境町(さかえまち)は明治3年(1870年)から昭和29年(1954年)にかけて鳥取県に存在した町。境市政所創設なお翌4年に西灘地先を埋め立てて遊亀町を新設したので、二二町の区画となった。三役の下に一一人の目代が任命され、一人平均一二、三組の五人組を監督した。五人組の改編も行われ「組内の者は互に友吟味し、願届等は全て目代へ届けるよう」言い渡された。昭和10年大火発生軍用船玉栄丸爆発事件明治3年(1870年)9月3日、境村は隣村上道村の出村であった鼻と合併して境町となった。そして次の7町に区画された。ついで明治3年(1871年)に遊亀町を新設し、合せて8つの行政区画(小町)が出来た。しかしこれらの小町も明治20年(1887年)8月23日にいったん廃止され、単に「境町」とのみ呼称することとなった。大正14年(1925年)12月の町議会で小町21町の設置を決議し、県知事の認可を得て大正15年(1926年)5月15日、次の21の大字の町名を設定し、あわせて地番改正を行った。新設の大字町名は次の通り。また、境町役場では、改正した地番を周知徹底させるため、新設の町名と改正した地番を記入した門標を作成して配布した。その準備のため、数日間は役場職員は総動員でこれにあたった。表記の方法は「境町何町(さかえまちなにまち)」と記し、「境町大字何町」という表記はせず大字の文字は省略するように指導した。町村長は町村会で選ばれ、町村会の議長も兼ねた。助役と共に無給の名誉職であったが、適任者がなかったり内部がもめたりして有給吏員を置く場合もあった。初期の町村長には、庄屋、戸長の職を経験した者、あるいはその子孫が選ばれている。彼らの多くは県会、郡会にも進出し、上道村長稲賀龍二のように村長を務めながら、県会・郡会議員を兼ねた例もあった。昭和前期戦時下の町村政を担当した町村長は苦悩の中に終戦を迎え、昭和21年(1946年)11月そろって公職追放を受けた。昭和22年(1947年)4月には初の町村長選挙が行われ、公選町村長は終戦直後の多難な町村政に対応しながら、昭和29年(1954年)の6か町村合併を迎えた。町村会の議員も名誉職で、任期は6年、3年ごとの半数改選であった。選挙権、披選挙権は地租あるいは直接国税2円以上の納入者に限定され、選挙人は全住民の1割強にすぎないという厳しい制限選挙であった。加えて議員定数の半数を一級選挙人(町村納税総額の2分1を納める者)が選び、あと半数を二級選挙人(一級を除いた選挙人)が選ぶという多額納税者に優位な等級選挙であった。大正2年(1913年)の選挙からは任期4年の一斉改選となり大正10年(1921年)には等級制と選挙人の納税制限が廃止されて、選挙人も大幅に増加し、地方自治の前進を見た。さらに昭和の新憲法下に入ると、女性にも参政権が認められ、余子村議に女性議員が登場、新時代を象徴した。助役職は名誉職・有給職と2名在任の時もあった町会議員は次の通り(補)は補欠、(死)は在任中死去、(辞)は辞任、召集、取消、失格、隠居などを含む)花町の面谷宏家には、「辛未四月改、市中商売根帳、面谷性」と表題した帳面が蔵されている。辛未の年、つまり明治4年(1871年)の商業資料として貴重な存在である。多種の職種に、境港の明治初期の商業の盛況をしのばせる。一、酒造株 面谷与九郎 奈鹿屋敬蔵 栢木定太郎(小西屋吉太郎) ほか六名二、質屋 大家屋吉三郎 栢木定太郎店 下西屋周録 吉屋幾蔵 今津屋伴蔵三、木綿中買 松屋六七八 布袋屋久作 安田屋良八 米子屋平六 ほか三四名四、古手中買 川西屋源蔵 大西屋武作 広瀬屋文七 油東屋民蔵 ほか六名五、小問屋 新屋直三郎 中屋為吉 灘酒屋常吉 納屋茂一郎 ほか三〇名六、綿中買 油屋善八 広瀬屋与平 加嶋屋繁治郎 米子屋和七 ほか二二名七、諸品仲買 笹屋豊十 荒木屋徳三郎 加納屋文市 但馬屋直六 ほか五五名八、太物小間物 米屋民四郎 安宅屋久市 川戸屋勇三郎 名田屋藤四郎 ほか一一名九、紺屋職 中屋為吉 紺屋長九郎 新紺屋吉三郎 紺屋勇七 ほか一名一〇、搗米屋 荒木屋徳三郎 油屋寛蔵 古屋治平 上野屋儀平 ほか四三名一一、渡海船頭 山本屋亀市 ほか七三名一二、宿屋 灘新屋只十郎 ほか四五名一三、雑穀荒物 入船町 武蔵 ほか五七名一四、絞油株 中油屋実蔵 ほか三名一五、菜種屋 中村屋儀作 ほか三名一七、仲仕稼 一一五名一八、船方小宿 四九名一九、医師 花町 儀庵 ほか七名二〇、大工 雲津屋常蔵 ほか九名二一、船大工 豆腐屋藤三郎 ほか二八名二二、鍛冶職 西崎屋利∞平 ほか一七名二三、桶屋職 松田屋長七 ほか七名二四、飯盛宿 一八名二五、木挽職 前中屋久郎 二六、刻煙草家業 小中屋熊吉 ほか二一名 二七、髪結 東屋 みや ほか一二名 二八、蕎麦屋 朝日町 丈七 ほか七名二九、豆腐屋 結城屋常七 ほか一四名三〇、練油、蝋燭株 納屋 茂七 酒井屋万四郎 米屋友治郎 栢木定太郎三一、糀屋 味噌屋儀次郎 入船町 芳録 紺屋 柳七 ほか2名三二、左官 松ヶ枝町 善八 紺屋 柳七 紺屋敬次郎 ソバ屋 丈七 平野屋三三、綿打職 西村屋久四郎 中西屋清太郎 大山屋孫七 新紺屋平三郎 ほか一三名三四、造酢屋 花町 房重 小西屋吉太郎 味噌屋儀次郎 相生町 与作 ほか三名三五、居風呂屋 和泉屋市十郎 木締屋久吉 大西屋新七三六、帆木綿仕立織 松屋清一郎 西村屋久平 酒井屋万四郎 油屋柳三郎 江村屋弥太郎三七、白銀屋 松ヶ枝町 明暦屋林五郎 古屋治平境町には地名を付した屋号が多い。明治4年(1871年)現在で40軒もある。これらの屋号は境町と他港との交流、商取引の広さを示すものであり、また繁栄した境港に他国からの移住者が多かったことを表していると思われる。越前屋、越後屋、安宅屋、小浜屋、但馬屋、兵庫屋、大阪屋、神戸屋、阿波屋、広島屋、山口屋、福岡屋、若松屋、長崎屋、石見屋、隠岐国屋、西郷屋、平田屋、橋津屋、米子屋、今津屋等「市中商売根帳」のまとめによると、宿屋45戸、舟方小宿49戸、計94戸は全戸数673戸からみると大変多い数で7戸に1戸は宿屋ということになる。仲買商も大変多く、133戸で全戸数の20パーセントに当たり、5戸に1戸は仲買商であった。これら宿屋や仲買商の多いということは、当時境港の入港船数や他国商人の出入がいかに多かったかを示すものであり、港は船と商人で大変なにぎわいを呈したものと思われる。大正元年(1912年)『山陰実業名鑑』(綱島幸次郎編)によると、地価三百円以上の土地所有者、所得税納入者、営業税納入者は以下の通り。尼子の重臣亀井能登守の家臣に手島四郎三郎あり。四郎三郎戦死後、その一子は雲州本庄に逃れ、その後境村に転住。その末裔の他一族も境村に多い(伯州浜の目境村之聞書)。境村の旧記では西小路、森家は境旧家29の1つとされ、古い家系を誇っていた。その家系図によれば人皇7代孝霊天皇の皇子正武彦命から45代餘見島宿弥守明の折、源義親との婚姻の伝承があり、それより9代守侶の時に後醍醐天皇より源姓と餘戸家の家号を賜ったとある。その頃から明応9年(1500年)の棟札に至るまで“宮脇姓”で、森家の家系図で森姓と明記されているのは、森次右衛門守祥の父森豊前守守益の時で、その代か、あるいは一つ先代の時頃に、森姓に移ったと推定されている。宮脇、源、森の姓もその時代時代に宮廷より賜ったもので、慶長年間(1596年から1615年)に屡々吉田殿に参代しており、下って天明元年(1781年)には従五位に叙せられたとも伝えられている。何故森姓に移ったかは明らかでない。夜見村(現在の米子市夜見町)は境村、余子神社神官、森守祥の次男六郎右衛門守連らが、延宝7年(1679年)官許を得て開発した
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