岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は、日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。諱は敏(後に寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く。土佐国(現在の高知県安芸市)井ノ口村の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれる。岩崎家は甲斐武田の末裔で、家紋も武田菱に由来する。岩崎氏は安芸氏、長宗我部氏に仕え、関ヶ原の戦いでの功が認められた山内氏入国後は山野に隠れて農耕に従事し、江戸中期に郷士として山内氏に仕えた。天明の大飢饉で一揆が起きるなど混乱し、弥太郎の曽祖父のとき郷士の資格を売り、地下浪人となった。伯母が嫁いだ岡本寧浦について学んだ。安政元(1854 )年、江戸詰めとなった奥宮慥斎の従者として江戸へ行き、昌平坂学問所教授安積艮斎の見山塾に入塾する。筆頭塾生は親戚の岩崎馬之助だった。安政2年(1855年)、父親が酒席での庄屋との喧嘩により投獄された事を知り帰国。奉行所に訴えたが、証人は庄屋の味方をした、「不正を罷り通すがが奉行所かよ」と訴え、壁に墨で「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」と大書したため投獄された。この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業の道に進む機縁となった。出獄後、村を追放されるが、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎らの知遇を得る。東洋が参政となるとこれに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣され、清朝の海外事情を把握するためであった。イギリス人やオランダ人など「異人」と通訳を介して丸山花街で遊蕩し、資金がなくなり、帰国するが無断帰国であったため罷免され、官職を失った。この頃、27歳で弥太郎は借財をして郷士株を買い戻し、長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女喜勢を娶る。吉田東洋が武市半平太らの勤皇党によって暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。しかし、必要な届出に不備があったことを咎められ帰国。武市一派の讒言によるものだった。(尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を放棄し、無断帰国したともいわれる)。この直後、大坂にいた井上や広田章次は岡田以蔵らによって暗殺された。帰国後、弥太郎は農事に精を出した。慶応元(1865)年、官有林払下げ許可が下りた。慶応3年(1867年)、吉田東洋門下の福岡藤次に同行を求められ長崎へ行く。そのころ土佐藩は開成館長崎商会を窓口に、欧米商人から船舶や武器を輸入したり、木材や樟脳(火薬原料)、鰹節など藩物産を販売しており、吉田東洋の甥の後藤象二郎が弥太郎に主任を命じた。貿易商人ウォルシュ兄弟や武器商人グラバーと取引し、維新後グラバーは三菱に雇われた。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の残務整理を担当した。蚊帳の外にいた弥太郎は後藤象二郎に転勤を頼み、明治元年(1868年)、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、明治2年(1869年)10月、土佐藩首脳林有造は海運業私商社として九十九(つくも)商会を立ち上げた。代表は海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之助、弥太郎は事業監督を担当した。土佐藩の少参事に昇格し、大阪藩邸の責任者となり、英語習得を奨励した。私腹を肥やしていると疑われ派遣された内偵の石川七財を勧誘し、商会に入れた。明治4(1871)年の廃藩置県で彌太郎は土佐藩官職位を失ったため、九十九商会の経営者となった。九十九商会は、藩船3隻払下げを受け貨客運航、鴻池や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷(現在の大阪市西区堀江の土佐稲荷神社付近)を買い戻した。当時、外国船は日本の国内航路にまで進出しており、明治政府は「廻漕会社」を設立し幕府所有の蒸気船を与えたが太刀打ち出来ず、また三井、鴻池、小野組などに設立させた日本国郵便蒸汽船会社に、諸藩から取り上げた蒸気船を与え、運航助成金も支給したがはかばかしくなかったのに対して、九十九商会は高知—神戸航路、東京—大阪間の輸送で上潮だった。明治5年、九十九商会は三川(みつかわ)商会となったが、代表は川田小一郎、石川七財、中川亀之助で弥太郎の権限は曖昧不分明である。明治6年(1873年)、三菱商会へ社名変更し、明治7年本店を東京日本橋の南茅場町に移し、三菱蒸汽船会社へ社名変更した。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせ、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。また岡山県の吉岡銅山を入手した(現在の三菱マテリアル)。弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。明治7年、台湾出兵で政府は軍事輸送を英米船会社に依頼したが局外中立を理由に拒否され、日本国郵便蒸汽船会社も軍事輸送の間に三菱に顧客を奪われることを恐れたため躊躇したため、三菱が引き受けた。政府は外国船13隻を購入し運航を三菱に委託した。明治8年、日本国郵便蒸汽船会社は解散に追い込まれた。横浜ー上海間に航路を開いたが、米国のパシフィック・メイル(PM)社(太平洋郵船)との価格競争に陥った。政府は有事の際の徴用を条件に三菱への特別助成を交付し、日本国郵便蒸汽船会社の船舶18隻が無償供与され、政府御用達の意味を込めて「郵便汽船三菱会社」と社名変更した。駅逓頭前島密はPM社営業権買取を主張し、三菱は買取に成功した。その後、英国P&O社が香港・上海・横浜・大阪・東京間に進出、新興三菱に反発する顧客を取り込んだが、三菱と政府は合同で保守したため、日本からは撤退した。彌太郎の依頼で福沢諭吉が推薦した荘田平五郎が入社し、会社規則で三井住友にない社長独裁を謳った。福沢門下生で三菱に入ったものは吉川泰二郎(日本郵船社長)、山本達雄(日銀総裁)、阿部泰蔵(明治生命創業)がいた。明治政府は三菱に命じ、明治8年霊岸島に三菱商船学校が設立(東京商船学校)、明治11年、神田錦町に三菱商業学校が設立された。明治10年(1877年)の西南戦争で、政府の徴用に応じて三菱は社船38隻を軍事輸送に注ぎ、政府軍7万、弾薬、食糧を円滑に輸送した。鎮圧後、三菱は金一封や銀杯が下賜され、戦費総額4156万円のうち三菱の御用船運航収入総額は299万円、当期利益は93万円(東京市年度予算超)となり、莫大な利益をあげた。三菱は、無償供与された船舶30隻の代金として120万円を上納したのち、買い増して所有船61隻となり、日本の汽船総数の73%を占めた。明治11年、弥太郎は、高田藩榊原家江戸屋敷(旧岩崎邸庭園)、深川清澄の屋敷(清澄庭園)、駒込の庭園(六義園)を購入。政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論した。明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。明治14年(1881年)、借金漬けの後藤象二郎支援のため高島炭坑を買い取り、長崎造船所も入手した。明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられた。明治18年(1885年)2月7日18時30分、弥太郎は51歳で病死した。弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となり、後を継いだ弟の弥之助は帝国議会の創立時に天皇から勅選され貴族院議員となった。現在では日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。母の美和は岩崎家の家訓を残した。弥太郎は 「年下や後輩に奢ること」を習慣とし、これを家訓として岩崎家に残した。岩崎弥太郎とその弟・岩崎弥之助(三菱の2代目総帥)から始まる岩崎家は経済界の代表的な名門家系として知られている。三菱の3代目総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男、すなわち弥太郎の甥にあたる。家紋は重ね三階菱。弥太郎には多くの子供がいるが、正妻・喜勢との間に生まれたのは長女・春路(加藤高明夫人)、長男・久弥、次女・磯路(木内重四郎夫人)の3人のみである。次男・豊弥は養子(実父は郷純造)、他の子供は弥太郎と妾(弥太郎の死亡当時6人いた)との間に生まれた子供たちである。なお弥太郎の死後、嫡男・久弥が父・弥太郎の業績に対し男爵を授けられた。岩崎家の2つの本家は華族だが、弥太郎の存命中は岩崎家は華族に列していなかった。なお弥太郎の娘婿4人の中から、加藤高明及び幣原喜重郎の2人が内閣総理大臣となっている。単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。孫には入江相政(侍従長、エッセイスト)の妻・君子、エリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜、経済評論家の木内信胤らがいる。曾孫には東山農事(小岩井農牧の親会社)の社長を務めた岩崎寛弥(岩崎弥太郎家の4代目当主)、寛弥の従姉で元良誠三(工学者、東京大学名誉教授)の妻・由美子、由美子の妹で槙原稔(元三菱商事社長)の妻・喜久子、寛弥や由美子・喜久子姉妹の又従弟で地球科学者の岩崎泰頴(熊本大学名誉教授)、泰頴の妹で鎮西清高(泰頴と同じく地球科学者、京都大学名誉教授)の妻・由利子、泰頴・由利子兄妹の従妹で児童文学作家の勝田紫津子らがいる。建築家の国広ジョージ(国広ジョージ健彦)と維新の党所属の衆議院議員・木内孝胤は弥太郎の玄孫にあたる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。