『失われた時を求めて』(うしなわれたときをもとめて, "À la recherche du temps perdu")は、マルセル・プルーストによる長編小説。1913年から1927年までかかって刊行された。ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』と共に20世紀を代表する小説の一つとされている。本作品は、プルーストが半生をかけて執筆した大作であり、その長さはフランス語原著にして3000ページ以上、日本語訳では400字詰め原稿一万枚にも及ぶ。プルーストは、1908年頃から「サント=ブーヴに反論する」という評論を書き出し、そこから徐々に構想が広がり、『失われた時を求めて』の題を持つ小説になっていった。外部の騒音を遮るため、コルク張りにした部屋に閉じこもって書き続け、1913年に第1編を自費出版、当初3巻の予定がその後さらに長大化していった。1919年、第二篇『花咲く乙女たちのかげに』はゴンクール賞を受賞した。第四篇まで完成したところで、プルーストは死去した(1922年)。第五篇以降も書きあげていたものの未定稿の状態であった。弟らが遺稿を整理して刊行を引継ぎ、第七篇を1927年に刊行して、ようやく完結した。物語は、ある日語り手が口にしたマドレーヌの味をきっかけに、幼少期に家族そろって夏の休暇を過ごしたコンブレーの町全体の記憶が鮮やかに蘇ってくる、という「無意志的記憶」の経験を契機に展開していき、その当時暮らした家が面していたY字路のスワン家の方とゲルマントの方という2つの道のたどり着くところに住んでいる2つの家族たちとの関わりの思い出の中から始まり、自らの生きてきた歴史を記憶の中で織り上げていくものである。第一次世界大戦前後の都市が繁栄したベル・エポックの世相風俗を描くとともに、社交界の人々のスノビズムを徹底的に描いた作品でもある。物語全体はフィクションであるが、作者の自伝的な作品という要素も色濃い。名前のない主人公の「私」は、プルースト自身を思わせる人物で、少年期の回想や社交界の描写などにプルーストの経験が生かされている。また、結末で「時」をテーマにした小説を書く決意をするシーンがあり、作品は円環を描いていると考えられる。同性愛が重要なテーマの一つになっており、これは、プルースト自身同性愛者であることと、秘書を務めた「恋人」が飛行機事故死したことが、主人公の恋人アルベルチーヌの死に置き換えられていると言われている。『失われた時を求めて』の成立の基点は、一般に1908年と考えられている。この年の初頭より、プルーストは、『フィガロ』紙にバルザック、ミシュレ、フローベール、ゴンクール兄弟などのパスティーシュを発表しており、これが直接のきっかけになって評論活動への意欲を抱いた。特にプルーストは、スタンダール、バルザック、フローベールなど同時代の作家を軽視したサント=ブーヴに対する批判を書く計画を立てていた。作家の人となりと作品とを不可分のものと考えていたサント=ブーヴに対して、プルーストは、文学作品を評価するうえで、そうした外面的な自我とより深層にある自我とを区別しなければならないと考えていたのである。そうした評論の計画の一方で、プルーストは、「ロベールと子山羊」「名をめぐる夢想」などの表題のついた、『失われた時を求めて』の原型となる小説の断片を書き始めていた。そして、1909年8月までの段階では、これらの評論と小説は『サント=ブーヴに反論する―ある朝の思い出』と仮に題された一つの作品としてまとめられることが予定されており、前半部では理論の実演として小説が、後半部では理論編として評論が置かれるという構成になっていた。しかし、この作品が当初予定されていた出版社から拒否されると、プルーストは、他の出版社を探しながら作品の改稿を続けていき、次第に全体の構想も変化していった。当初、評論の形をとっていた最後の理論部分は、作品の中に溶け込み、代わりに「無意志的な記憶」の作用が作品の冒頭と最後に置かれて、作品全体の構成を決定することになった。『失われた時を求めて』というタイトルがプルーストの書簡に表れるのは1913年5月半ばのことであり、当初プルーストは二巻ないし三巻で完結すると考えていた。1913年11月に第一巻が『スワン家のほうへ』としてグラッセ社から刊行されたときには、翌年以降に第二巻『ゲルマントのほう』、第三巻『失われた時を求めて』の刊行が予告されており、このとき第二巻はすでに活字を組む作業が開始され、三巻目の草稿も大まかな形で出来上がっていた。しかし、この段階では「マリア」という名前が付けられていた語り手の恋人アルベルチーヌとのエピソードが大幅に加筆されたことにより、それからプルーストの最晩年にいたる8年間の間に作品が2倍以上の分量に膨れ上がることになった。この構成の大幅な変化は、1913年から1914年にかけて起こったアゴスチネリとの間の事件が影響を与えているとしばしば考えられている。プルーストは、1913年に、それ以前に避暑地カブールで出会っていた運転手のアルフレッド・アゴスチネリを住み込みの秘書としてその妻とともに雇い入れた。プルーストと彼との間の詳しい関係は分からないが、プルーストはこの男に非常に執心しており、1913年にアゴスチネリが逃亡し、さらに1914年に彼が飛行訓練中に事故死したことで強いショックを受けた。作中のアルベルチーヌのエピソードは、この現実の事件と平行関係を持っており、作中ではアゴスチネリとの間に交わした書簡をそのままアルベルチーヌと語り手との間のやりとりとして引用することさえしている。このような大幅な改稿を経て、1918年ごろに結末に至るまでのノート20冊分の清書原稿が書き上げられた。しかし、プルーストはこの清書原稿から打たせたタイプ原稿にさらに大幅な加筆と手直しをするのが常で、さらに印刷ゲラにも大規模な修正が加えられるため、この段階ではまだ完成とは言い難い状況であった。晩年のプルーストは、残りの時間に追われるようにしてゲラの修正と加筆の作業を急いだが、1922年に第五篇『囚われの女』の修正作業中に息を引き取った。このため、第五篇の途中から最終巻までは本当の意味では完成していない状態であり、特に最終巻『見出された時』はまとまった作品として見るにはかなり乱雑な様相を呈している。さらに後年になって、プルーストは死の直前に第六篇『逃げ去る女』に大幅な変更を施していたことが明らかになった。これは新たに発見されたタイプ原稿をもとに1987年に刊行されたことから明らかになったもので、この原稿では『逃げ去ったアルベルチーヌ』という新たなタイトルが付けられており、アルベルチーヌの思い出に関する記述など、それまで書かれていた内容が大幅にカットされてしまっている。そのために後に続く最終巻と内容的に繋がらなくなってしまっており、プルーストがどういう考えでこの改稿を行なっていたのか明らかではないが、作品の一部を雑誌に発表するために余分なところをカットしていただけではないかという説もある。第一部 「コンブレー」:「長い間、私は夜早く床に就くのだった」 この長い小説はこのような書き出しから始まる。詳しい状況や語り手についての情報を読者に一切与えないままに、語り手は夜眠れずにベッドの上で過ごしながら、自分がかつて過ごした様々な部屋を回想していく。それから回想は語り手が幼年時代にバカンスで滞在していた田舎町コンブレーでの出来事に移り、そこで母親に寝る前のおやすみのキスをせがんで煩わせた思い出を語る。ついで、それからずっと後のある日、熱い紅茶にプチット・マドレーヌを浸して食べた時に、それとまったく同じ事をかつてコンブレーでしたことを思い出し、それをきっかけにコンブレー全体の思い出が甦ったという体験を記し、語り手はそうして甦ったコンブレーの情景、そこにいた人々、見聞きした物事を語り始める。コンブレーでは、幼い語り手はよく叔母の家に滞在し、そこからよく散歩に出かけていた。散歩のコースの一方は「スワン家のほう」で、散歩の途中でスワンの娘ジルベルトを見かけたことがあった。もう一方は「ゲルマントのほう」で、この城に住むゲルマント公爵夫人に語り手は憧れを抱いている。この第一部は語り手が完全に目を覚ましたところで終了する。第二部 「スワンの恋」:第二部では15年ほど時を遡り、語り手の誕生以前の物語が三人称で綴られていく(語り手が他人から聞いたままに書いているという設定であり、ところどころに語り手が顔を出している)。ここで書かれるのは語り手の一家の友人であるユダヤ人の仲買人スワンが、彼が高級娼婦オデットに恋をし、さまざまな駆け引きのあとで恋が冷めたあと彼女と結婚するまでのエピソードで、ヴェルデュラン邸のサロンを舞台としてパリの社交界の様子もここではじめて記述される。第三部 「土地の名、名」:第三部は第二篇第二部「土地の名、土地」と対を成している。土地の名前についての語り手の想念に始まり、高熱を出したために旅行を禁じられた幼い語り手が、代わりにシャンゼリゼに出かけてそこでジルベルトに出会い、そこから彼女との間の子供らしい恋が始まる様子が描かれる。第一部 「スワン夫人をめぐって」: 前述の「土地の名、名」の最後の部分を受け、まずジルベルトとの間の恋が描かれる。語り手はスワン家に出入りするようになり有頂天になるが、ジルベルトとは気持ちのすれ違いが多くなり恋の情熱は失われていく。一方スワン夫人(オデット)のサロンには出入りを続け、そこでヴァントゥイユのソナタを聞き、やがて語り手は憧れの作家のベルゴットに会い自身の天分に目覚めていく。第二部 「土地の名、土地」: 前篇の「土地の名、名」と対をなす部分。前章から二年たち、ジルベルトとの間の恋の痛手も癒えた語り手は、祖母とその女中フランソワーズとともにノルマンディーの避暑地バルベックにバカンスに出かける。語り手はここで、祖母の旧友でありゲルマントの一族の出であるヴィルパリジ公爵夫人と出会い、その甥であるゲルマント家の貴公子サン=ルー侯爵、ゲルマント公爵の弟シャルリュス男爵とも知り合いになる。また堤防の上でブルジョワの娘たちの一団(「花咲く乙女たち」)を見かけ、後に画家エルスチールの紹介で彼女たちとも親しくなり、この中の一人であるアルベルチーヌ・シモネに恋するようになる。第一部 「ゲルマントのほうI」: 第三篇は語り手の一家がゲルマント家と同じアパルトマンに引っ越すところから始まり、語り手が次第にゲルマント家の世界に入り込んでいく様が描かれている。語り手はオペラ座でその姿を目にしてからゲルマント公爵夫人に夢中になり、彼女に挨拶するために毎日待ち伏せをするようになる。そして、彼女に紹介されることを願いつつ、その甥であるサン=ルーとの交友を深めていき、後には彼とその愛人ラシェルとの関係にも立ち会うことになる。ドレフュス事件の話題もここで初めて登場し、ヴィルパリジ公爵夫人邸でのマチネ(昼の集い)のシーンのあと、語り手の祖母が軽い発作を起こすところでこの部は終わる。第二部 「ゲルマントのほうII」: 第二部はさらに二章に分けられている。第一章では、祖母の病気と死が語られる。これよりずっと長い第二章の始めでは、語り手とアルベルチーヌとの間の関係が再燃し、初めて彼女とキスをする。そして、語り手は念願かなってゲルマント公爵夫人邸の晩餐会に招待され、その後でシャルリュス男爵を訪れ、そこで男爵の奇妙な振る舞いに困惑したりするが、その頃にはすでに公爵夫人に対する熱は冷めていた。その二ヵ月後、語り手は、公爵夫人の従姉であるゲルマント大公夫人のサロンへの招待状を受け取る。第一部 「ソドムとゴモラI」: 第四篇は、悪徳と退廃の町として聖書に登場するソドムとゴモラから名を取られている。第四篇以降、本作の同性愛のモチーフが全面的に展開されていく。第二部よりずっと短い第一部で語り手は、仕立て屋ジャピヤンとシャルリュス男爵がゲルマント家の館の中庭で偶然出会い、求愛の仕草を取り合っている様を目撃してしまい、そこから女としての特徴を持つ男についての想念を展開していく。第二部 「ソドムとゴモラII」: 第二部は、四つの章に分けられている。最初は語り手が招待されたゲルマント大公夫人の夜会の場面に始まり、その夜会の後でアルベルチーヌが語り手のもとを訪ねてくる。その後、語り手は二回目のバルベック滞在に向かうが、ここで不意に祖母の思い出が「心の間歇」として甦りその死を実感させられる。そして、語り手にアルベルチーヌに対する同性愛の疑いが初めて兆して、彼女に対する愛情と嫉妬が語られる。また一方で、バルベックで再会したシャルリュス男爵と、ヴァイオリニストのモレルとの間の同性愛関係が語られていく。語り手は、アルベルチーヌに疎ましさを感じるようになり、一時考えていた彼女との結婚を断念しようと考える。しかし、アルベルチーヌから、彼女と同性愛者であるヴァイントゥイユ嬢の女友達との親しい関係を告げられると嫉妬に駆られ、急遽彼女をパリに連れて行き自宅に住まわせることにする。この巻以降は未定稿であり、いずれも内容に区切りが付けられていない。また第五巻はタイプ原稿では「ソドムとゴモラIIIの第一部」という副題が付けられており、前巻に続いて同性愛を主題とした内容が続いている語り手はアルベルチーヌと暮らし始めたものの、病弱で家からなかなか出られず、監視役としてつけたアンドレとともに出かけていくアルベルチーヌに疑惑と嫉妬を募らせていく。その後語り手はヴェルデュラン家の夜会に赴く。そこではシャルリュスの後ろ盾でモレルを称える音楽会が催されるが、しかし客に無視されて気分を害したヴェルデュラン夫人のためにシャルリュスとモレルは仲違いしてしまう。一方語り手もまたアルベルチーヌに対して募っていく疑念と嫉妬に苦しみ、彼女との間の諍いが起こるようになっていく。そして彼女と別れることを考えるようになるが、そのことを告げようとしていた矢先に、アルベルチーヌは不意に語り手の家から立ち去ってしまう。第六篇は一時「ソドムとゴモラIIIの第二部」という副題が付けられており、前巻と対をなすものになっている。しかし、1989年のプレイヤッド版では『消え去ったアルベルチーヌ』の巻名が採用されており、本文および巻名について一致した見解は成立していない。語り手は、アルベルチーヌが身をよせたトゥーレーヌのボンタン夫人の元へサン=ルーを密使として送り、また夫人の気を引くために、手練手管を用いた内容の手紙を送って、彼女を自分の元に戻らせようとする。しかし、そのうちにボンタン夫人から、アルベルチーヌが乗馬中の事故で死亡したという知らせが届く。「自分をもう一度受け入れて欲しい」という内容のアルベルチーヌからの手紙が届いたのは、その知らせの後だった。語り手は、彼女を失った悲しみに加えて、その死後もなお彼女の同性愛趣味に対する嫉妬に苦しめられる。しかし、その苦しみも時間が経つにつれて、少しずつ和らいでいく。語り手は、母オデットの再婚によってフォルシュヴィル嬢となっていたジルベルトと再会する。その後、語り手は念願だったヴェネツィアに旅行するが、そのときにはもうアルベルチーヌへの思いはほとんど消え去っている。パリへの帰途で、語り手は、ジルベルトとサン=ルーの結婚を知る。語り手は、コンブレーのジルベルト邸に滞在し、ここでジルベルトから、それまではまったく別の方向だと思っていた「スワン家のほう」と「ゲルマントのほう」の二つの道がある点で合流していたことが知らされる。それから、ゴンクール兄弟の日記(これはプルーストによる模作である)を読んで、文学の価値とともに自分の才能に対して疑念を抱く。その後、語り手は数年の療養所生活を送る。それから、語り手は、一時戦時下のパリに戻り、そこで人と社会のさまざまな変化を目にする。コンブレーはドイツ軍に占領されており、ドイツびいきになっていたシャルリュスは、社交界での輝かしい地位を失っていた。語り手は、売春宿で自分を鞭打たせているシャルリュスを見かけ、またサン=ルーもこの宿に出入りしていたらしいことを知る。その後、まもなくサン=ルーは戦線で死を遂げ、語り手は再び療養所生活に戻る。さらに数年経ち、語り手は再びパリに戻ってくる。語り手は、ゲルマント大公夫人(これは大公と再婚したもとのヴェルデュラン夫人である)のマチネに出席し、ゲルマント家の不ぞろいな敷石で躓き、その瞬間ヴェネツィアでまったく同じ体験をしたことを思い出す。これをきっかけにして、かつてマドレーヌによって引き起こされたのと同じように「無意志的記憶」が引き起こされ、語り手に過去の鮮やかな記憶が次々と甦ってくる。この体験によって、語り手は、自分の文学的な天分を発見し、時勢や特定の観念におもねらずに、このように生々しく甦ってきた生の軌跡を描いていくべきだと確信する。そして、語り手は、公妃の開いた仮装パーティの場で、すっかり老いて様変わりした人々の姿を見て「時の破壊作用」を目の当たりにするとともに、「スワン家のほう」と「ゲルマントのほう」の二つの道の合流を象徴するジルベルトの娘サン=ルー嬢に出会い、時がもたらす幸福をも実感する。こうして小説の題材をすっかり捉えた語り手は、自分の死を背後に感じながら、時と記憶を主題とする長大な小説を予告し、物語を終える。『失われた時を求めて』の文体は、複雑な構文と多くの比喩を持った非常に息の長い文章に特徴付けられている。このような長い文章は、ある観念やイメージが喚起する一切のものを記述しようとする作家の姿勢に基づくものである。例えば、文章の中で一つの対象が登場すると、その語に対して何行にも渡って修飾が加えられ、その後ふたたび元の語が引用されてまた修飾が始まり、その後でようやく述語部分が登場して一つの文が完結する、というような形のものがしばしば表れる。これは、草稿やゲラを何度も読み返しながら、そのたびに新たな記述が加えられていった結果でもある。また、このような長い文章は、文章が結論部分に至るのをいつまでも引き延ばしておくことで、読者の期待を宙吊りにしておく冒険小説の技法をも思わせる。ただし、こうした長い文章は、実際には作品全体の三分の一程度を占めるに過ぎず、作品全体を通じて常に用いられているわけではない。また、長文が用いられる場面も語り手の分析的な独白を記述する場面に限られており、状況に合わせて適宜短い文も使われている。実際、文章の平均的な単語数は標準的なフランス語文の二倍程度である。また、使用されている語彙も極端に多いわけではなく、ある統計によればジロドゥーのそれよりも少ないという。プルーストは、その文章表現において、特に隠喩(メタファー)を重視していた。『失われた時を求めて』の最終巻にも、隠喩と印象を巡る一節が一種の文学論の形で記されている箇所がある。そこでは、隠喩によって「二つの感覚のエッセンスを引き出し、時間のもつ偶然性から感覚を解放するようにして、一つのメタファーの中に二つの対象を含ませる」と述べている。また、メタファーの持つ「ある対象が他の比較対象を喚起する」という機能は、『失われた時を求めて』のモチーフである「無意志的記憶」の機能、すなわちある現実の経験がそれと類似した過去の記憶を引き起こすという機能と同じ構造を持っている。そのため、隠喩の使用は、「無意志的記憶」のモチーフのいわば文体レベルでの表現と見なすこともできる。『失われた時を求めて』の物語は、直線的な進み方をしておらず、現実の事柄を述べる傍らでしばしばその印象や記憶を巡って脱線する。また、語り手が時に応じて、一般的な法則を明らかにして、それを比喩とともに例証したり抽象化したりすることで、話の流れがしばしば中断されてしまう。このため、作品の全体像は容易には把握しがたい。しかし、プルーストは、この小説を非常に緻密に構成している。まず作品全体を支える構成として、語り手が不意に経験する記憶の奔流(無意志的記憶)が作品の始めと最後に配されており、作品の冒頭に置かれて作品の原動力となっていく。そして、その記憶の現象が最終巻になって再び現れて、その幸福な感覚の秘密が究明され、物語の結論部にあたる語り手の文学的な使命の自覚へと繋がっていく、という形になっている。物語自体は、場所を機軸にして展開していく。作品の冒頭では、語り手がそれまでに過ごしたことのある様々な部屋が回想されていく。ここで、その後展開する物語の主要な場所がすべて示されている。幼い語り手の散歩道として「スワン家のほう」と「ゲルマント家のほう」という二つの方角が提示されているが、全編の主要人物のうちの多くは、この二方向のうちのどちらかから現れ、前者はブルジョワ社会を、後者は貴族社会を象徴する方角となっていき、最後の巻でこの両家の間に生まれたサン=ルー嬢が登場することによって二つの方向が象徴的に統合される。この他にも、第四巻以降で展開される同性愛の主題をそれとなく予告するなどの様々な伏線や、章同士の照応関係、要所要所におかれた無意志的記憶の現象など、長大な作品に堅牢な構造を与えるための様々な工夫がなされている。『失われた時を求めて』の語り手である〈私〉は、多くの点で作者プルーストとの共通点を持っているが、重要な相違点もある。例えば、プルーストの母はユダヤ人であり、プルーストは幼少の頃から母方の親戚と親しく交流していたのだが、作品では語り手からユダヤ人であることをうかがわせる要素は注意深く排除されており、代わりにスワン、ブロックといった人物がユダヤ人として登場している。また、プルーストは同性愛者であったが、この要素も語り手からは排除されており、同性愛のモチーフは語り手の恋人であるアルベルチーヌや、サロンで知り合うシャルリュス男爵などへ転嫁されている。なお、この長い小説の中で語り手である〈私〉の名前は、一度も出てこない。何度か語り手の名前を出さざるを得なくなるような状況は出てくるものの、プルーストはそのつど名前を告げなくてもいいように注意深く配慮している。プルーストがこのような書き方をしているのは、この作品全体が〈私〉の成立史であり、物語の冒頭では誰ともわからずに登場する〈私〉が、物語が進むにつれて様々な人や事物に触れて認識を深めていくことで、読者のうちに一人の作中人物としての〈私〉の実態が現れていくことを意図しているためである。さらに、特定の名前を持たない〈私〉とすることで、その私が容易に読者自身にすり替わることができるよう配慮したものだと考えることもできるかもしれない。『失われた時を求めて』は記憶をめぐる物語であり、その全体は語り手が回想しつつ書くというふうに記憶に基づく形式で書かれている。プルーストは、意志を働かせて引き出される想起に対して、ふとした瞬間にわれしらず甦る鮮明な記憶を「無意志的記憶」と呼んで区別した。作品の冒頭で、語り手は紅茶に浸したマドレーヌの香りをきっかけに、コンブレーに滞在していた頃にまったく同じ経験をしたことを不意に思い出して、そこから強烈な幸福感とともに、鮮明な記憶と印象が次々に甦ってくる。「無意志的記憶」の要素は、それ以降物語の中にしばしば類似の例がちりばめられている。例えば、『ソドムとゴモラ』の巻で「心の間歇」と題された断章で、語り手は、バルベックのホテルに着いて疲労を感じながらブーツを脱ごうとした瞬間、不意に亡くなったばかりの祖母の顔を思い出して、それまで実感できないままだったその死をまざまざと感じさせられるという経験をする。このような「無意志的記憶」の現象は、最終巻『見出された時』において、マドレーヌのときと同じような経験を再びすることによって、その幸福感の秘密が解明される。それは、同じ感覚を「現在の瞬間に感じるとともに、遠い過去においても感じていた結果」「過去を現在に食い込ませることになり、自分のいるのが過去なのか現在なのか判然としなくなった」 ためであった。この瞬間〈私〉は超時間的な存在となり、将来の不安からも死の不安からも免れることができていたのである。そして、こうした認識とともに、語り手は自分の人生において経験した瞬間瞬間の印象を文学作品のうえに表現する決意を固めていく。このような「無意志的記憶」を文学作品において登場させたのは、プルーストが最初というわけではないが、こうした現象はしばしば「プルースト現象」あるいは「プルースト効果」という言い方で知られるようになっている。上記のように『失われた時を求めて』は、芸術に憧れる<私>が様々な経験を経たあとで文学的使命に目覚めるまでを描いた物語であり、一種のビルドゥングスロマンとして読むこともできる。このため作品中にはルノアール、モロー、ワグナーらをはじめ様々な芸術家、作家の名が引用されているだけでなく、物語に重要な役割を果たす架空の芸術家が幾人か登場する。例えばコンブレーのピアノ教師ヴァントゥイユの作曲したソナタは、作品の第一巻第一部「スワンの恋」でスワンとオデットが近づくきっかけになり、また彼が遺した、ソナタと同じモチーフを持つ未完の七重奏曲はのちにその娘によって完成させられ、サロンでそれを聞いた語り手に深い感銘を与えることになる。バルベックで親しくなる画家のエルスチールの絵画には、語り手は「現実を前にしたとき、自分の知性が与えるいっさいの概念を捨てて」 画家の印象を正確に描こうとする態度を見出し、そこに隠喩表現と類似する現実の変容を見出す。また語り手はかつて愛読した作家だったベルゴットは、展覧会でフェルメールの『デルフト眺望』を見て強い印象を受け「このように書かなくちゃいけなかったんだ」「この小さな黄色い壁のように絵具をいくつも積み上げて、文章そのものを価値あるものにしなければいけなかったんだ」とつぶやきその場で死んでいく。聞き書きの形で語られるこのベルゴットの死の情景は、死の前年に実際にジュ・ド・ポーム美術館のオランダ絵画展で『デルフト眺望』を見たプルースト自身の経験をもとに書かれたと考えられている。パリの社交界は『失われた時を求めて』の主要な舞台の一つであり、作品中ではサロンの描写に非常に多くのページが割かれている。作中ではパリの社交界の中心にあるのはゲルマント公爵夫人のサロンであり、その周りにそれよりも威光があるが閉鎖的で退屈なゲルマント大公夫人のサロン、同じ一族であるが低位にあるヴィルパリジ夫人のサロン、そしてスワンとオデットとの恋の舞台でもあるヴェルデラン夫人のサロンなどが配されている。ゲルマント一族による貴族のサロンではブルジョワの振る舞いが軽蔑され、一方ブルジョワであるヴェルデラン夫人は貴族を軽蔑する様子を見せるが、彼女は最終的にゲルマント大公と再婚して大公夫人の座に居座り、貴族のサロンの頂点に君臨することになる。ゲルマント公爵夫人のサロンははじめ語り手の憧れの対象となるが、社交界に入り込むにつれてその皮相さ、浅薄さに気付いていくとともに、社交界を取り巻くスノビズムを徹底した怜悧な目で描き出していく。作者のプルースト自身、若い頃から著名なサロンに出入りしており、この経験がサロンの描写に生かされているだけでなく、現実の社交界で出合った様々な人物が作中のモデルとして使われている(マルセル・プルースト#社交界も参照)。徹底したスノビズムの描写は、おろかなもの、凡庸なものの中にも普遍性を見出すことができるというプルーストの考えの反映であり、またそのいくらかはプルースト自身の姿でもあった。この作品では三つの大きな恋愛が描かれている。すなわち、オデットに対するスワンの恋、ジルベルトに対する語り手の恋、アルベルチーヌに対する語り手の恋で、最初の一つは結婚によって、二つ目は別離によって、三つ目は相手の死によって終わっているが、いずれも最後には情熱が冷まされ無関心に至るという点は共通している。作品の始めのほうにおかれたスワンの恋は、後に語り手が経験する恋愛の一種の予告編であり、細部に渡って語り手の恋愛との共通点を持つ。『失われた時を求めて』で描かれる恋愛は重苦しく、独占的であり、しばしば嫉妬が重要な役割を演じている。このような恋愛の裏でもう一つの大きなテーマとして同性愛が展開する。『失われた時を求めて』には多数の同性愛者、あるいはその可能性を持つものが登場しており、女性ではヴァントゥイユ嬢、オデット、アルベルチーヌ、アンドレなど、男性ではシャルリュス男爵、その恋愛相手のジュピヤン、モレルのほか、サン=ルー、ゲルマント大公などがいる。女性の同性愛は語り手の恋愛における嫉妬の原因として機能し、また語り手にとって女性を謎めいた存在にしておく口実を引き受けるが、それ以上深く探求されていくことはない。一方、シャルリュス男爵を中心とする男性の同性愛のほうは語り手を引き付け観察・考察の対象とする。この作品の中でプルーストは彼らの同性愛を巡る事件をおぞましく、グロテスクなものとして描いているが、一方迫害の歴史を持つものとしてユダヤ人と比較しその共通点を探ってもいる。この作品ではまた数人のユダヤ人が重要な役割を果たす。特に重要なのは第一巻第一部でその恋が語られるユダヤ人シャルル・スワンである。彼はブルジョワ階級の出で、それもフランス社会で不利な立場におかれていたユダヤ人でありながら、パリの最上流の貴族社会に出入りして華やかな社交生活を送っている。他方語り手の年長の友人であるユダヤ人のブロックは、出世主義的でうぬぼれが強いユダヤ人の戯画としてスワンとは対照的に描かれている。スワンはおそらくプルーストがそうありたいと思うようなユダヤ人像であり、反対にプルーストはブロックの反ユダヤ的な言動を批判的に見ている。しかし物語が進むと、スワンは高級娼婦オデットと結婚してから社交界での立場が悪くなり、さらに妻の社会的地位の向上を気にかける俗物的な面を見せるようになり、反対にブロックは社交界での地位を登りつめて貴族社会に入り込むことに成功する。このほかにサン=ルーの愛人で元娼婦のユダヤ人ラシェルがいるが、物語ではいずれのユダヤ人も社会的な地位の浮沈とセットで描かれていることになる。また作中のサロンの場面では、フランスのユダヤ人大尉の冤罪をめぐるドレフュス事件が主要な話題の一つとして登場する。この事件をめぐって当時フランス社会が真っ二つに分かれた状況を反映し、作品の人物もドレフュス派と反ドレフュス派に分かれて様々な態度を取っている。例えばゲルマント公爵夫妻は反ドレフュス派であり、親ドレフュスの態度を取るサン=ルー侯爵に非難を浴びせる。ゲルマント大公夫妻ははじめ激しい反ユダヤ主義者であったが、裁判が進むにつれドレフュスの無罪を確信せざるを得なくなる。ユダヤ人のスワンは熱心にドレフュスの擁護しするが、しかし一方でフランス軍隊に対する愛着を示し、反軍的なキャンペーンには関わりたくないと考えてピカール中佐(ドレフュスの無罪を立証しようとして逆に収監された人物)の嘆願署名を拒否する。スワンはまたこの事件に対する貴族の反応から、長年貴族たちと付き合ってきたことを後悔するようになる。ドレフュスの無罪を主張していたサン=ルーについては、その後前述のユダヤ人ラシェルを愛人にしていたことがその原因だったとわかり、彼はラシェルと別れた後は自分のかつての言動を否認するようになる。ユダヤ人であったプルーストはドレフュス事件に早くから関心を持ち、親ドレフュス派として署名運動に関わったり、これに関するゾラの名誉毀損裁判を熱心に傍聴したりしていた。しかし『失われた時を求めて』では、プルーストはむしろ社交界における様々な反応を描くことに専念している。1912年、『失われた時を求めて』の第一篇の原稿を完成させたプルーストは、出版先を探しはじめた。プルーストは、自身が無名の作家であること、また作品内に同性愛の記述があることから出版に困難が伴うことを覚悟し、自費出版を申し出ていた。しかし、それでも交渉は難航し、ファスケル社、オランドルフ社に断られた後、新進作家の牙城であった新フランス評論(ガリマール社)に原稿を持っていった。しかし、ここでも断られ、最終的に友人の伝手のあったグラッセ社からの出版が決まった。値段は3フラン50サンチームと非常に安価で、これは当初10フランを提案したグラッセ社に対して、作品をより広く流布させたいというプルーストの意向により付けられた値段であった。1913年11月14日に第一篇『スワン家のほうへ』が刊行されると、プルーストの知り合いの編集者に運動をかけたこともあって、新聞各紙に書評が掲載された。内容は賛否さまざまであったが、中にはこの作品を「マネ風の新鮮で自由闊達なタッチに満ちた巨大な細密画」と表現したジャン・コクトー(『エクセルシオール』紙)や、その文体を「見えざる複雑さのおかげで単純になった」と評したリュシアン・ドーデ(『フィガロ』紙)などの評が含まれる。しかし、最も反響があったのは、先に『失われた時を求めて』の出版拒否を行なっていた『新フランス評論』の内部であった。そこでは、この作品の先進性が見抜けなかったことに対して、メンバー内で深刻な内部批判が起こり、その結果、メンバーの一人であったジッドからプルーストに対して丁寧な謝罪の手紙が書かれた上に、第一巻の版権をグラッセ社から買い取ること、第二篇以降を自社から出版する方針を固めた。グラッセ社への義理立てもあって、プルーストは、この件に当初難色を示したものの、最終的には提案通り、以降の『失われた時を求めて』は新フランス評論から出版されることが決まった。大戦終結後の1918年に第二篇『花咲く乙女たちのかげに』が新フランス評論から刊行されると、プルーストは、ゴンクール賞の選考委員であるレオン・ドーデ(リュシアン・ドーデの兄)の支持が得られることが分かったため、同賞に立候補した。そして、新進作家ロラン・ドルジュレスの『木の十字架』を破って、同年のゴンクール賞を受賞した。この受賞に対しては、若いドルジュレスに上げるべきだったという意見や、プルーストが選考委員と関係があるという非難がジャーナリズムに持ち上がった。しかし、『ル・タン』紙のポール・スーデーやレオン・ドーデ、新フランス評論のジャック・リヴィエールらは、プルースト擁護の筆を取っている。1921年に『ゲルマントのほうII』『ソドムとゴモラ』が出版され、その同性愛の主題がはっきりしてくると、ジッドは、そこで同性愛があまりに陰惨に書かれていることに対して、難色を示した。また、ドーデ兄弟の義弟であったアンドレ・ジェルマンは、怒りを爆発させて『エクリ・ヌーヴォー』誌上でプルーストを「従僕の情婦に成り下がったオールドミス」呼ばわりし、あやうく決闘にまで発展するところであった。その一方で、『ソドムとゴモラII』(1922年4月)、死後の『囚われの女』(1923年11月)は賛辞で迎えられ、プルーストはその評価を確固たるものとしていった。しかし、『消え去ったアルベルチーヌ』(1926年2月)『見出された時』(1927年9月)では、草稿段階であったことも含めて、再び批判が現れてくる。しかし、『見出された時』に関しエドモン・ジャルー(『ヌーヴェル・リテレール』紙)は、作品の円環的な構造を指摘し、「その内在的な美が完全に啓示されるまではまだ多くの年月がかかるだろう」と記している。ここでは執筆の際に参照したもののみを挙げている。マルセル・プルースト#参考文献も参照。
出典:wikipedia
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