三沢 光晴(みさわ みつはる、本名は三澤 光晴、1962年6月18日 - 2009年6月13日)は、日本のプロレスラー。1981年に全日本プロレスにてデビュー。同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。レスラー兼社長として同団体を牽引した。2009年6月13日、試合中リング禍により死去した。。1962年6月18日、北海道夕張市に生まれる。父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ転居した。三沢は子供のころから体が大きく、小学校時代に越谷市が開催した走り幅跳びの大会で優勝するなど、運動神経が良かった。中学校では器械体操部に入部。三沢曰く、器械体操を経験したことがプロレスの飛び技に生きているという。中学2年の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した三沢はプロレスラーを志すようになる。三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にアマチュアレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、足利工業大学附属高等学校に特待生として進学した。レスリング部に入部した三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習に明け暮れる日々を送った。休みは大晦日と正月三が日のみであった。三沢は3年の時に国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、本人にとってアマチュアレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。なお、高校2年の時、三沢は寮を抜け出して全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある。この時はジャンボ鶴田に高校を卒業してから来るよう諭され、断念している。高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入団。同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした。入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。三沢の1年前に入団したターザン後藤によると三沢は受け身を覚えるのが早く、またたく間に後藤と同じレベルに達したという。もともと全日本プロレスではジャイアント馬場以下、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、天龍源一郎、ロッキー羽田、桜田一男などの大型レスラーが重視される傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる。ちなみに、当時の全日本プロレス練習生の月給は5万円であったが、三沢だけは特別に7万円貰っていた。1984年春、三沢は越中詩郎とともにメキシコへ遠征に出た。数か月が経ったある日、三沢は馬場に国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ帰国するよう命じられた。帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。三沢は初代タイガーマスク(佐山聡)のファンから二番煎じ扱いされるのではと抵抗を感じたが、すでに2代目タイガーマスクとしてデビュー戦のスケジュールは組まれていた。同年8月26日、田園コロシアムでのラ・フィエラ戦で2代目タイガーマスクとしてデビュー。当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、1985年8月31日に小林邦昭を破ってNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得したが、同年10月にヘビー級に転向。1986年にはアメリカに遠征し、4月19日にNWAのジム・クロケット・プロモーションズがルイジアナ州ニューオーリンズのスーパードームで開催したタッグチーム・トーナメント " に御大のジャイアント馬場と組んで参戦、シード出場した2回戦でジミー・ガービン&ブラック・バートを破るも、準々決勝でロニー・ガービン&マグナムTAに敗退した。翌20日にはミネソタ州ミネアポリスのメトロドームで開催されたAWAの " に出場、AWA世界ライトヘビー級王者バック・ズモフから勝利を収めた。1988年1月2日には後楽園ホールにて、カート・ヘニングが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。タイガーマスク時代の三沢は、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られた。これでは、三沢が本来目指すプロレスを前面に出せない(渕正信によると、三沢には「もっと寝技をやりたい」という願望があった)ことを意味し、三沢はそのことに苦しんだ。空中技を多用したことで三沢の膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会参戦。全日本プロレス中継のアナウンサーを務めた倉持隆夫は、三沢にはアメリカのプロレス界ではマスクマンは負け役で地位が低いという意識があり、取材の際には本名で呼びかけないとまともな受け答えをしてもらえなかったと回顧している。倉持はタイガーマスク時代の三沢を「劇画のヒーローになったのだから、もっと劇画の世界のように、奇想天外な、自由奔放な発言をして、メディアを煙に巻くぐらいの話をすればいいのに、根が真面目な三沢青年は、最後までマスクマンレスラーになれなかったのだ」と評している。タイガーマスクとなった三沢は自己主張を強く行わなかったため、「口の重い虎戦士」と呼ばれた。なお、全日本プロレスは「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため、三沢がタイガーマスク時代に開発した技の名前には「タイガー・スープレックス84」といった具合に開発年がついている。ちなみに三沢は2代目タイガーマスクとして活動していた最中の1988年5月に結婚したが、その際記者会見で正体を明かし、その上で2代目タイガーマスクとしての活動は続行させるという、覆面レスラーとしては異例の行動に出ている。1990年春、天龍源一郎が全日本プロレスを退団しSWSへ移籍、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。この騒動により、全日本プロレスは天龍対鶴田という当時の黄金カードを失うことになった。騒動の最中の5月14日、三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。三沢は川田利明、小橋健太らとともに超世代軍を結成。1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴だった」ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した。超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなった。とくに超世代軍は高い人気を獲得し、全日本プロレスに大きな収益をもたらした。永源遙曰く、超世代軍の人気は初代タイガーマスクを凌ぐほどであった。三沢はこの時期にエルボーやフェイスロックといった必殺技を習得した。1992年7月にジャンボ鶴田が内臓疾患により長期休養を余儀なくされたことにより超世代軍と鶴田軍の抗争は終わりを告げ、同時に三沢は全日本プロレスの実質的なエースとなった。超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え(正式に解散したのは1998年)、それ以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」と呼ばれた)の一人として全日本プロレスの中心を担った。三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛。1994年3月5日には全日本プロレスの象徴的存在であったジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった。超世代軍が結成された当時、馬場は凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のない、3カウントによってのみ決着するプロレスを理想とするようになり、三沢たち超世代軍のレスラーは馬場の理想を具現化すべく、大技をカウント2.9で返し続ける激しい試合を行うようになった。プロレス四天王の時代になると、三沢たちは次第に考案者である馬場の想像すら凌駕する激しい試合を繰り広げるようになった。三沢が川田と対戦した1997年6月6日の三冠統一ヘビー級王座のタイトルマッチは、馬場が「あまりにもすごい」と涙したほど激しい試合として知られる。三沢自身は小橋健太との戦いを「極限の力を見せることができる」戦いとして認識しており、両者の試合の激しさは三沢自身が死の恐怖を感じることがあったほどであった。このような、大技を連発するプロレスは四天王プロレスと呼ばれた。レフェリーとして三沢の試合を裁いた和田京平によると、試合中の三沢はどんなに攻撃を受けても音をあげず、「大丈夫か?」と問いかけると「大丈夫」と答えて試合を続ける意思表示をしたという。全日本プロレスではジャイアント馬場の妻である馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続いていた。仲田龍(全日本プロレスのリングアナウンサー。後にプロレスリング・ノア統括本部長)によると1996年に三沢は、元子に反発を覚えるレスラーや社員を代表する形で、元子本人に「周囲の人間の声に耳を傾けた方がよい」という内容の忠告をした。それをきっかけに三沢は元子と対立するようになり、1998年には馬場に対し所属レスラーを代表して「元子さんには現場を退いてもらえないでしょうか」と直談判するなど、対立を深めていった。1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した。ただし馬場の死後3か月間もの間紛糾した末の人事であった。三沢は就任時に「いいものは採り入れて、今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語ったものの、全日本プロレスの株式は三沢ではなく馬場元子が保有しており、何をするにも自分に断りを入れるよう要求する元子の前に思うように会社を運営することができなかった。和田京平によると元子は三沢が決めたマッチメイクに対して必ず反対意見を出した。また仲田龍曰く、三沢には馬場の運営方針を100%受け継ぐことが求められ、新たな試みを行うことは一切禁じられた。後に三沢はこうした環境が「オレのやろうとすることが、尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われ、更に全日本らしくないと非難されるなら、俺の方から身を引く」と全日本プロレス退団を決意する原因になったと語っている。さらに三沢によると、経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本プロレスに対する不信感が募ってプロレスそのものに愛想が尽きかねない心境になり、そうなる前に退団した方がいいと思うようになった。2000年5月28日、臨時取締役会において三沢は社長を解任された。これを受けて6月13日、三沢は定例役員会において取締役退任を申し出た。これをもって三沢は全日本プロレスを退団することになった。三沢はすでに退団後に新団体を設立する構想を抱いており、6月16日に記者会見を開いて新団体設立を宣言した。三沢の当初の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し、3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが、三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、全日本プロレスを退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼった。一方、全日本プロレスへの残留を表明した選手は川田利明、渕正信、太陽ケア、馳浩の4人だけであった。予想より多くの選手が新団体への参加を表明したため三沢は資金繰りに苦しみ、自身の保険を解約し、さらに自宅を担保に金を借り入れて選手たちの給料にあてた。三沢はこの事実を公にすることを嫌っていたが、死後、徳光和夫によってテレビ番組で公表された。7月4日、新団体の名称は「プロレスリング・ノア」(由来は『創世記』に登場するノアの方舟)に決まったことが発表され、8月5日にディファ有明で旗揚げ戦が行われた。ディファ有明は三沢と行動をともにした仲田龍と関係の深い施設で、プロレスリング・ノアの事務所と道場もここに置かれた。なお、三沢にはノア旗揚げ後の時期に全日本プロレスの興行に出場する契約があった。三沢は興行主への配慮から7月に全日本プロレスの興行に4日間出場している。13日に愛媛国際貿易センターで行われた試合では観客から「裏切り者」と罵声を浴びせられた。これに対し三沢は「ファンは大切だけど、その人の思い込みに何でオレが従わなければいけないんだ。オレの人生をその人が保証してくれるのか。」と怒りを露わにした。仲田龍曰く、ノア旗揚げ後の三沢の体調は常に悪く、思うように練習ができない日々が続いた。しかし三沢はノアの社長として試合に出続け、GHCヘビー級王座を3度(初代、5代、11代)、また小川良成とのコンビでGHCタッグ王座を2度(2代、8代)獲得。2007年には同王座チャンピオンとして防衛を続け、それまで縁のなかったプロレス大賞MVPに当時史上最年長(45歳)で選出された。また2009年5月6日には潮崎豪とのコンビで第2回「グローバル・タッグ・リーグ戦」の優勝を果たした。晩年の三沢は頸椎に骨棘ができて下を向くことが困難になり、右目に原因不明の視力障害が起こるなど体力面の不安が深刻化。さらに肩、腰、膝にも慢性的な痛みを抱えていた。頚部は歯を磨いたり、ガウンの襟の部分が当たったり、寝返りを打つだけで痛みが走る状態にあった。休養をとるよう勧める声もあったが、それに対し三沢は次のように反論し、ノア旗揚げ後のすべての興行に出場した。2009年6月9日、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」と語っている。それから4日後の6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場(【王者チーム】バイソン・スミス&齋藤彰俊 vs 【挑戦者チーム】三沢&潮崎豪)。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。。三沢が意識を失う前にレフェリーの西永秀一が「動けるか?」と問い掛けた際に、「だめだ、動けねぇ」と応じたのが最後の言葉となった。翌6月14日、広島県警察広島中央警察署は、三沢の遺体を検視した結果、死因をバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断(けいずいりだん)であると発表した。週刊ゴング元編集長の小佐野景浩や日本の複数のプロレス団体でリングドクターを務める林督元は、三沢が受けたバックドロップ自体は危険なものではなく受け身もとれており、三沢の死は事故であったという見解を示している。一方でプロレス関係者やファンの中には三沢の死は過激な試合を繰り返したことで蓄積したダメージによって引き起こされたものであり、「頭から落とす四天王プロレスの帰着点」であると捉える者もいた。また、前田日明は「不運な事故ではない」と明言し、「三沢が落ちた瞬間に、全身がバッと青ざめた」という証言を伝えている。6月19日に東京・中野区の宝仙寺にて密葬が行われ、200人が参列した。法名は「慈晴院雄道日光」。遺影には「リングの上の栄光の瞬間や社長としてのスーツ姿ではなく、2000年に1度だけ参戦した耐久レースにおいてレーシングスーツを着て笑っている写真」が家族の意向で選出となった。日刊スポーツは「トップレスラーとしてプロレス団体社長として家族として責任を背負い続けてきたので、最後くらいは解放させてあげたい」という家族の配慮があったと報道した。7月4日ディファ有明にて献花式「三沢光晴お別れ会 〜DEPARTURE〜」が開催され、プロレス関係者やファンなど約26,000人が参列した。かつて全日本プロレスのファンであったルポライターの泉直樹は、この現象について以下のように述べている。三沢の後任の社長には田上明が就任し、2009年秋には三沢光晴追悼興行として「GREAT VOYAGE '09 in TOKYO」が9月27日に、「GREAT VOYAGE '09 in OSAKA」が10月3日に行われた。三沢の死の翌日(6月14日)には、大阪プロレスでもレフェリーのテッド・タナベが試合終了直後に急性心筋梗塞を発症し、翌日死亡している。プロレス界で立て続けに発生した2件の問題を受け、6月18日に行われた自民党文部科学部会・文教制度調査会の合同会議において、再発防止策や選手の健康管理について意見交換が行われ、プロレス関係者からNOAH・仲田龍取締役、新日本・菅林直樹社長、全日本・武藤敬司社長が、自民党からは同部会長の衆議院議員・馳浩が出席した。仲田は、会議終了後「レフェリーや対戦相手は、戦いながら相手の状況を観察してもらう技術を身に付けてほしい」と再発防止を強調した。(同年7月極秘帰国し、2代目タイガーマスクに変身)(5月14日、試合中に自らマスクを取って投げ捨て、素顔の三沢光晴に戻る。)三沢は「受け身の天才」と評される。三沢自身、「相手の得意技をわざと受けて身体的な強さをアピールする」ことがプロレスの最高の技術であり、それは「受け身への確固たる自信があるからこそ体現できる」ことだと述べている。三沢は相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すことが他の格闘技にはないプロレスの特徴であるとしている。一方で三沢は受け身をとりきれない技が多くなっているとも述べている。受け身の取りにくい技としてフルネルソン・スープレックス、ハーフネルソン・スープレックス、タイガー・スープレックス、バーニング・ハンマー、エクスプロイダーなどを挙げている。三沢は近年のプロレスについて、「1試合のうちに脳天から落とされる類の大技を何度も受け、それが毎日のように続く」ことからダメージがどんどん蓄積されると述べ、自身の首にもダメージが蓄積していることを認めていた。「受け身の天才」がリング禍で死んだことは、周囲に大きな衝撃を与えるものであった。受け身の巧拙は、投げられた際にどのようにマットに着地するかを見ればわかるとしている。受け身の下手なレスラーは腰からマットに落ち、次いで後頭部を打ち付ける。そのため、マットにぶつかる音が2回聞こえる。受け身をとりきれない投げ技に対しては、投げられる瞬間に自ら飛んで衝撃を和らげることがダメージを和らげるコツとしている。三沢曰く、オーバーアクション気味に技を受けるレスラーは受け身が上手い(ハーリー・レイス、リック・フレアー)。自ら飛ぶという方法は投げ技だけでなく、ドロップキックやラリアットなどの打撃技にも有効としている。渕正信は、三沢の受け身の優れた点は、通常レスラーは背中でとるのに対し、首筋の下でとる点にあると評している。レスラーに求められる資質として、前述したように相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すための心身の強さを挙げている。また、自分の体型に惚れこむナルシスト的な要素があったほうがトレーニングに打ち込みやすいと述べている。一流のプロレスラーは「自然と滲み出てくる個性の表れ」がそのままパフォーマンスになることが多いと考え、マイクパフォーマンスをしたり無理に怖い表情を作るといった意図的なパフォーマンスを好まなかった。三沢が初めてリング上で自らマイクを握ったのは、1995年10月に小橋と対戦した後のことである。徳光正行によると、三沢は試合中に倒れた相手を引き起こす際、髪の毛をつかむ行為を「下品だ」と嫌っていたという。三沢は自身の技について、ヘビー転向後は自分よりも体が大きく体重の重い相手と戦うことが多くなったため、力ではなく技のキレ、落とす角度を重視するようになったと述べている。他のレスラーが使用する技のうち印象に残るものとしては、ジャンボ鶴田のバックドロップ、スタン・ハンセン、小橋建太のラリアットを挙げている。三沢は「やっている方が楽しくないといけない」という考えから従来プロレス界にあった「若手は派手な技を使ってはいけない」という暗黙のルールを排し、若手であっても大技を使い、先輩レスラーの持ち技を使うことも許した。三沢自身も小川良成にタイガー・ドライバーを使うことを許可し、技の繰り出し方が上手いと評価している。緑は三沢を象徴する色として知られる。三沢はタイガーマスクから素顔に戻った後、緑のロングタイツを着用した。これは三沢が好きだった正統派外国人レスラーのホースト・ホフマンに倣ったといわれることが多いが、佐々木賢之によると実際には知人の助言がきっかけで着用するようになった。緑のロングタイツが定着する前に数回ではあるが赤や青のロングタイツを着用したこともある。2000年にプロレスリング・ノアを設立すると、他の団体にはない色という理由から緑色のマットを使用した。三沢はしばしば男気があると評される。そのような性格を物語るエピソードの一つに、冬木弘道(サムソン冬木)の引退興行が挙げられる。若手時代、三沢は冬木と仲が良かった。1990年に冬木がSWSへ移籍したことで両者の交流は途絶えたが三沢の全日本プロレス退団・ノア旗揚げをきっかけに再び接点が生まれ、2002年4月7日にシングルマッチで対戦した。翌8日、冬木は医師から大腸癌であると宣告され、18日に手術を行いプロレスラーを引退することを決意した。当初冬木は9日を引退試合にするつもりであったが、この事実を知った三沢はノアの主催で引退興行を行い、5月5日に予定されていた新団体・WEWの旗揚げ興行にも協力。三沢はその収益の全てを冬木に贈ったとされ、冬木は「俺の人生で、三沢光晴に出会えたことが最高の出来事だった」と述べたという。仲田龍は、三沢を損得勘定で動かない人間と評している。ノアの経営者として三沢は、休養中の給料保障、年間の最低保障を定め、所属レスラーを金銭面でバックアップすることに留意した。全日本プロレスの社長時代には、会社の財政状態が厳しいにもかかわらず所属レスラーがかける保険の保険料を全額負担する決断を下している。全日本プロレス時代にジャンボ鶴田の付き人を務めたことがあったが、鶴田は干渉をあまりしない性格で、その影響から三沢自身も付き人に対し雑用を多く言いつけたり小言を言うことがなかったという。徳光によると新人時代に先輩から理不尽な仕打ちを受けた経験から、「自分は下の人間に、おなじようなことは絶対にしない」と心に誓ったのだという。覆面をつけ視野が狭い状況で試合を続けた影響から、ロープに振られると下を向いて走る癖があった。三沢には額の汗を指を使ってぬぐう癖があった。この動きは「汗ワイパー」と呼ばれ、モノマネ芸人のイジリー岡田が三沢のモノマネとして取り入れている。三沢によると父親は酒乱で家庭内暴力がひどく、母親を包丁で刺したこともあった。幼少期の三沢はいつも「はやく大きくなって親父をぶん殴ってやろう」と考えていたという。三沢が小学校1年の時に両親は離婚し、父親とは音信不通になった。三沢はプロレスリング・ノアを旗揚げした時期に父親に対し、「今さら俺たち家族の前に顔を現すのだけはやめてくれ」と心情を吐露している。ヒーローものが好きで、徳光正行によると三沢の部屋はヒーローもののグッズで溢れていたという。葬儀の際には三沢が好きだったヒーローものの曲が多くかかった。漫画も好きで、「少年誌から青年誌まで、ほとんど全てを自分で買っていた」という。プロレスを描いた漫画の中では『1・2の三四郎』について、「プロレスの練習風景を、ここまでリアルに描いた作品は他にないね」と高く評価していたという。その他、学園もののテレビドラマや、ジャッキー・チェンやトム・ハンクス主演の映画を好んだ。動物好きで、ネコ、イヌ、鳥、カメ、ウサギなどを飼っていた。酒場が大好きで晩年夜中まで飲んでいたせいか、脂肪がつきすぎそれが死亡を早める原因となった。札幌に行った時は、必ずススキノに遊びに行くのを楽しみにしていた。スキューバダイビングを好み、年に1度は必ずハワイに行ってダイビングを行っていた。錦糸町や晴海のゲームセンターで、クイズマジックアカデミーをプレイしている姿をたびたび目撃されていた。本人によると使用キャラ及びお気に入りキャラはユリで、その理由は「胸がDカップ程度で臍がエロいから」。下ネタが大好きで、親しい人間にはよくそういった、ちょっと下品な冗談を言って笑わせていたという。ノアの興行で募金活動を行うなど、日本移植支援協会の活動を10年近くに渡り支援していた。三沢が臓器移植に大きな関心を持つようになったのは、ジャンボ鶴田が肝臓移植手術中に死去したことがきっかけであった。三沢の死の直後の2009年6月18日、衆議院において臓器移植法の改正A案が可決されたが、この日は三沢自身の47歳の誕生日でもあった。なお、三沢自身は臓器提供は生体・死後いずれも行っておらず、献体などもしていない。。
出典:wikipedia
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