ベイブルース(Bay Blues)は、日本のお笑いコンビ。吉本興業所属だった。1988年結成。1994年にメンバーの死去により、活動停止後、2001年に正式に解散。NSCの7期生。共に、大阪市立桜宮高等学校の同級生で、共に硬式野球部出身。野球部の同級生に矢野燿大がいる。同期にトゥナイトのなるみ、雨上がり決死隊、矢部美幸(ナインティナイン矢部浩之の兄)などがいる。当時、ずば抜けた実力を持ちながら、河本の突然の逝去によって解散を余儀なくされた(2001年に正式に解散)伝説の漫才コンビと言われている。1988年5月、河本が高校卒業後、スイミングスクールに就職していた高山を誘う形で、NSC7期生在学中に「河本・高山」を結成。NSC7期生卒業間近の1989年3月には、「昭和63年度 第19回NHK上方漫才コンテスト」(河本・高山名義)本選出場を果たす。1989年4月、NSC卒業に合わせ、「ベイブルース」に改名。コンビ名の由来は野球選手のベーブ・ルースからだが、本人たちが照れから「上田正樹の『悲しい色やね』の歌詞・大阪ベイ(湾)ブルースから取った」ということにしていたため、本来の由来とは表記が異なっている。デビュー後は、上方お笑い大賞などの数々の新人賞を獲得。また、CDをリリースして歌手デビューをするなど、活動は順調であった(CDが発売されたのは河本の死後)。しかし、コンビとしての更なる活動が期待された矢先、河本が劇症肝炎のため急逝。高山はピン芸人としての活動を余儀なくされる。その間は「ベイブルース高山」(番組によっては、ベイブルース高山知浩の表記も)と名乗っていた。これは「ベイブルースの存在を忘れてほしくなかった」、「自分が河本の分まで頑張っていきたい」という思いからであった。その後、高山は和泉修の誘いで、2001年9月18日に「ケツカッチン」を結成。同年11月1日に関西地区で放送された番組の中で、「ベイブルースは本日をもって解散します」とファンに向けて発表した。コンビ結成から12年目のことだった。どちらも芸人としての意識が非常に高い(プロデューサー談)。後輩からは恐がられる部分もあったものの、人柄の良さもあり慕われていた。芸風は主に漫才で、漫才のクオリティは当時の若手でも群を抜いており、NSCの同期である雨上がり決死隊の宮迫は「同期にベイブルースっていうもの凄い漫才のうまいコンビがおったから、これは勝てないと思って俺らはコント主体でいくことにした」と語っている。また、コントも行うことがあった。2001年のケツカッチン結成後は、常にベイブルースとして活動することはないが、事実上の解散となった現在でも、不定期でイベントを開催しては復活するなど、活動は続いている。このイベントには、高山・河本両名と交流のある種浦マサオ(#1 - #2)や清水キョウイチ郎(#2)が出席。高山と共に、河本の思い出を語った。なお清水は、4日後の11月4日に、肺血栓により逝去、これが最期のイベント出演となった。2009年10月31日に、高山は「ベイブルース 25歳と364日」を出版、11月29日には没後15年ということで、同期や後輩を集めたイベント「25歳と364日 〜ベイブルースよ、伝説に〜」を開催し、ベイブルースとして最後のコントを披露した。またこの本は、2011年11月3日に京橋花月にて、後輩のメッセンジャー黒田による演出で「『RUN』〜ベイブルース 25歳と364日〜」として芝居化され、3年後の2014年には映画化もされ、監督を自ら務めた。2014年8月の『水野真紀の魔法のレストランR』にて、2人を可愛がっていたシルクと高山、そして後輩の矢野・兵動の兵動大樹の3人で、河本がよく通った店を3軒回りながら、高山が河本とのエピソードを回想した。ケツカッチン結成以降の高山の出演状況については、高山トモヒロの項目を参照のこと。
出典:wikipedia
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