足立区立第十二中学校(あだちくりつ だい12ちゅうがっこう)は、東京都足立区に所在する公立中学校。略称は「12中(じゅうにちゅう)」下記の教育目標を達成するため、生徒の心身の調和のとれた発達を促し、2学期制の導入で授業時間数を確保し、基礎学力の定着を図るための習熟度別少人数制授業とチームティーチング(1つの科目を複数の教師で指導する)を実施している。また生徒には部活動への参加による人間関係の習熟と目標達成の意義を学び取ることと、自発的な家庭学習の取り組みを求めている。卒業生数は2011年(平成23年)3月19日に卒業生170名を送り出した時点で、累計16,945名である。毎年5月頃に開催される体育祭行事である。スローガンは生徒の応募の中から決定され、その年の運動会のPRとして用いられる。毎年秋に行われる文化祭行事であり、主に舞台発表の演劇部門と制作・研究発表の展示部門とからなる。文化部にとっては大会に並ぶ最大の活躍の場であるがそれは一般生徒にとっても同じであり、毎年技巧を凝らした様々な展示・演劇発表(吹奏楽部・演劇部・英語部)を目にできる。一般来場者には近隣住民や生徒の保護者だけでなく、他校の生徒なども訪れる。2007年度から、「合唱コンクール」ということで、各学年・各クラスで合唱を発表した。毎年数回、生徒会と整美委員会が中心となってボランティア清掃が行われる。この清掃活動では主に学校周辺の空き缶やタバコの吸殻といった廃棄物や落ち葉などを集めているのだが、時折生徒の中には廃棄自転車のような粗大ゴミを拾ってくることもある。清掃活動には生徒・教職員だけでなく、近隣の住民や生徒の保護者なども参加している。第十二中学校はマラソン強豪校としての伝統があった。1950年(昭和25年)1月に始まった区立中学校駅伝大会では3年連続して優勝し、優勝旗を永久授与された。また1955年(昭和30年)には五哩ロードレースで再び3年連続して優勝し、優勝カップを永久授与された。この永久優勝旗は現在でも生徒用昇降口に掲示してあり、優勝カップも正面玄関横の昇降階段裏に展示されている。1970年代には女子バレーボール部が足立区中学校連合体育大会で5年連続優勝を果たした。運動部文化部ほか全3曲より構成第十二中学校は足立区における第71投票所に指定されている。これに基づき、第十二中学校では足立区にて行われる選挙の際、大谷田一丁目および大谷田二丁目住民の投票所として機能する。投票所として利用される校舎は体育館である。太平洋戦争(第二次世界大戦)の終結で1947年(昭和22年)4月に、教育基本法と学校教育法の制定で新しい学制(六・三制)が実施されると、地方自治体は新制区立中学校の開設を迫られた。しかし当時は戦後間もない物資的資金的不足をきたした社会的混乱期にあり、財政難にあえぐ地方自治体に新学校を建設する余裕などなかった。こうした状況下でたまたま軍需産業であった日立精機の青年学校が廃校していたことで、足立区は渡りに船とばかりにこの廃校舎を購入し新制足立区立第十二中学校の校舎とすることにした。7教室しかない小規模な校舎であったが、当時は学制が施行されて日が浅く、また混乱期であったことから開校当時の生徒児童数もわずか8名という寂しい出発であった。生徒児童数が次第に増加すると既存の校舎だけでは対応しきれなくなり、1950年(昭和25年)7月に第一次校舎増築が行われ、新たに西校舎6教室が設けられた。その後も生徒数は増加の一途をたどり、二次・三次と増築を進め、1956年(昭和31年)には東和に蒲原分校を設立した。生徒増加の頂点は1963年(昭和38年)であり、この年度の在籍生徒児童数は1,281名という規模であった。生徒規模の拡大に対して学校規模の方は旧青年学校時代の用地をそのまま引き継いだものであり、敷地の拡大は遅れており、度重なる校舎増築で運動場がなくなってしまった。そこで足立区は隣接していた寺院「福寿院」の敷地を運動場として借用していたが、1959年(昭和34年)に新たに鉄筋校舎を建てるにあたり、さらなる用地拡大が必要となった。区は福寿院住職と檀徒総代と侃侃諤諤の議論の末に、借用地3,960m²と福寿院敷地1,650m²の買収に合意し、寺院は建物および墓地を現在地(大谷田三丁目11-26)へ移転した。こうした寺院側の画期的な協力によって鉄筋校舎の増築と拡大が始められ、1961年(昭和36年)にはさらに引揚寮跡地4,910m²が運動場(新グラウンド)として開設されるなど、徐々にして現在の姿へと至った。
出典:wikipedia
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