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帯方郡

帯方郡(たいほうぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点(植民地との見方も存在する)。楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある(後述)。後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部の遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた。その後を継いだ嫡子・公孫康は、建安9年(204年)楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割くとともに南方の土着勢力韓・濊族を討ち、併せて帯方郡として「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」という朝鮮半島南半の統治体制を築く。郡治とは、その周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。公孫康はほどなく魏の曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。公孫康の死後、その子・が幼いために公孫康の実弟・公孫恭が後を継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けた魏朝の文帝(曹操の子・曹丕)により、車騎将軍・襄平侯に封じられた。しかし、太和2年(228年)成長した公孫康の子の公孫淵は叔父・恭の位を奪い取り、魏の曹叡(明帝)からの承認も取りつけて揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、魏朝の仇敵である呉の孫権との同盟を画策し、最終的には、魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足とし、景初元年(237年)反旗を翻して独立を宣言。遼東の襄平城で燕王を自称するにいたる。帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属した。翌年(238年)魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ、長期の兵糧責めにあって公孫淵とその子・修は滅びる。これまで帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変遷があったが、実質的は一貫して公孫氏の領有下にあり、韓や倭といった東夷からの朝貢は公孫氏が受け取っていたと思われる。襄平城の攻城戦の最中であろうか、魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ、両者を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣。帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。太守・劉昕は、周辺の東濊・韓族の首長に邑君あるいは邑長の印綬を賜与し、魏との冊封関係を改めて結び直した。邪馬台国・卑弥呼も、景初2年(238年。『魏志倭人伝』の記述は誤りで、景初3年が正しいとする説もある)6月に、この新生・帯方郡の地へ、朝貢使の難升米を派遣したわけである。このとき太守は劉夏であったが、彼は郡の官吏を付けて後漢の都・洛陽まで難升米の一行を送らせた。正始元年(240年)にさらに異動があり、新太守となった弓遵は、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送った。ところがこの弓遵は、同6年(245年)に嶺東へ遠征して東濊を討った後、それまで帯方郡が所管していた辰韓八国を楽浪郡へ編入することになり、その決定を現地に伝えた際、通訳が誤訳を犯して臣智激韓を激怒させ郡内の韓族が帯方郡の崎離営を襲った。これを弓遵と楽浪太守の劉茂が兵を興して討ち、魏軍は韓族を滅亡させたが弓遵は戦死した。同8年(247年)弓遵から引き継いだ太守・王頎は、倭の使者から邪馬台国と狗奴国との交戦の報告を受け、自ら上洛して官の決裁を仰ぐが、魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく、魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)の張政が派遣されるに留まった。ここまでの帯方郡の動きは『三国志』からつぶさに知れる。歴代太守の記録を見ると、戦死した弓遵の例を除き、外交官としての非軍事的活動が主であることに気づく。また、その頻繁な人事異動には(8年間で4人の太守)、帯方郡の軍閥化を防ぎ第2の公孫氏を生まぬようにするための魏の基本方針と推測される泰始元年(265年)に魏の重臣であった司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が魏の曹奐(元帝)から禅譲を受けて晋朝(西晋)を興すが、その新しい王朝の繁栄も長くは続かず、永康元年(300年)身内の八王の乱ですっかり混迷状態に陥った。この時代、帯方郡に属する県は、帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥の7県であった(『晋書地理志』)。建興元年(313年)遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半島南半に孤立した帯方郡は晋の手を離れ情報も途絶した。元の帯方郡や楽浪郡南部に残された漢人の政権や都市は、東晋を奉じて5世紀初頭までの存続が確認されているが、5世紀前半には百済によって征服され、5世紀後半に入ると南下した高句麗が百済を駆逐して支配下へ置いた。帯方郡の滅亡後も地理的概念として帯方の名は残っていたようで、広開土王碑文によると404年に倭から百済征伐の形で北侵し、帯方界(旧帯方郡の境界?)に進入して高句麗と戦ったが無数の将兵を失ったという。楽浪郡治の所在地が、現在の平壌の郊外、市街地とは大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はない。土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に、当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土し、考古学的に明らかにされた状態といえる。これに対して、帯方郡治の比定地については決め手がなく、現代の38度線を挟んで諸説ある(東潮「古代朝鮮との交易と文物交流」『日本の古代3』1986年)。『魏志倭人伝』では、帯方郡が邪馬台国への旅の出発点であるだけに、かの邪馬台国論争からの関心も厚い(安本美典「魏志倭人伝を読む その3」邪馬台国の会・第232回講演記録)。ソウル説と広州説がある。広州は最初の百済の都であり、3世紀の馬韓の「伯済国」は広州にあったともされる。この二説は必ずしも対立するものではなく、初期には広州にあった帯方郡がソウルに遷り、その跡地に百済が興ったとも考えられる。南方説の問題点としては、ソウルを中心として風納里土城、夢村土城、石村洞古墳群などの発掘が行なわれたものの、めぼしい発見は未だないことである。ソウルも広州も古学的裏付けが乏しく、郡治があった痕跡は希薄である。鳳山郡説と安岳郡説がある。ともに考古学上の見地から唱えられた。この両説も南方説の場合と同じく、郡治所の移動がありうることを考えれば、必ずしも対立するものではない。北方説の問題点として、黄海北道や黄海南道では、楽浪郡に近すぎて2つに郡を分けた意味が無いという批判がある。また北方説では「韓、帯方の南にあり……方四千里ばかり」(『魏志韓伝』)という1辺4,000里の正方形にはならず、縦長の長方形になってしまい記述に合わない。この2点を掲げて批判する南方説の支持者は日本や韓国や中国に多い。第三に、中国の歴代の史書では百済の起源について帯方郡との関係をいう場合が多く、南方説では馬韓伯済国(京畿道広州)が帯方郡(京畿道広州)の跡地に存在していたか、近隣の帯方郡(京畿道ソウル)に進出したと解釈されているが、北方説では百済の発祥の地と帯方郡が離れすぎて説明が不可能になってしまうという問題点がある。北方説の考古学的根拠は、必ずしも帯方郡治(帯方県)の位置を確定するものではないが、帯方郡の領域が安岳郡や鳳山郡まで広がっていたとする論拠としては問題ない。最近の説では、鳳山郡・安岳郡・信川郡など載寧江流域の一帯には、他国からの流入者・亡命者などを含めた中国人社会が(帯方郡治所のあった場所が北方か南方かにかかわらず)形成されていたという見解(東潮・前掲書)が、これらの地に塼槨墓が存在する理由を合理的に説明しうるものとして注目されている。この上で、もし郡治がソウルか広州にあったと仮定した場合、帯方郡の領土はやけに細長い形になるので、岡田英弘は、帯方郡は黄海南道安岳郡から京畿道にかけての交易路に沿って、回廊状に7県がならんでいたと推定している。同様な回廊状の郡としては前漢代の玄菟郡があり、そちらは玄菟回廊ともよばれる。帯方回廊の北端として岡田英弘は安岳郡は帯方郡の領域に含まれるが鳳山郡は含まれないとした。帯方郡の屯有県は「公孫康、屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為す」(『魏志韓伝』)とあるように当初は帯方郡に属していたが、『晋書地理誌』の掲げる帯方郡の7県には入ってはおらず、楽浪郡に入っている。つまり屯有県は楽浪郡と帯方郡の境にあり、はじめ帯方郡に属したが後に楽浪郡に移管している。『三国遺事』によると帯方郡には南北の二つがあるという。実際の位置は北帯方が南、南帯方が北になる。南帯方は本来の帯方郡からみて南なので理解できるが、北帯方はどこから見て・なにと比べて「北」というのか不明。『三国遺事』が南北を逆に誤記しているとも考えられる。

出典:wikipedia

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