要害山城(ようがいやまじょう)は、山梨県甲府市上積翠寺町(かみせきすいじまち)にあった日本の城。躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)の詰城として築かれた山城である。平成3年(1991年)、国の史跡に指定された。要害城、積翠山城とも呼ばれる。所在する甲府市上積翠寺町は甲府盆地周縁の中央北部、相川扇状地の扇頂部に位置する。標高770メートルの丸山と呼ばれる要害山中腹の傾斜地を中心に築かれている。『高白斎記』に拠れば、築城は武田信虎時代の永正17年(1520年)6月であるという。武田氏は前年に居館を石和の川田館(甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)へ移しており、駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸山が城として取り立てられ、館の詰城として砦や狼煙台が築かれたという。同年には駿河の今川氏勢の武将福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐へ侵攻し甲府へ迫っており、信虎は正室の大井夫人を避難させ福島勢を駆逐しているが、夫人はその最中に城中で嫡男(後の武田晴信)を出産したという。勝頼期の天正4年(1576年)6月1日付武田家朱印状に拠れば、武田氏は要害城より西方に位置する帯那郷(甲府市上帯那町・下帯那町)に対して要害城の普請への召し出しを命じており、帯那郷への河除(堤防普請)と他の諸普請の一切を免除している。『甲陽軍鑑』『甲斐国志』によれば、武田氏時代の城番は駒井次郎左衛門・武藤山城・駒井昌直(右京亮)が務めたという。武田氏滅亡後、徳川氏の支配期を経て豊臣系大名が入城し、加藤光泰により修築が行われた。文禄年間の修築を示す遺構として穴太積みの石垣が見られる。『甲斐国志』によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に甲斐は再び徳川氏が領し、廃城となったという。要害城の支城として熊城がある。熊城は標高730メートル付近に立地し、一直線上の小規模な郭と堀切・竪堀が遺構として残されている。本丸に至る通路や枡形、曲輪、堀切、見張台等の遺構のほか、要所をかためる石垣もよく遺存しており、戦国大名武田氏の築いた城郭として、また、中世豪族の居住形態を示すものとして重要であるとして、1991年3月30日、「要害山(ようがいさん)」の名称で国の史跡に指定された。
出典:wikipedia
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