本田技研工業株式会社(ほんだぎけんこうぎょう、英称:Honda Motor Co., Ltd.)は、東京都港区に本社を置く日本屈指の輸送機器及び機械工業メーカーであり、二輪車では、販売台数、売上規模ともに世界首位である。本田宗一郎が1946年(昭和21年)に静岡県浜松市で本田技術研究所を起業し、後に本田技研工業へ改組した。オートバイ、自動車、航空機、汎用製品(耕耘機・芝刈機・除雪機・発電機・船外機・太陽電池など)の製造および販売を主業務としている。新規分野として、ASIMO(アシモ)のような二足歩行ロボットや各種ロボティクス機器の研究開発、HondaJet(ホンダ ジェット)と呼ばれる小型ジェット機及びターボファン式ジェットエンジンの製品認可取得に向けた認証試験作業などの生産開発、メガソーラー太陽光発電施設の積極的導入、風力発電施設による売電事業なども行っている。米ブランドコンサルティング会社のインターブランドが発表した2014年の世界ブランドランキングでは、日本の企業では8位のトヨタに次ぐ20位にランクインする。日本での販売網は、四輪販売店がホンダカーズ店、二輪販売店がホンダドリーム店に大別できる。発電機や刈払機等の汎用機を専門に扱う店舗ブランドは存在しない。小型車・軽自動車を主に扱っていた旧プリモ店の運営会社の出自が自転車店、オートバイ店、機械工具店、マリーン・船外機取扱店、農機具取扱店であったり、地元有力者の中小の商店や企業などで委託販売形式を採用していた名残があり、地元に密着した販社が多いのが特徴の一つである。レンタカー事業については、トヨタや日産など同業他社よりも早い1964年(昭和39年)に参入したが、5年後の1969年(昭和44年)に撤退しており、現在は日本国内全域を網羅する自社ブランドのレンタカー会社を持たない。ニッポンレンタカーやオリックス自動車、沖縄ツーリストと提携して、ホンダ車専用の予約サイトをこれら3社に運営委託している他、期間・地域限定でホンダ車を安価でレンタルできるキャンペーンを展開するなどしている。北米では大衆車ブランドの“Honda”と高級車ブランドの“Acura”(アキュラ)で展開しており、大衆車では大きなシェアを占める。北米における売上げは大きな収入源となっている。日本では販売していないATVやパーソナルウォータークラフトなども取り扱っている。ホンダの中国展開は、1973年(昭和48年)に本田宗一郎が自ら訪中して中国展開を決意し、二輪車の輸出を始めた。1982年(昭和57年)には重慶市のメーカーと技術提携して現地での二輪車部品生産を開始した。1992年(平成4年)には重慶市、広州市ならびに天津市に合弁企業による二輪車生産工場を設けた。本格的な四輪車の販売へ乗り出すべく、1993年(平成5年)には香港にHonda Motor Chinaを設立した。当時は現地生産車ではなく輸入車のみではあったが、中国での販売とアフターサービスを行った。本格的な四輪車の生産は1994年(平成6年)に、東風汽車(武漢)との合弁で設立した東風本田零部件有限公司で始まった。1998年(平成10年)には広州汽車(広州)と合弁し、それまでの合弁相手だったプジョーが撤退した後の工場をそのまま譲り受け、アコードやフィットなどの生産を始めた。プジョーと合弁していた時代からの従業員を本田流に指導し、高品質の製品が作り出されるようになった。今では広州本田だけで年産24万台に発展し、広州市のパトカーにもホンダ車が使われている。創業者の本田宗一郎(ほんだ そういちろう)は経営者・技術者として著名であり、社名は本田の姓から名づけられた。日本の自動車メーカーとして9番目に設立された。本社は、東京都港区南青山二丁目に、地上16階地下4階の自社ビルを有する。通称および日本の各証券取引所での表示は「ホンダ」。ロゴはアルファベット大文字の「HONDA」を赤色でデザインしたもの。2000年(平成12年)末よりロゴを使用しない場面での社名表記として、ホンダのCI(コーポレートアイデンティティ)に基づくVI(ビジュアル・アイデンティティ)として、ホンダ自身が「コミュニケーションネーム」と呼ぶ表記を用いるようになった。これはアルファベット表記で「Honda」とするもので、ホンダ自身が積極的に用いると共に、報道機関に対し社名の扱いを「Honda」もしくは縦組の場合は「ホンダ」の表記を要望している。この他、それぞれの開発分野の独自性を示す意味で、二輪車用には翼をイメージしたマークと「HONDA」のロゴとの併用、四輪車用は「H」をデザインしたマークをそれぞれ専用のロゴマークとして採用している。四輪車でも、1980年代までは「H」マークと「HONDA」のロゴとが併用されていたが、以降2016年現在では、「H」マークに統一されている。発電機などの汎用製品の場合には「HONDA」のロゴのみとなっている。藤沢武夫の「(ホンダの)社長は技術者出身であるべき」という言葉が今も守られており、現職の八郷隆弘に至るまで、歴代の社長はすべて技術者出身である。そのうち福井威夫まではエンジン開発部門の技術者であり、本田宗一郎以外の全員が四輪F1もしくは2輪WGPのエンジン開発経験がある。また、本田宗一郎、藤沢武夫の両人とも、子供をホンダに入社させない方針であった。創業初期に重要な役目をになった本田の弟 弁二郎も退社させている。その後、弁次郎はホンダの部品メーカー本田金属技術を、長男の本田博俊はホンダのアフターパーツメーカー「無限」を創業した。創業者一族による会社の私物化の弊害を恐れる本田の信念が貫かれ、縁故採用は一切行わず、実力本位の採用を行っている。もっとも、初期の頃は本田と自身の父親が知り合いだった縁で入社した2代目社長の河島喜好のように親戚・口利きで問題なく入社することができた。縁故採用を行わないルールを作成したのは、会社がある程度大きくなってからのことであり、縁故採用を行うわけにはいかない本田宗一郎の個人的事情が陰にあった。また中途採用にも積極的であり、初期の自動車開発を進め、F1監督も務めた中村良夫を始め、ASIMO開発の中心者である広瀬真人、SH-AWDなどの駆動力制御が専門である芝端康二も中途採用組である。ほかにも本田の思想が反映した事例としては、社長室がない、重役達は一つのフロアを共有しているという特徴がある。労働環境は、ほかの自動車工場より良いといわれる。良い例が、連続2交代制勤務といち早く週休2日制を導入したことがあげられる。また、従業員の作業服の洗濯も無償で行っている。また、ほかの自動車工場に比べ、女性の進出も多い。現場主義で知られ、新入社員は工員以外にも、事務職・技術職・また男女の性別を問わずに、各製作所で半年間程度の研修をさせている。他社と比較して、一部車種を除きテレビコマーシャルに有名芸能人をあまり起用しない。CMソングもJ-POPではなく、オリジナルのものや洋楽曲が使われるケースが多い。芸能人を起用しない理由としては、安易に芸能人のイメージに頼らない独自路線に加え、テレビコマーシャルに芸能人を起用すると、販売不振に陥るというジンクスがあるためとされている。自動車メーカーの中では知的財産権に関する取り組みが早く、1980年代以降からホンダ車のプラモデル・ミニチュアカーには「本田技研工業承認済」(現在はHonda Official License Product)の文字が記載されている。これは創業者の本田宗一郎が「ウチの車を製品化するときは、できる限り似せて作って欲しい」と発言したことにも由来する。一方ゲーム・アニメーションについては、公道をテーマとした(一般車両が混在して走る)レーシングゲーム(首都高バトルシリーズなど)には版権を許諾していない。また、レースをテーマとしたものではないが、自動車がロボットに変形して戦うアニメ「超速変形ジャイロゼッター」でも、日本の自動車メーカーの車両が多数登場する中で一台も登場していない。これについてホンダ側は「イメージに合わないためお断りした」と回答している。1971年(昭和46年)には、低公害技術であるCVCCを発表。米国でマスキー法という環境規制法が成立しており、その規制開始期限までに規制に対応するエンジンは世界中のメーカーが開発不可能と言われていたほど厳格な規制であった。そのマスキー法の条件をクリアしたのが、当時、日本の中小メーカーだったHondaであり、Hondaの名前を世界に知らしめた。翌年から翌々年にかけてトヨタ、フォード、クライスラー、いすゞに技術供与。近年は、ハイブリッド車インサイトやシビックハイブリッドなどの二酸化炭素の排出量の少ない車両の本格普及に向けての低価格なハイブリッドカーの販売や地球環境産業技術研究機構(RITE)との共同研究による、稲わら、麦わら、コーンの茎などの農業廃棄物や木屑などのバイオマス資源からエタノール燃料を効率的に生産する循環型エネルギー技術の開発、各工場での生産体系や物資輸送体系の見直し、ツインリンクもてぎ内での環境教育施設運営から有志による海岸の清掃活動など、多岐に渡っている。また日本国外では、中華人民共和国内モンゴル自治区通遼市のホルチン砂漠での植林作業を展開し、砂漠緑化活動も毎年行っている。これらの前世代から受け継いできた環境問題に対して積極的に取り組んでいるだけでなく、来るべき未来に向けた次世代環境技術の実践開発として、水素燃料電池自動車FCXクラリティのリース販売、環境負担の少ない水素燃料生産供給インフラ「太陽電池式水電解型水素ステーション」、既存の都市ガスなどの天然ガス供給インフラから水素を製造しつつ、燃料電池コージェネレーション機能によって家庭用の熱(給湯や暖房など)および電力の供給を行う「ホーム・エネルギー・ステーション」の開発及び実験稼動も行っている。(2015年(平成27年)6月17日現在)自動車部品等を製造する東海精機株式会社を創業者の本田 宗一郎が株式会社豊田自動織機に売却した。その資金を元手に1946年(昭和21年)本田技術研究所として開設され、内燃機関および各種工作機械の製造、ならびに研究を開始。1947年(昭和22年)にはA型自転車用補助動力エンジンを開発した。1948年(昭和23年)に本田技研工業株式会社として設立する。1949年(昭和24年)に藤沢武夫を経営パートナーとして迎え、以降、技術の本田宗一郎と経営の藤沢武夫による2人3脚の経営が始まる。1963年(昭和38年)には後年に「スポーツトラック」とも呼ばれることになるT360(日本初のDOHCエンジン搭載)で4輪車業界に参入した。同年には、欧州ベルギーに2輪車製造拠点を設立し、日本の自動車産業界において初となる、欧州圏での製品(スーパーカブ・C100)の現地生産も行った。その後もCVCC、VTEC、VTEC-E、i-VTEC、i-DSI、IMAといった高い技術開発力を示してきた。1981年(昭和56年)に世界初の自動車用ナビゲーション・システムを完成させた。1982年(昭和57年)には、オハイオ州メアリーズビル(コロンバス郊外)にて、日本の自動車メーカー初となるアメリカ合衆国での4輪車(アコード)の現地生産を開始し、昨今の日本の企業のグローバル化の手本とも言える大規模な日本国外への展開を、時代に先駆けて行った。2輪車・4輪車・汎用製品だけでなく、太陽電池パネルの生産や2足歩行ロボットの開発も行っている。初の量産ロボット「ASIMO」は、ニューヨーク証券取引所の始業ベルを人間以外で初めて鳴らした。また、2003年(平成15年)末には、宗一郎の念願だった航空機業界への参入への第一歩となる試作機「Honda Jet」の初飛行にも成功。2004年(平成16年)2月16日には小型ジェット機用エンジンの事業化でGEとの提携も発表。2006年8月 ホンダ・エアクラフト・カンパニーを米国に設立し、2010年度からの機体引渡しに向けてノースカロライナ州グリーンズボロにあるピードモント・トライアド国際空港隣接地に生産拠点の建設を行っている。2004年(平成16年)7月には、埼玉県和光市の旧工場跡地にビルを新築、日本国内本社機能の一部を和光へ移転させた(日本国外の本社機能は港区南青山に所在する)。取引銀行は三菱東京UFJ銀行、三菱UFJ信託銀行、りそな銀行である。自転車用原動機を製作したことが社業の始まりとなり、ヒットを記録。その後、原動機付自転車の分野でスーパーカブという空前絶後の大ヒット作を生み、世界のあらゆる地域で使用された。これによって、「スーパーカブのHonda」と知名度を大いに上げ、国際二輪業界において日本のメーカーが覇権を握る下地となった。スーパーカブは全世界通算で6,000万台(2008年4月末時点)が製造され、「世界で最も多く製造されたオートバイ」となっている。社の業務として「モータースポーツの振興」を挙げるだけあって、スポーツモデルにも力を入れており、二輪ロードレースの世界最高峰カテゴリであるロードレース世界選手権 (MotoGP)や プロダクションレースであるスーパーバイク世界選手権(SBK)での実績をフィードバックしたスポーツモデルが好評である。また、公道走行可能なバイクだけでなく、ロードレーサーやモトクロッサーなどのコンペティションモデルの市販とサポートにも熱心である。2008年(平成20年)からは浜松製作所で生産している中型・大型二輪部門を熊本製作所に移管、熊本製作所に二輪車の新工場を建設し浜松製作所の二輪生産に従事する1,500人は熊本製作所に配置転換された。浜松製作所では自動変速機の生産を強化した。一時期三ない運動により大打撃を受けたが、スズキ、ヤマハ、カワサキといった大手二輪車メーカーらとともに「三ない運動を推進している地域ほど二輪車事故が多発している」と反論を展開するとともに、徳島県内の私立高校と協力して二輪車講習を鈴鹿サーキットで行うなど高校生の交通安全教育に力を注ぎ成果をあげた。ほとんどの分野、ほとんどの排気量において優秀なモデルを送り出し、オートバイ生産台数世界第1位の座を盤石のものとしているホンダであるが、日本国内向けの需要は年々減少を続け、2009年(平成21年)の日本国内の年間生産台数は18万台までに低下。一方、日本国外の工場では、旺盛な需要の下、インドではヒーロー・ホンダ社、ホンダ・モーターサイクル・アンド・スクーター・インディア社の2社で560万台、インドネシアではアストラ・ホンダ・モーター社が300万台と生産数を増加させており、排気量の多寡があるとはいえ、日本の工場が一大生産生産拠点であった時代は過去のものとなった。なお、ドイモイによる経済自由化以降、大量の中古オートバイが輸出されたベトナム社会主義共和国では、その品質の高さと並外れた耐久性、修理における簡便性によって人気が高く、オートバイを指す一般名詞として"Honda"の語が使われる事がある程である。2010年(平成22年)7月、ホンダは日本における若者の車離れ(二輪車離れ)に歯止めをかけるため、全二輪車の価格を値下げすることを発表した。値下げ幅はスーパーカブ50で約4万円、最廉価のフォルツァで約12万ほどとみられる。これと並行して日本で生産している二輪の小型車を全て日本国外での生産に移管させる方針を明らかにしたが、その後円安傾向により国内生産のメリットが高まったため方針を転換し、2015年9月より熊本製作所においてミニバイクを増産することを公表した。2016年(平成28年)10月5日、縮小している国内向け50ccスクーターの生産・開発でヤマハと資本提携を検討していることを発表した。2018年をめどにヤマハの子会社である台湾山葉機車工業が製造している「ジョグ」と「ビーノ」をOEM生産として熊本製作所に移管して製造することとしている。現在に至るまで前輪駆動車の割合が非常に多いのが特徴。創業者の環境に対する理念に基づき、初代シビックを筆頭として、優れた量産車を環境に配慮した柔軟な製造体制を持つ、四輪車製造専用の日本国内外の製作所にて生産している。四輪初期は宗一郎の英国車への熱い思いが製品にも影響しており、シビックは英国オースチンのミニに肝銘を受けて作られたと言われている。後の1972年(昭和47年)、ホンダはオースチンを有するブリティッシュ・レイランド社と提携、資本や技術の提供を行うこととなる。また、世界に先駆けて走行時に排出ガスを全く生み出さない水素燃料電池自動車の本格普及を目指し、2008年(平成20年)から米国と日本にてリース販売を開始した燃料電池自動車「FCXクラリティ」の年間数十台程度の需要状況に合わせ、ホンダ新機種開発センター(栃木県塩谷郡高根沢町)に燃料電池車専用の小規模組み立てラインを設置した。現在日本国内で販売されているホンダ車は新車販売時に一部他社が設定する寒冷地仕様を設定せず、全国共通仕様にすることで基本的に日本全国価格が均一であり、地方や季節を選ばずトラブルなく走行することができる。4輪車製造において、現在全世界マザー工場として機能させている鈴鹿製作所の近接地に、国際的に有名なレーシングコース鈴鹿サーキットを1960年代から有するホンダは、モータースポーツへの積極的な参戦やそれらレースシーンを中心とする自動車文化を愛する社風とも相まって、スポーティーなモデルを得意とし同社のリーディングイメージとしてきた。そのような憂いなき歴史的背景をもつ反面、初代オデッセイに始まる“クリエイティブ・ムーバー”シリーズの登場までは、RVやミニバンなどのファミリーユーザー向けの商品ラインナップはステーションワゴンであるシビックカントリー、シビックシャトル、アコードワゴン、いすゞ自動車よりOEM供給を受けたジャズ、ホライゾン、ローバーグループ(現:ランドローバー社)よりOEM供給のクロスロードしか存在せず、バブル期のF1ブームや好景気を追い風とする幅広い層のホンダユーザー増加によるさまざまなニーズに応えられない状況にあった。しかしながら、余暇における有意義な時間の創出と日常での利便性の両立を追求した初代オデッセイの登場以降、CR-V、S-MX、ステップワゴンと続く一連のクリエイティブ・ムーバーシリーズの発売前後から、RVやミニバン、ワゴンなどのファミリー向け製品の開発を進め、昨今では、3.5L V6エンジンも選択可能なフルサイズミニバン エリシオン及びエリシオンプレステージ、ステップワゴンに新たなデザインテイストを加えたステップワゴン・スパーダ、7人乗りも選択可能なコンパクトミニバンフリードなど幅広い商品ラインナップを揃えている。オデッセイの誕生以前、OEM供給を受けるなど自社開発が遅れていたRV/SUV部門に措いては、CR-Vの大ヒットにより遅れを一気に挽回し、4代目となる現在では、「ホンダのRV=若者向け」といった市場の固定観念を覆すミディアムクラス高級SUVといった趣となっている。ステーションワゴンにおいても、各国でロングセラーモデルとなったアコードワゴン(現アコードツアラー)を中心に、2011年に登場したエントリークラス ステーションワゴンのフィットシャトル、2000年に7人乗りのステーションワゴンとして5ナンバーセグメントに新たな流行を生んだストリームなどが発売されている。アコードツアラーにおいては、尿素を用いずに欧州排出ガス規制()をクリアさせた、CO排出量において優位性を持つクリーンなディーゼルエンジン(i-DTECエンジン)を搭載し、環境に配慮した製品を欧州にて販売するなど国際市場での環境対応も計っている。RV、SUV、ミニバン、ワゴンといった収容性や利便性を優先的に追求されるファミリー向けの製品に対し、セダン並の操縦安定性や運転する楽しさを兼ね備えさせている事が全体を通してのホンダ車の特色である。またこれらの車両を用い、同社が福祉車両製品として長年研究、開発している製品群の中で介護車、および自操車と分類される製品を、今後増加するシルバー世代の生活の質の向上や、身体に障害を持っている方々の積極的な社会参加や快適な生活を送るための支援を目的に販売している。コンパクトカーの分野では、2002年(平成14年)、フィットがトヨタ自動車のカローラを販売台数を上回りトップとなり、2003年(平成15年)にも一時追い抜くなど躍進した。現在も月別販売台数で1~6位(2004年(平成16年)1~8月データによる)の成績を維持している。2006年(平成18年)度、日本国内の省エネ法改正などの車両の省エネ対策の法的強化を受けて、フィットを土台にしたハイブリッド車2代目インサイトも開発された。軽自動車の分野においては、高い衝突安全性を持つゼスト、バックモニターを標準装備としたロングセラーと言えるライフ、スーパーハイトワゴンのN BOX、のミッドシップエンジン採用の軽ワゴンバモス、ダンプやリフターなどの特装車も選択可能な軽トラックのアクティトラック、快適で確実なワークタイムをサポートする軽商用バンのアクティバンなど、快適性などを犠牲にすることなく、高い環境性能を達成している。なお、1998年にトゥデイが生産終了となってからは、一般的な機械式立体駐車場に入庫可能な軽自動車(全高1,550mm以下)を2015年にN-ONEのローダウンモデル発売するまでの間、生産していなかった。ハイブリッドカーにおいては、パラレル式と分類されるハイブリッドシステム(Honda IMA)をCO排出量の削減及び燃費向上を目的に幅広い普及を目指して自社開発し、現在販売しているハイブリッド専用車インサイトやシビックハイブリッドに、昨今これらの環境車需要が増加している中、比較的安価なコストで搭載している。ホンダのハイブリッドシステムは、走行状況に応じてエンジンの燃焼を休止させるi-VTECエンジンと、加速時における単一の薄型ブラシレスモーターからの出力の利用、および同一モーターによる減速時の回生発電を行い、比較的容量の小さい専用二次電池へのエネルギー回収を行う軽量でコンパクトなシステムであるため、幅広い車種への安易な搭載が可能とされている。シリーズパラレル式と分類される他社系の採用しているハイブリッドシステムは、加速用電気モーターでの動力補助および、減速時に於ける回生発電装置によるエネルギー回収をする仕組みであり、加速用電気モーターと回生用発電装置を別に必要とする。2009年(平成21年)4月1日、同社が本格的な普及に対する若干の足踏み状態の要因として抱えていた二次電池供給元からの供給可能量などの経営コンセンサス的問題を解決するために、ハイブリッドカー用リチウムイオン電池の製造・開発を専門とする「株式会社ブルーエナジー」を国内老舗電池製造メーカー「ジーエス・ユアサコーポレーション」との共同出資により設立し、二次電池調達体制の再構築を行った。最近では、一般ユーザーが休日にサーキットまで自走して、安全かつ気軽にサーキット走行を楽しめることをコンセプトに開発された「タイプR」というスポーツモデルをシビック(インテグラ、NSXは生産終了)に設定している。また、現行シビックタイプRをベースとした安価なレース専用車を一般向けに販売すると共に、ホンダの車を使用したアマチュア~プロ志望者向けの年間シリーズレース「ホンダ エキサイティングカップ ワンメイクレース」を1981年(昭和56年)から現在まで長きにわたって開催している。また4ドアセダンの分野においては、世界各国でロングセラーとして現在まで販売されているシビックおよびアコード、走行状況に応じて燃焼気筒数を切り換える可変シリンダーシステムを採用するレギュラーガソリン仕様のV6エンジンを持つインスパイアなどがある。ホンダのイメージアイコンとして1990年(平成2年)から2006年(平成18年)の長きにわたり生産・販売され、日本産スポーツカーの最高峰として君臨してきた、オールアルミボディを特徴とするV6エンジン搭載のミッドシップスポーツカー「NSXシリーズ」は、後継車の登場なく現在に至っているが、特別な思い入れを持つ多くのユーザーの「NSXに長く乗り続けたい」という求めに応じて、メーカー製造工場にて経年車へのエンジンや内装、足回りなどの念入りな機能修復サービスを受けられるNSXリフレッシュプランを行っていた。しかし2013年夏、新型NSXの存在が明かされ、2015年の発売を目指して開発が続けられていることが判明した。この新型は北米で生産され、V型6気筒エンジンをリアにマウントし、フロント2輪をインホイールモーターで駆動するハイブリッド形式のスーパーカーとなる予定である。近年、過去に同社から販売されていたS800などのイメージを継承し、ホンダ創立50周年記念車として発売されたS2000は、昨今のホンダでは唯一のFR車である。このS2000は、高出力高回転型に改良された自然吸気のF20C・VTECエンジンを用い“排気量リッター当たり125PS”、2.0Lで250PSの性能を誇っていた。さらにこのS2000は、他のホンダ車と部品を共用していないなど(他メーカーの車両と部品を共用している部分はある)収益があまり見込めない趣味性の高い車に、独自の車台やコンポーネンツを専用設計として開発されている。北海道の鷹栖町に巨大なテストコースを持ち、そこで熟成され鍛えられた車種も数多い。2004年(平成16年)10月7日に発売されたレジェンドは新開発の四輪駆動システムSH-AWDを採用し、出力のメーカー自主規制の緩和にともない、国産の量産車では初めて280PSを超える300PSとなった。レジェンドに搭載されているSH-AWDは、単純な前後の駆動力配分の制御だけでなく、後輪左右駆動輪間において可変駆動配分制御を行う事を目的に、リアデフ内のプロペラシャフト後端部分の動力伝達経路に増速機構と、後輪の左右駆動輪間に駆動力差を生み出すために小型電磁クラッチをデフ側の左右ドライブシャフトのエンドエリアに搭載し、コーナリング時に意図的に外周側の駆動輪に多くの駆動力を伝達する高度な動的制御を行う事により、より自然な感覚での旋回性能の向上および、滑りやすい路面状況下での走行安定性の向上を図っている。なお、タクシー・パトカー専用車両(市販車と異なる仕様で製造された車両)は過去も現在も全く生産していない。また同業のスズキと同じく軽自動車クラス以上のトラックやバスを生産していない(モータースポーツでは、提携しているいすゞ製のトランスポーターが使用されている。また、ツインリンクもてぎの来場者送迎バス及びホンダグループの特定バス事業者ベストロジ栃木保有のバス車両はいすゞ製が大半を占める)。自社製の汎用ガソリンエンジン(汎用エンジン)を利用した耕うん機、芝刈機、運搬車、ポンプなどの農業機械、除雪機、発電機、電動カート「モンパル」、船外機、家庭用ガスコージェネレーションユニット、太陽電池パネルなどを生産している。ホンダの汎用事業は、創業者の本田宗一郎が、オートバイで培ったガソリンエンジン技術で「世の中の人々の重労働を軽減したい」という思いからスタートした。ホンダ初の汎用製品は1959年(昭和34年)に開発・発売した耕うん機「F150」であり、小型ガソリンエンジンを搭載した耕うん機を低価格で提供したことによって、1959年当時、ケロシンエンジンやディーゼルエンジンが主流であった農機業界において大ヒット商品となった。その後、ソニーの創業者井深大の要望を受けて超小型の発電機を開発したり、世界の環境規制に先駆けて4ストローク船外機にチャレンジしたりと、各分野で業界に先駆けた取り組みを続けている。1980年(昭和55年)、誰でも簡単に取り回しができる超小型耕うん機「こまめ」を発売。業界の常識を覆したこまめは後の家庭用ミニ耕うん機市場を創出するきっかけとなり、2003年(平成15年)「サラダ」、2009年(平成21年)ピアンタを中心に、相次いでヒット商品を開発している。特にピアンタは、家庭用カートリッジこんろで使うカセットボンベ1本で簡単・パワフルに働く耕うん機として、年間1万台を上回る大ヒット商品となっている。近年でみると、太陽電池事業にも参画。熊本県にソーラーパネルの量産工場を持っており、日本国内を中心に事業を展開。甲子園球場の屋上にもHondaのソーラーパネルが設置されている。2006年(平成18年)7月25日、創業者 本田宗一郎の夢、小型ジェット機製造(Very Light Jets:VLJ)への本格参入を表明。アイディアとして1997年(平成9年)ホンダエアクラフトの藤野道格社長により示され、2013年の販売を目指している。HondaJetと名づけられた6-7人乗りの機体は、全長 12.5 m、全幅 12.2 m、全高 4.1 m、最大巡航速度 420 kt (778 km/h)、最大有視界航行距離 1,400 nmi (1,611 mile/2,593 km)、最大計器飛行航行距離 1,180 nmi (1,358 mile/2,185 km)、最大運用高度 41,000 ft (12,497 m)、最大離陸重量 4,173 kg、他社の同クラスのジェット機は機体後部などに直接エンジンを取り付けているが、Honda Jetは主翼の上にエンジンを取り付ける手法を選んでいる。この独創的な特長により、後部キャビンスペースがライバル機よりも広くなり利便性が高くなっている。また機体主胴体の素材に常道とされるアルミ軽合金ではなく、F1マシンなどと同じ炭素繊維を使用した強固かつ軽量な複合材を選択することにより大幅な軽量化を図り、独特な主翼の形状と相まって燃費が同サイズのライバル社の機体に比べ30%ほど向上しているのが特徴である。2006年(平成18年)8月、ホンダエアクラフトカンパニーをアメリカ合衆国に設立し、フロリダ州ベロビーチに本社を置くパイパー・エアクラフトと業務提携を行うと表明。2006年(平成18年)10月、販売予約の受付開始後に予想を大幅に上回る100機以上の注文を受ける。2007年(平成19年)3月、ホンダジェットの生産開始に向け、GKN Aerospace社、Avcorp Industries社、 Garmin International社の3社をキーパートナーに迎える。2007年(平成19年)6月、ノースカロライナ州グリーンズボロにあるピードモント・トライアド国際空港隣接地に、ホンダエアクラフトカンパニー本社社屋および開発研究拠点、生産工場の建設を開始。2007年(平成19年)7月、ノースカロライナ州バーリントン(グリーンズボロ郊外)にあるバーリントン・アラマンス地域空港近隣に、GEホンダ社が開発したジェットエンジンの委託製造引き受け会社、ホンダエアロ社の本社および工場を建設すると発表。2007年(平成19年)9月、ホンダジェットの内装デザインを公開し、パイロットトレーニング用プログラムの作成およびフライトシミュレーターの開発を、米国フライトセーフティーインターナショナル社との共同で行うと発表。2007年(平成19年)11月、ホンダ・エアロ社の本社および工場の建設を開始。2008年(平成20年)3月、カナダ、メキシコでの販売およびサービス体制を発表。2008年(平成20年)5月、ヨーロッパ全域での販売およびサービス体制を発表。また1962年(昭和37年)、新聞に掲載した軽飛行機技術者の求人広告に応募したのが、吉野、川本両元社長であったという。このことは福井威夫社長が日経スペシャル カンブリア宮殿で明らかにしている。各四輪製作所では団体向けに、非営利目的の工場見学の受け入れを行っている。2008年(平成20年)秋に「アキュラ」ブランドの国内進出が予定されていたが、2010年(平成22年)以降へと一旦延期、結局、急激な不況のあおりを受け、最終的に国内進出自体が白紙撤回された。2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけて、インスパイア、アコード、シビックなど国内外の計約95万台に対して、エアバッグに関するリコールを行った。内容としてはエアバッグの膨張装置に不具合があり、エアバッグ展開時に膨張装置が破裂して金属片が飛散し、運転者を負傷させるものであった。米国では本件に絡んだ事故が計7件報告されており、うち死亡事故については飛散した金属片が運転者の首に刺さり、致命傷となった。2010年5月、中国広東省仏山市にあるホンダ系列の部品工場にて、大規模なストライキが発生した。直後に他の系列工場にも飛び火し、江蘇省の台湾系機械工場では警官隊と従業員が衝突、50人が負傷する事態に至った。この影響により同国内の4つの組立工場が操業停止に追い込まれ、約2週間に渡るストライキによる損失は生産高ベースで400億円以上に達した。事件の背景として、現地の日本人駐在員との50倍にのぼる給与格差が挙げられる。当該工場の女性従業員の手取り給与が平均1千元であるのに対し、日本人駐在員は5万元であることが指摘された。従業員側は経営側に日本人駐在員の給与を公表するよう迫ったとされる。1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて子会社工場で勤務していた男性が、当時アスベストを吸ったことが原因で中皮腫を患ったとして、後に子会社を吸収したホンダに対して約9,600万円の損害賠償請求を起こした。2010年(平成22年)12月の判決ではアスベストと中皮腫の因果関係が認められ、男性に対して約5,400万円(うち約2,000万円が慰謝料)の支払いが命じられた。自動車業界において、アスベスト被害が認定された初のケースとなった。2010年(平成22年)12月、米国における同社のインターネットサイト利用者のうち、約490万件の個人情報が、外部からの不正アクセスにより流出していたことが判明した。個人情報には名前、メールアドレス、車両番号が含まれる。約490万件のうち、約220万件がアキュラ所有者の車両番号など、残る約270万件がニュース配信を受けている者のメールアドレスとされる。同年5月、約28万人分の顧客情報がカナダで流出したことが判明した。流出した情報は、2009年(平成21年)に登録された顧客の名前と住所、車両番号などとされる。2006年(平成18年)9月20日にフォード・モーター、ゼネラル・モーターズ、ダイムラー・クライスラー、トヨタ自動車、日産自動車と共にカリフォルニア州検事総長のビル・ロッキヤーによってオークランド地方裁判所に地球温暖化の対策を講じてこなかったとして起訴されている。
出典:wikipedia
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