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松風 (2代神風型駆逐艦)

松風(まつかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。一等駆逐艦「松風」はは神風型(2代目)の4番艦である。当初の艦名は第七駆逐艦。続いて第七号駆逐艦。この名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「松風」に続いて2隻目。太平洋戦争開戦時、旧式化していた神風型4隻(松風、春風、朝風、旗風)は第五水雷戦隊所属の第5駆逐隊を編制しており、フィリピン攻略戦や蘭印作戦に従事。1942年(昭和17年)3月に第五水雷戦隊が解隊されると、第5駆逐隊は南西方面で船団護衛任務に従事した。1943年(昭和18年)2月25日、第5駆逐隊は解隊。横須賀での修理を終えた本艦はソロモン諸島に進出すると、ニュージョージア島の戦いやブーゲンビル島の戦いに伴う強行輸送作戦に従事した。1944年(昭和19年)2月17日、トラック島空襲に遭遇して損傷。修理後、5月1日附で第30駆逐隊に編入。再び船団護衛任務に従事するが、第3606船団船団護衛中の6月9日に米潜水艦ソードフィッシュの魚雷攻撃で沈没した。本艦は舞鶴工作部で建造。舞鶴工作部で建造された神風型は3隻(春風、松風、旗風)である。同工作部は、続いて神風型発展型の睦月型駆逐艦2隻(如月、菊月)建造を担当した。1921年(大正10年)10月12日、神風型駆逐艦7隻(第一駆逐艦《神風》、第三駆逐艦《朝風》、第五駆逐艦《春風》、第七駆逐艦《松風》、第九駆逐艦《旗風》、第十一駆逐艦《追風》、第十三駆逐艦《疾風》)、若竹型駆逐艦10隻(第二駆逐艦《若竹》、第四駆逐艦《呉竹》、第六駆逐艦《早苗》、第八駆逐艦《早蕨》、第十駆逐艦《朝顔》、 第十二駆逐艦《夕顔》、第十四駆逐艦《建造中止》、第十六駆逐艦《芙蓉》、第十八駆逐艦《刈萱》、第二十駆逐艦《建造中止》)および掃海艇4隻に、それぞれ艦名が与えられる。第七駆逐艦(松風)は1922年(大正11年)12月2日に起工。1923年(大正12年)10月30日、進水。1924年(大正13年)4月1日、初代「松風」は除籍。数日後の4月5日、第七駆逐艦(松風)は竣工。竣工直後の4月24日に、第七駆逐艦は第七号駆逐艦に改名。さらに1928年(昭和3年)8月1日附で第七号駆逐艦は「松風」と改名された。ちなみに新造時の全力公試では速力39.2ノットを記録した。1926年(大正15年)10月16日午前0時、佐世保から大阪経由で横須賀にむけ移動中だった第二水雷戦隊(司令官坂本貞二少将)のうち、本艦以下3隻(五十鈴、第7号駆逐艦《松風》、第9号駆逐艦《旗風》)は山口県豊浦郡安岡町沖合で座礁。第7号駆逐艦はスクリューが破損する等の軽微な損傷を蒙る。第7号駆逐艦(駆逐艦長吉田庸光中佐、航海長藤牧美徳大尉)以下関係者は処分を受けた。1936年(昭和11年)5月上旬、「松風」は空母「鳳翔」と共に行動し、廃艦7号(海防艦「見島」)に対する演習観測を実施。5月5日、爆撃による浸水と老朽化により廃艦7号は沈没した。9月6日、「松風」機関部で小火災が発生。1名が死亡、3名が負傷した。1938年(昭和13年)11月15日、第5駆逐隊(朝風、春風、松風、旗風)から神風型2隻(朝風、松風)が除籍され、同2隻(朝風、松風)で第45駆逐隊を新編し、江戸兵太郎大佐(第5駆逐隊司令兼第6駆逐隊司令)は第45駆逐隊司令も兼務することになった。日本海軍は1940年(昭和15年)11月15日附で第45駆逐隊(朝風、松風)を解隊(駆逐隊司令金桝義夫大佐は軽巡「大井」艦長補職)。2隻(朝風、松風)は元の第5駆逐隊に編入され、定数4隻(朝風、春風、旗風、松風)を揃えた。同日附で第五水雷戦隊も編制(五水戦司令官原顕三郎少将)。長良型軽巡洋艦3番艦「名取」、第5駆逐隊、第22駆逐隊(皐月、水無月、文月、長月)は第五水雷戦隊に配属され、訓練に勤しんだ。太平洋戦争緒戦における第5駆逐隊(朝風、春風、松風、旗風)は、第五水雷戦隊(司令官原顕三郎少将)に所属してフィリピン攻略戦に参加。第5駆逐隊僚艦(朝風、春風、旗風)が活躍した1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦における本艦は、第四航空戦隊(司令官角田覚治少将。空母「龍驤」)護衛のため不参加だった。1942年(昭和17年)3月10日、第五水雷戦隊は解隊(五水戦司令官原顕三郎少将は第十六戦隊《名取、長良、鬼怒》司令官に補職)。これに伴い第5駆逐隊は第一南遣艦隊に転属。3月下旬、第5駆逐隊はビルマ攻略作戦に従事。東南アジア方面での輸送任務や船団護衛任務に従事した。5月5日、「旗風」は第5駆逐隊から除籍。横須賀鎮守府警備駆逐艦となる。この編制替により第5駆逐隊は神風型3隻(朝風、春風、松風)となった。1943年(昭和18年)2月25日、第5駆逐隊は解隊。「朝風」は第一海上護衛隊に編入。前年11月16日に触雷して大破していた「春風」も4月15日附で第四予備艦となった。本艦は3月31日、横須賀に帰投。修理後、6月23日に横須賀を出撃。ラバウル方面に進出する。7月9日、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官鮫島具重中将)直率のコロンバンガラ島敵艦艇撃滅および輸送作戦に参加する。主隊(鳥海、川内)、警戒隊(雪風、夕暮、谷風、浜風)、輸送隊(皐月、三日月、松風、夕凪)としてコロンバンガラ島に進出するが米艦隊は出現せず、輸送作戦のみを実施して7月10日朝にブイン(ブーゲンビル島)へ戻った。7月12日、本艦はコロンバガラ島沖海戦に参加する。ラバウル出撃の警戒隊(指揮官伊崎俊二第二水雷戦隊司令官:神通、清波、雪風、浜風、夕暮、三日月)とブイン出撃の輸送隊(皐月、水無月、夕凪、松風)合流後の同日夜、クラ湾で米軍巡洋艦部隊との間で夜間水上戦闘が勃発。輸送には成功したが、同海戦における神通沈没時に第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将と第二水雷戦隊司令部は全滅した。新任の第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐と、トラック泊地からきた第七戦隊(司令官西村祥治少将:熊野、鈴谷)を迎えた外南洋部隊(第八艦隊)は、新たに夜戦部隊を編制。7月19日から20日の作戦行動では、第七戦隊司令官西村祥治少将指揮下の夜戦部隊(主隊《熊野、鈴谷、鳥海》、水雷戦隊《川内、雪風、浜風、清波、夕暮》、輸送隊《三日月、水無月、松風》)としてコロンバンガラ島方面に出動する。だが夜間空襲により駆逐艦2隻(清波、夕暮)を喪失、松風以下3隻(熊野、水無月、松風)が損傷を受けた。8月15日、米軍はベララベラ島に上陸を開始。8月25日、レカタ基地(サンタイサベル島)からの撤収作戦が行われ、陽動隊(川内、漣、松風)、輸送隊(浜風、磯風、時雨)という区分で同日午前2時にブインを出撃。午後5時30分、増援部隊は陽動隊、輸送隊、「松風」の三群に分離し、本艦はブイン―ラバウル間の輸送を行った。輸送隊の作戦も成功した(ラバウル帰投)。この後も駆逐艦3隻(磯風、時雨、松風)で輸送作戦を実施した。ベララベラ島の戦局悪化に伴い、日本海軍はコロンバンガラ島からの撤収作戦(セ号作戦)を発動。襲撃部隊指揮官(第三水雷戦隊司令官:秋雲座乗)は夜襲部隊(秋雲、磯風、夕雲、風雲、時雨、五月雨)、輸送部隊(皐月、水無月、文月)、警戒隊(天霧)、陽動隊(松風)という区分を定める。つづいてベララベラ島からの撤収作戦もおこなわれ、10月6日には夜襲部隊(秋雲、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)、輸送部隊(文月、夕凪、松風)、収容部隊および協力部隊の戦力が集結。転進作戦中に米軍水雷戦隊(駆逐艦3隻)が出現して夜間水上戦闘となり、双方駆逐艦1隻(夕雲、シュバリエ)が沈没した。10月27日、横須賀に帰投。12月9日、横須賀を出撃し、再びラバウル方面に進出した。12月16日、第三水雷戦隊司令官は伊集院松治少将から中川浩少将に交代。12月19日時点における最前線の第三水雷戦隊は、駆逐艦(文月、水無月、皐月、松風、夕凪、卯月、秋風、太刀風)となった。第三水雷戦隊各艦はニューブリテン島での輸送任務に従事した。1944年(昭和19年)1月下旬、第三水雷戦隊の駆逐艦はニューブリテン島やアドミラルティ諸島への輸送作戦を実施する。2月17日、「松風」はトラック島空襲に遭遇して損傷した。三水戦からは2隻(文月、太刀風)が沈没。「松風」はサイパンに回航された。3月1日、「松風」は横須賀に帰投。3月10日附で第三水雷戦隊および麾下の各艦(松風、秋風、夕凪)は中部太平洋方面部隊に編入され、襲撃部隊は解消した。4月28日、本艦は横須賀を出撃。5月1日、第十一航空艦隊所属の峯風型駆逐艦9番艦「秋風」、第八艦隊所属の「松風」は第30駆逐隊に編入され、同駆逐隊は駆逐艦4隻(卯月、夕月、松風、秋風)編制となる。同隊は睦月型駆逐艦・神風型駆逐艦・峯風型駆逐艦の混成部隊となった。6月上旬、「松風」は第3606船団に所属し、同船団の旗艦として行動する。6月6日、東京湾を出撃。6月9日、小笠原諸島父島沖でアメリカ軍の潜水艦ソードフィッシュ ("USS Swordfish, SS-193")の雷撃をうけ沈没した。松風沈没により本艦座乗の第3護衛船団司令官門前鼎海軍少将も戦死してしまった。8月10日、「松風」は神風型駆逐艦、第30駆逐隊、帝国駆逐艦籍のそれぞれより除籍された。

出典:wikipedia

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