国家権力の統制下に置かせた。皇帝の代理人である俗人の総監に指導される宗務院は聖務に対する広範な権限を有するようになり、教会は国家の一機関と化した。聖界領地は国家管理とされ(エカチェリーナ2世の時代に国有地化)、独自の収入を断たれた聖職者たちは国家からの給与に依存することになり、従属の度を深めた。ロシアの東方拡大とともにロシア正教会も東方へと進出し、ウラル・ヴォルガ地方の諸民族そしてシベリア先住民の正教への改宗が進められた。ウドムルト人、チェレミス人、ヤクート人といった民間信仰の民族に対しては正教への改宗は順調だったが、ムスリムに対しては概して上手くゆかなかった。タタール人の上級階級の正教受容は一定の成功を収め、彼らはロシア貴族化したが、民衆はごく一部が改宗したのみで、それも表面的に洗礼を受けただけの者が多く、後に棄教者が続出する事態が起こっている。バシキール人は改宗に強く抵抗して反乱を繰り返し、19世紀後半にロシアの版図に入った中央アジアのトルキスタン総督府では正教会による宣教自体が禁止されていた。このような動きに危機感を持った正教会では、19世紀後半にが洗礼タタール人に対する現地語、習慣を尊重した教育活動を行い、この方式が政府に採用されてイリミンスキー・システムと呼ばれるキリスト教化した異族人全般に対する教育制度が構築されることになる。帝政時代のロシア正教会の伝道活動は国外にも及んでおり、聖インノケンティ・ヴェニアミノフはロシア領アラスカ初の主教となり、先住民への伝道を行った。1868年にアラスカが売却されるとロシア正教会はアメリカ合衆国へと進出して1872年にサンフランシスコ、1905年にはニューヨークに主教座が設けられている。日本へは、1861年に宣教師ニコライが来日して、後の日本ハリストス正教会の基礎を築いている。ロシア帝国は征服した土地の異宗派信徒や異教徒の改宗自体はさほど重視していなかったが、ロシア語と正教を強制するロシア化政策が強化された19世紀後半のアレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務院総監の指導のもとで、カトリック・プロテスタント・アルメニア教会への規制強化と正教への改宗が促され、中央アジアのタタール人に対しては半ば強制的な正教への改宗が行われた。1905年革命によって信教の自由が認められると多数の人々がカトリック、プロテスタントそしてイスラム教に改宗・復帰している。帝政下のロシア正教会では綱紀の紊乱や村司祭の貧困といった問題が深刻化しており、19世紀後半になるとこれら諸問題を解決するための教会改革を求める運動が起こり、この動きが1905年革命の際の地方公会(1681年に廃止)再開と総主教制復活の要求に結びついた。二月革命で帝政が倒れた直後の1917年8月に地方公会が開催されてティーホンが総主教に選出されるが、この後、ロシア正教会は無神論のソビエト政権下で厳しい迫害と宗教活動の制約を受けることになる。20世紀はじめ頃のロシア正教会の上座には3人の府主教(サンクトペテルブルク、モスクワ、キエフ)、14人の大主教、50人の主教がいた。1912年時点の数値によるとロシア国内には正教会の教会と礼拝堂が60,000、公認された修道院298、女子修道院400があり、司祭45,000人、長司祭2,400人、輔祭15,000人、修道士・修練士17,583人、修道女・見習い修道女52,927人の聖職者がいた。17世紀の総主教の典礼改革を巡ってロシアの正教会では分裂が生じ、ツァーリ・アレクセイ(在位1645年 - 1676年)と対立したニーコンは失脚したが、同時に改革反対派も正教会から破門を受けた。ロシア伝統の典礼を護持する彼らは古儀式派(スタロオブリャージェストヴォ:')と呼ばれた。古儀式派は激しい迫害を受けるが、ピョートル1世の教会改革によってロシア正教会に対する統制が強められると勢力を伸ばすようになり、国民の3分の1から5分の1が古儀式派に属するようになった。古儀式派はロシア正教会から分離した際に主教を欠いていたため司祭の叙階が困難になり、17世紀末頃に司祭の存在を前提とすると無用とする無司祭派とに分裂した。無司祭派は狂信の度を深めて無数に分裂を繰り返し、勢力を弱めている。18世紀後半のエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代には古儀式派に対する弾圧が緩められたが、ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に再び弾圧を受けるようになり、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務総監の指導のもとで迫害が行われた。司祭派はこれらの迫害を耐えて1881年に政府の公認を受けている。1897年の国勢調査によると総人口の15%にあたる1750万人が古儀式派であった。グルジアには5世紀以来の独立教会グルジア正教会が存在していたが、19世紀にグルジアが併合されるとグルジア正教会の独立が否定されて総主教も廃止されている。ロシア人の大主教が派遣され、礼拝でのグルジア語の使用も制限されており、これに反発した民衆蜂起への報復としてさらなるロシア化が強制されている。グルジア正教会が独立を回復するのは1917年の二月革命後であり、ロシア正教会が正式にこれを認めたのは第二次世界大戦中の1943年のことであった。ポーランド人とほとんどのリトアニア人はローマ・カトリックである。ウクライナ人、ベラルーシ人の一部は東方典礼カトリック教会、アルメニア人の一部はに属していた。エストニア人を含む全ての西部フィン人、ドイツ人そしてスウェーデン人はプロテスタントであり、ルター派はバルト地方、イングリアそしてフィンランド大公国での支配的宗派であった。アルメニアには独自のアルメニア教会が存在する。1721年のニスタット条約でロシアに編入されたバルト地方のルター派教会は存続を保障され、1809年にロシアの属国となったフィンランド大公国の教会も同様の措置が取られた。18世紀末のポーランド分割で併合されたウクライナおよびベラルーシの合同派教会(ウクライナ東方カトリック教会)に対しては正教会への復帰が強制されており、強い抵抗とこれに対する迫害が繰り返されることになる。1861年にワルシャワにおいて総督府の兵士と民衆との衝突が発生した際にカトリック教会、プロテスタント教会そしてユダヤ教寺院が合同で教会を閉鎖する抗議行動を起こして総督を辞任に追い込んでいる。1863年から1864年にかけてポーランド・リトアニアで起こった大規模な武装蜂起(一月蜂起)が鎮圧されると、ロシア政府は蜂起にカトリック教会の聖職者が関与していたとして規制が強化されて修道院の大半が閉鎖され、弾圧に抗議する司祭が追放されたためポーランド王国内で実質的に活動する教区が僅か1つとなる事態になっている。1882年にアレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)と教皇庁との間で政教条約(コンコルダート)が結ばれたものの、ポベドノスツェフ宗務総監の宗教政策により、この合意は無効同然にされた。アレクサンドル3世の時代には、それまで寛容であったバルト地方のルター派教会に対しても規制が強められている。19世紀にロシアの統治下に入ったアルメニアは4世紀以来の長い歴史を持つ独自のアルメニア教会が存在しており、正教会に併合されることなく存続を許されていた。アレクサンドル3世の時代にはアルメニア教会も迫害を受け、ロシア化政策により1885年に教区学校が閉鎖された。ニコライ2世(在位1894年 - 1917年)治世には、1896年に図書館・友愛団体も閉鎖され、1903年には教会財産が没収される「アルメニア教会の危機」と呼ばれる事態になっている。帝政時代のロシアでは霊的キリスト教系のさまざまな諸派(主流派正教会の観点からは異端、分離派あるいはセクト)が生じており、有力なものにはドゥホボール派や信者が100万人に達したモロカン派がある。またこの時代に誕生し極端なセクトと呼ばれていた教派の事例としてはフルイスト派(鞭身派)やスコプツィ派(去勢派)が知られる。これらのセクトは反社会分子として迫害を受けた。だが、現在も存続している。ヴォルガ・ウラル地方のタタール人とバシキール人そしてアゼルバイジャン人を含むカフカース諸民族の一部、中央アジア諸民族はムスリム(イスラム教徒)であり、この内キルギス人は土俗のシャーマニズムをイスラムの信仰と合わせ持っている。ムスリム以外の非キリスト教徒にはラマ教徒のカルムイク人や、シャーマニズムのサモエード人をはじめとするシベリア諸民族がいた。16世紀中頃、イヴァン4世(在位1533年 - 1584年)のカザン・ハン国、アストラハン・ハン国の併合以降、ロシアはムスリム社会を内包するようになった。イヴァン4世は征服地にカザン大主教座を置き、強制的な改宗が試みられたが、すぐに撤回している。正教に改宗したタタール人は僅かであり、彼らはクリャシェンと呼ばれた。ピョートル1世はタタール人の司祭をつくるべく神学校を開設させたが失敗した。18世紀に入ると新規改宗者取扱局が置かれてクリャシェンの監督とムスリムに対する抑圧が行われ、カザンでは536あったモスクのうち418が取り壊されている。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代にクリミア・ハン国が併合されて多くのクリミア・タタール人がロシアの支配に入った。エカチェリーナ2世は宗教寛容政策を採り、それまでの抑圧策を廃止してムスリムを統治体制に組み込む方針に転換させた。1789年にムスリム宗務協議会がウファに設立され、この行政組織を通じてウラマー(イスラム法学者)の統制やシャリーア (イスラム法)の執行、モスクの管理が行われるようになった。1831年にクリミア地方を管轄するウヴリーダ・ムスリム宗務理事会、1872年にザカフカース・ムスリム宗務理事会がそれぞれ開設されている。18世紀末から19世紀前半にかけてカフカースが征服され、北カフカースの山岳民族やザカフカースのアゼルバイジャン人といったムスリムがロシアの支配に組み込まれた。アゼルバイジャン人に対する改宗の試みは成果なく、同化政策に対する反発を引き起こしている。北カフカースの山岳民族は長期にわたってロシア人の支配に抵抗した(カフカース戦争)。早くにロシアの支配に入ったヴォルガ・タタール人の商人や企業家は言語・宗教の同質を利用してイスラム諸国との貿易に活躍して財を蓄え、ロシアにおけるムスリム社会の経済発展そしてイスラム文化復興に貢献している。ロシアのウラマーの多くは中央アジアに留学しており、ブハラ・ハン国で中心的だったスーフィズムがロシアでも盛んになった。19世紀に入ると中央アジア礼賛に批判的なウトゥズ・イマニーや法源を主体的に解釈するイジュティハードを主張するクルサヴィーによるイスラム改革運動が生まれている。この一方で、裕福なタタール商人をはじめとするムスリムの知識階層も形成され、ロシア式教育が行われるようなり、彼らは飲酒をはじめとするロシア文化を受容しており、厳格なスーフィズム教団やウラマーの改革運動とは距離があった。19世紀後半になるとカフカース戦争の激化と

出典:wikipedia

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