LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

ダイコーター

ダイコーターとは日本の競走馬・種牡馬。1965年に行われた第26回菊花賞の優勝馬である。全兄のユキロウは、スプリングステークス、全日本3歳優駿などに優勝。近親には、鳴尾記念を制し菊花賞や宝塚記念で2着に入ったハシクランツがいる。※馬齢は当時の表記(数え年)とする。1962年6月、浦河町の鎌田牧場にて、ダイアンケーの5番仔として誕生。母のダイアンケーは、1952年にアメリカから競走馬として輸入された。現役時代は中央競馬で8勝を挙げ、小倉競馬場の1000メートルの競走でレコード勝ちしたこともあるという短距離馬だった。そのせいか、ほかのヒンドスタン産駒の活躍馬の血統と比べてかなり異質である。牧場時代のダイコーターは、落ち着いた反面、非常に悍性のよい馬だったという。1964年10月、京都競馬場の新馬戦で栗田勝を背にデビューし、2着馬に大差をつけて勝利した。続くオープン戦こそのちにライバルとなるキーストンの3着に敗れたものの、3戦2勝の成績で3歳シーズンを終え、その落ち着いたレースぶりからクラシックの有力候補として高い評価を受けていた。明け4歳となると、中京競馬場のオープン戦、きさらぎ賞と連勝して東上し、スプリングステークスに出走した。6戦無敗のキーストンに1番人気を譲ったが、レースでは逃げる同馬を1馬身4分の3差交わして優勝した。この勝利が評価され、皐月賞では1番人気に推されたが、伏兵のチトセオーからクビ差の2着に終わった。続くNHK杯ではハツライオー以下に勝利し、本番の東京優駿(日本ダービー)に向かうこととなった。このあと、シンザンの馬主としても知られる橋元幸吉から、九州の炭鉱主・上田清次郎に馬主が変更となった。本命に推されながら4着に敗れたダイナナホウシユウ以来、上田の東京優駿制覇にかける執念は凄まじいものがあった。それは、東京優駿の当時の1着賞金が1000万円であるにもかかわらず、推定2500万円とも言われる破格のトレードマネーを支払ったことからもうかがえる。東京優駿の最有力馬が売却され馬主が直前に変わることは異例であり、賛否両論を含めて大きな話題を集めることとなった。東京優駿は、皐月賞馬チトセオーはNHK杯最下位の原因となった鼻出血の問題から不出走となり、スピード血統であるソロナウェーの仔・キーストンに比しても距離延長は歓迎材料と見られ、1番人気に推された。しかしレースでは、不良馬場ということもあって、逃げるキーストンを捉えきれず、1馬身4分の3差の2着に終わった。これ以降、ダイコーターは「ダービーは金では買えない」という例の典型として語られるようになる。夏を休養に充てたダイコーターは、9月のオープン戦から始動した。これを危なげなく勝利すると、続く神戸杯、オープン戦と連勝して菊花賞に出走した。ふたたび1番人気に推されたダイコーターは、逃げるキーストンを終始マークし、最後の直線では2頭の激しい追い比べの末にキーストンを4分の3馬身突き放して優勝した。鞍上の栗田勝は、騎手として初めて菊花賞2連覇を達成した。三冠馬シンザン打倒の最有力候補として有馬記念出走も期待されたが、阪神大賞典に出走。しかしチトセオーに惨敗した。このあとは、天皇賞(春)をステップにアメリカ遠征も計画されるなど高い期待を受けていたダイコーターだったが、喘鳴症を患ったこともあって天皇賞(春)9着など凡走と敗戦を重ねることとなった。古馬となってからは小倉競馬場でオープン戦を2勝するにとどまり、重賞も勝てなくなると、7歳となった1968年からは障害競走を使われるようになった。牡馬のクラシック優勝馬が障害入りするのは例のないことであるため、関係者に対し非難の声も上がったが、結局障害でも1勝をしただけと活躍できないまま引退した。引退後は、上田が創業した上田牧場にて種牡馬として供用されたが、引退するまでの不振もあって期待されてはいなかった。しかし、自家生産のホウシュウリッチやホウシュウミサイルなどが好成績を挙げると、今度は鵡川町の西山牧場にトレードされ、ニシノライデンをはじめとして重賞勝ち馬を多数輩出するなど、当時の内国産種牡馬としては成功といえる種牡馬成績を収めた。1986年には種牡馬から引退し、西山牧場で余生を送っていたが、翌1987年1月に老衰のため死亡した。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。