シエラレオネ内戦(シエラレオネないせん、Sierra Leone Civil War)は、西アフリカのシエラレオネ共和国で1991年から2002年まで起きた内戦である。反政府勢力、革命統一戦線(RUF)と政府軍との交戦で、ダイヤモンドの鉱山の支配権をめぐって大規模な内戦に発展し、7万5000人以上の死者を出した。1961年にイギリスから独立し、1978年の新憲法制定後、一党政治で政権を担うが、失政や弾圧により、経済は破綻状態に陥った。これにより、治安が著しく悪化、いつ内戦が勃発してもおかしくない状態となる。シエラレオネでは1985年からシアカ・スティーブンス大統領の独裁政権に代わって、軍の指導者ジョセフ・サイドゥ・モモ陸軍少将が後継者としてシエラレオネの政権を握った。モモ大統領はスティーブンスの1党政党政を終わらせる政策を取るなど、大規模な内閣改造が行われた。モモの暗殺計画が企てられ、副大統領()のを始めとする、60人以上が逮捕された。その後も、モモの独裁政権に反対する動きがあった。1987年モモの独裁政権を倒すためアハメド・フォディ・サンコーがリビアに行き、そこで軍事訓練を受け革命統一戦線(RUF)を結成した。そしてリビアのムアマル・カダフィ大佐に紹介され、サンコーはシエラレオネの隣国リベリアのチャールズ・テーラーと出会った。テーラーもサンコーと同様の考えを持っていた。リベリアで独裁政治を展開していたサミュエル・ドウ大統領を倒すため、カダフィ大佐の元で革命の戦いの軍事訓練を教わっていたのである。そして1989年12月テーラー率いるリベリア国民愛国戦線(NPFL)はリベリアに侵入し武装蜂起した(リベリア内戦)。この戦争は、PMC(民間軍事会社)の介入が戦争の一局面を左右した戦争である。最初、シエラレオネ政府側はネパール人兵士、通称・グルカ兵を雇用しているグルカ・セキュリティー・グループ(以下、GSG社)を雇用するが、1995年2月にGSG社の現場指揮官であったロバート・C・マッケンジーをRUFに殺害されたことによって撤退。4月には政府は首都であるフリータウンを奪われ、国連、アメリカ、イギリスのいずれからも支援を受けることが出来ず、結局南アフリカの鉱山開発会社SRC社が保有しているエグゼクティブ・アウトカムズ(以下、EO社)に頼ることになる。EO社側が用意したオペレーターは三百人程度の元南アフリカ軍兵士と小規模なものだったが、南アフリカ軍時代に培った戦闘技術と攻撃ヘリコプターといった強力な武器によって、ほんの数ヶ月でRUF側の兵士数百人を殺害し、千人以上の脱走者を出すなど壊滅的な被害を与えた挙句にフリータウンを奪回した。1996年に権力を手にしたカバー大統領は国際世論の反発を受けてEO社を解雇するが、そのことによってRUF側の勢力が復活。その後の軍事顧問や警備部門としてEO社と同資本のサンドライン・インターナショナル社やライフガード社が雇用されるが、1998年にサンドライン社が国際連合の武器禁輸措置を無視して武器をカマジョー向けに密輸するなど、PMCの負の側面も露になっている。1991年3月、サンコー率いる革命統一戦線(RUF)も同胞のテーラーのNPFLの内戦の影響を受けて、リベリア国境付近のシエラレオネ南東部で武装蜂起した。リベリア国民愛国戦線(NPFT)の支援を受け、リベリアから越境攻撃を繰り返した。その頃、シエラレオネの政権では1992年4月29日、バレンタイン・ストラッサー率いる軍の下級将校が軍事クーデターを起こし、モモは政権の座を奪われギニアに逃亡した。そしてストラッサーが国家元首になった。ストラッサーの当初の目的は国内に侵入したリベリアのテーラー率いるNPFl及びそれに合流したサンコー率いるRUFの反政府活動を鎮圧する事であったが、RUFはその後、虐殺や略奪を重ねながら広範な領域を支配し、東部州などを支配下に収めた。領域内で産出されるダイヤモンドを資金源に大きな勢力を振い、そしてついに首都フリータウンを占領した。一時、テーラーのNPFLの支配地域が減少するにつれ、RUFの勢力が衰えていたように見え、政情が行き詰まりを見せたが、1993年にストラッサーはRUFに対して一方的に休戦を宣言したため反乱軍側の兵士に大赦を与えてしまった。その後、モモ政権に参加していた26人がストラッサーを倒そうとするクーデター未遂事件が発覚。ストラッサーはクーデター陰謀の容疑でその26人を処刑するが、1995年政権内部でクーデターが起こり、ストラッサーは政権を追われてしまった。1995年、EO社の介入によってRUF側は一時的に壊滅的な打撃を受ける。1996年1月、准将による無血クーデターが実行される。翌2月に大統領・議会選挙が行われ、3月には自由選挙により、アフマド・テジャン・カバーが大統領として文民政権に就任した。しかしRUFはこの文民政権とも激しく対立した。1997年5月に軍事クーデターでカバー大統領から権力を奪った軍事革命評議会(AFRC)のジョニー・ポール・コロマ少佐が国家元首になり、RUFと一時期ではあるが、手を組んだ。この軍事政権はナイジェリアなどを中心とした西アフリカ諸国経済共同体(ECOMOG/ECOWAS)の軍事介入で短命に終わったが、復活したカバー文民政権とRUFの対立はとどまるところを知らなかった。1997年にはリベリアで武装蜂起していたサンコーの同胞、テーラーがついにリベリアの権力を握った。テーラーは同胞のサンコーを支えるため、武器支援と引き換えにダイヤモンド密輸を行った。1998年7月には国際連合安全保障理事会決議1181が決議され、国際連合平和維持活動の国際連合シエラレオネ監視団(UNOMSIL)が設立された。UNOMSILはECOMOGともに和平構築にあたることとなった。1998年10月、サンコー議長の死刑判決を受け、これを契機に、RUFが全土で大攻勢を仕掛け、最終的には首都を含む全国土の3分の2以上をその支配下に収めた。その後、1999年7月にはがなされ、国連監視下での武装解除と引き換えに、RUFの政権参加が認められる事となった。RUFの攻勢時はUNOMSILは撤退していたが、1999年10月22日の国際連合安全保障理事会決議1270により陣容が強化されたPKFである国際連合シエラレオネ派遣団 (United Nations Mission in Sierra Leone,UNAMSIL)が設立・派遣された。UNAMSILはRUFなどの武装・動員解除、再統合(DDR)を行なうことが任務であったが、これと対立し、RUF側は武装解除に応じなかった。2000年5月1日にRUFがUNAMSILの要員約500名を人質とした事件が発生。5月16日、RUFのサンコーがフリータウンの自宅で市民により拘束されシエラレオネ警察に引き渡される。5月19日にイギリスはフリータウンとは入り江()で隔てられたルンギ国際空港へ増援部隊を派遣した(, Operation Palliser)。6月、。政府はRUFと停戦に合意。RUF側は政府側の武装解除の要求に応じ、カバー政権は2002年1月18日に武装解除の終了を宣言。3月1日にはついに内戦終結を宣言した。同年の5月にカバー大統領が再選。10年以上行われた紛争は終止符を打った。拘束されたサンコーは2003年戦争犯罪の罪で裁判に掛ける予定だったが元々衰弱しており、病気のためフリータウンの病院で死亡した。またサンコーの同胞テーラーも同年に圧力によりリベリアの政権を追われ逃亡の末、逮捕され、シエラレオネ内戦に関与したとしてフリータウンの裁判に掛けられ、連行された。その後、2005年12月にUNAMSIL(最大時は約17000人も参加)は完全に撤退、2007年8月にアーネスト・コロマ大統領が就任した。その後は、経済再建に取り組んでいる。
出典:wikipedia
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