笹本 信二(ささもと しんじ、1952年4月18日 - )は、徳島県板野郡松茂町出身の元プロ野球選手(捕手)。鳴門高校では2年生の時、四番打者、捕手、主将として1969年の秋季四国大会決勝に進出。大北敏博、細川安雄のバッテリーを擁する高松商を降し優勝、翌1970年の第42回選抜高等学校野球大会への出場を決める。大会では下手投げエース落合登(後に四国鉄道管理局)を擁して勝ち進み、準々決勝では淡口憲治、羽田耕一のいた三田学園に1-0で完封勝利。しかし準決勝で北陽高に2-6で敗れる。同年夏は南四国大会準決勝で高知商の中沢一彦投手(法大-三菱自動車川崎)に抑えられ敗退、甲子園には届かなかった。高校卒業後は同志社大学に進学し、同大学の硬式野球部では1年下の田尾安志投手とバッテリーを組み活躍。関西六大学野球リーグでは1年生春から全試合に出場し優勝4回、ベストナインに4回選出される。リーグ戦通算95試合出場、346打数86安打、打率.249、8本塁打。1973年の第4回明治神宮野球大会では決勝に進出するが、駒大に敗れ準優勝にとどまる。1974年のドラフト3位指名で阪神タイガースに入団。当時の正捕手は田淵幸一であったが、ルーキーイヤーの1975年から6試合に先発出場を果たす。また同年のジュニアオールスターゲームに出場し、MVPを獲得している。しかし一軍では出場機会がなかなか得られず、1977年のシーズン前に竹村一義、新井良夫両投手との交換トレードで阪急ブレーブスへ移籍。ここでも中沢伸二の控え捕手として起用されるが、1981年には36試合に先発マスクを被る。その後、1982年4月に藤城和明投手との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。ジャイアンツでは1984年まで山倉和博の控え捕手をつとめ、代打としても起用された。1985年には控え捕手としての起用も減少し、1986年限りで現役引退。引退後はスコアラー。現在はジャイアンツアカデミー校長を務めている。プロ選手時代のポジションは主に捕手であったが、外野手として公式戦に出場した経験もある。
出典:wikipedia
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