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手本引

手本引き(てほんびき)は、日本の賭博ゲーム。親は1から6までを図案化した6枚の札の中から自らの意志で1枚を選び出し、子は1点から4点張りのいずれかの賭け方で親が選んだ札を推理して勝負に挑む。1点張りは当たる確率が低くなるだけに配当が高く、4点張りは確率が高くなるだけに配当が低くなっている。人数制限は特になく、15人程度の多人数が同時に参加することができ、ひと勝負は2分前後の短時間で決着する。任意のタイミングで参加退出が可能なことから、不特定多数が出入りする賭場の都合に適っていた。「ホンビキ」「失地(しっち)」「釣り」とも呼ばれる。1人の親に対して複数の子が賭けを行うところは追丁株(おいちょかぶ)と似ているが、偶然性よりも過去の推移や相手の性格や癖(キズ)を読むといった心理戦の攻防に主眼が置かれる。その興奮や恍惚感から、手本引きを知ると他のギャンブルがつまらなくなると言う人も多く、丁半やアトサキ(バッタ撒き/ジャンガー)などの賭博よりも格上とされ、日本における「究極のギャンブル」「博奕の華」「賭博の終着駅」と賛されている。親と子は3尺ほどの間隔を開け、「盆茣蓙/盆布(ぼんござ)」と呼ばれる木綿の白布を挟んで、平行に向かい合わせに座る。親側は胴を中心に、その左右隣りには「合力」と呼ばれる補助の役目の人間が座る。数字の呼び方は、一(ぴん)、二(に)、三(さん)、四(し)、五(ご)、六(ろく)で、一のことを「いち」、四を「よん」とは呼ばない。現在、田村将軍堂が張札と繰札と目安駒(目木)を、任天堂が張札のみを販売している。双天至尊堂が繰札・張札・補助札をひとつのパッケージにまとめた「手本引きセット」を廉価版として製造販売している。このセットにはボード上に札を載せることで配当倍率が一目瞭然となる配当盤が付属する。一時期は、板東笑和堂、小原商店本店、日本骨牌製造、東洋骨牌(現・大日本トランプ)、大石天狗堂、松井天狗堂が製造していた。「極宝道七具足」と題して、目木、通り札、半丁札、五札、ツボザル、ツボ畳がセットになったものも販売されていた。数字はオッズではなく配当で、賭け金に対して胴から支払われる倍率を示している。例えば、スイチで20万円を張って受かれば、賭け金の20万は戻され、配当金として胴前から90万円が支払われる。呼称や配当倍率も盆によって様々で微妙に異なり、寺銭の割合や「特別」と呼ばれる合力への礼金を計算に含めるか否かなどは、開帳者(主催者)である寺師(貸元もしくは代貸のことでもある)の取り決めによる。配当の高い順に、大(だい)/頭(あたま)、中(なか/ちゅう)/軸(じく)/腰(こし)、止(とまり)/穴(けつ)、角(つの)/別(わかれ)と呼ばれる。これは競馬や競輪などで券を購入する際の「本命」「対抗」「押さえ」「保険」といった感覚に近い。張札を縦か横にするかの向き、前後の位置、さらに賭け金の配置場所によっても配当倍率が変化するので注意が必要である。「種(たね)」は配当が付かずに賭け金がそのまま戻され、「種返し/玉返し/戻り」とも呼ばれる。4点張りの角で当たっても、賭け金の2割(もしくは1割)が差し引かれることになる。配当率1倍で当たることを「玉受け」と呼んだりする。配当の合計値は、1点張は4.6倍、2点張は3.6倍、3点張は2.8倍、4点張は1.8倍になるのが基本。オッズに換算して合計すると、1点張と2点張は5.6倍、3点張と4点張は5.8倍となり、張り目の多いタイプの方が少し張子に有利なことが判る。ギャンブルとしての期待値は96.777%、控除率は3.333%である。これは1万円賭けるごとに負ける平均値が333円であることを意味する。自信のある札の下に賭け金を置いてスイチを重ねたり、安張りとヤマポンを組み合わせる「大和(やまと)」、張札を2面、3面使う「2個入り」「3個入り」、5枚張る「受け受け/三三受け」「総大受け」、逆目を当たりとする「裏張/裏面張/総裏」、角を切った廻札を使って合計値を当てたり、来ない目を推理する「ケーモン/ケイモン」など、特殊な張り方が多数存在するので、事前に合力への確認が必要である。配当金額に端数が生じる場合、「駒札(こまふだ)/半券(ぱん)」と呼ばれるセルロイド製の札や碁石が使用される。例えば、碁石1つを2500円として代用したりする。これ以外に生じた端数は切り捨てられるため、賭け金によっては張子が若干の得をすることもあれば、損することも起こり得る。この切り捨てのことを「出入り」と呼んでいる。手本引きの起源は意外と新しく、明治時代に入ってから、京都府愛宕郡吉田村140(現・京都市左京区吉田本町)に一家を構える初代・会津の小鉄こと上坂仙吉をはじめ、長谷川伊三郎(いろは幸太郎)や柿木松之助ら侠客たちによって、江戸時代から遊ばれていた賽子賭博「樗蒲一(ちょぼいち)」や独楽賭博「お花こま」を進化発展させる型で考案された。当時勢力下にあった京都、大阪、神戸、奈良、大津、和歌山の常盆(常設賭場)を中心に、西日本の都市や温泉街へと伝播していった。常盆からの上納金は、1日平均550円(現在の価値で300万円以上)であったという。明治13年(1880年)7月17日、日本で最初の西洋流の近代刑法が太政官布告第36号刑法(4編430条)として公布され、明治15年(1882年)1月1日から施行された。明治16年(1883年)4月16日、上坂仙吉は明治政府による博徒狩りで捕えられ、重禁固10ヵ月・罰金百円の判決を受け服役した。翌年の明治17年(1884年)2月11日には満期保釈になるも、入獄中に身体を壊したことが原因で、明治18年(1885年)3月19日に歿している。享年51。明治17年(1884年)1月4日、刑法の賭博罪の規定を停止して、新たに賭博犯処分規則が制定された。これにより賭場の捜索は昼夜問わず現行犯でなくとも取締ることが可能になり、博徒たちからは「大刈込」と恐れられた。同年の2月25日には清水次郎長こと山本長五郎が静岡江尻警察署に逮捕され、3月7日には懲役7年・罰金4百円が言い渡され、翌年の明治18年(1885年)11月には過料納入につき釈放された。賭博犯処分規則は、弁護人なしの処分や上告を認めないなど、大日本帝国憲法との整合性に問題があったことから、明治22年(1889年)6月10日には廃止されている。明治26年(1893年)6月12日、山本長五郎は病没。享年74。明治18年(1885年)、西洋かるた(トランプ)の販売が公認されたことを受け、翌年の明治19年(1886年)には花札やめくりかるたの製造販売が解禁となる。明治22年(1889年)9月23日、木版工芸職人だった山内房次郎は、京都市下京区正面通り大橋西入るに山内房次郎商店(後の任天堂骨牌)を創業すると花札の製造販売を開始。関西にある盆に売り込んだことで注文が入るようになった。さらに、近代煙草産業の始祖・村井吉兵衛と交渉して、煙草流通網を利用することに成功すると、大統領印はトップブランドの地位を確立、全国的に広く使用されるようになる。明治35年(1902年)、明治政府は北清事変以後の財政難を理由に骨牌(こっぱい)税法(明治35年法律第44号)を制定。この年に山内房次郎商店は日本初の国産トランプを製造している。明治35年(1902年)6月、10代後半から盆に出入りしてきた鳶梅吉は、初代・会津の小鉄の若頭・長谷川伊三郎に師事した後、実兄である鳶卯之助(坂卯)の協力を得て、29歳で酒梅組を結成すると、大阪市浪速区元町5丁目にあった自宅まで常盆にしている。その勢力は直系乾分140名、配下は総勢2000人ともいわれ、盆は大いに繁盛した。昭和8年(1933年)6月11日に鳶梅吉は病没。享年59。大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災の頃になると、手本引きは東日本にまで波及しており、昭和5年(1930年)頃には全国的な流行を見せる。第二次世界大戦に突入すると客足が遠のき下火になった。戦時中の盆は厳重な灯火管制と夜間爆撃を警戒して昼間に開帳されることが多かった。終戦を迎えると、警察の要請に応じて治安維持に協力した組織はお目溢しで盆が開けるようになり、復員兵や失業労働者が賭客として集まり、再び活況を呈すようになる。昭和20年(1945年)8月15日、二代目山口組の若衆だった田岡一雄は、昼前から神戸市の盆で手本引きをしていて、そこで敗戦を告げる玉音放送を聴いている。田岡一雄は、戦後の混乱で警察力が弱体化して治安の悪くなった神戸の街と闇市を第三国人から守るための自警団を組織して頭角を現わすと、山口登の死後しばらく空位であった組長へ田岡を推す声が高まり、昭和21年(1946年)10月13日、神戸市新開地の「ハナヤ食堂」で三代目山口組組長を襲名した。田岡一雄の舎弟だった小西豊勝は、太平洋戦争終結直後から、関西汽船の別府航路で船内賭博を開帳して資金を得ていたが、警察の取締りで船内賭博ができなくなり、別府市海門寺町に移って、小西組(現・小西一家)を興して街頭賭博を行うようになる。このことは、別府市議会議員・井田栄作を首領とする二代目井田組との対立を生み、昭和24年(1949年)11月3日、小西組の石井一郎ら刺客4人が、別府市松原町にあった「松濤旅館」前で井田栄作を襲撃して瀕死の重傷を負わせる事件を引き起こした。昭和25年(1950年)10月21日、法務府特審局は団体等規制令を適用することで小西組に解散を命じ、小西組は別府市から神戸市への撤退を余儀なくされる。昭和40年(1965年)5月、小西豊勝は賭博のもつれから本多会(後の大日本平和会)組員に刺殺され、実弟の小西音松が組織を継承した。昭和20年(1945年)10月、大正時代から続く博徒系の三坂組若衆だった松田雪重は、大阪市西成区に松田組を興した。盆で負けた賭客に帰りの電車賃や飯代をそっと渡す心遣いが評判となり、西成区内に新たな盆を次々と開設して勢力を拡大。本家・事務所2階にあった盆は40畳の広さを誇り、全国の親分衆が出入りする総長賭博がしばしば開帳された。昭和44年(1969年)12月に松田雪重が60歳で病没すると、跡目は甥の樫忠義に引き継がれる。昭和24年(1949年)4月、綱島一家五代目・鶴岡政次郎の代貸だった稲川角二(後の稲川聖城)は、山崎屋一家を継承する形で、熱海市咲見町に稲川一家を興すと、湯河原町の旅館「島田旅館」を常盆にして莫大な利益を上げた。昭和31年(1956年)6月、鶴岡政次郎の勢力圏にあった博徒団体を糾合して、鶴政会(後の錦政会,現・稲川会)を結成した。神奈川県や静岡県を中心に東海道の「稲川時代」を拓き、さらにその後、岐阜県や熊本県にまで勢力を拡大させ「関東の雄」としての地盤を築いた。稲川角二の常盆での種目は、花札を用いたアトサキがメインで、稀に手本引きが行われたという。昭和28年(1953年)6月頃から、後に四代目山口組組長となる竹中正久は、当時はまだ19歳で奈良特別少年院を出たばかりの愚連隊にすぎなかったが、姫路市総社本町にあった旅館「大阪屋」において、週1、2回のペースで手本引きの盆を開帳。実弟たちを使い、竹中英男に胴を引かせ、竹中正と竹中武に合力を務めさせた。昭和35年(1960年)8月には地元の不良を糾合して竹中組を興すと、翌年の昭和36年(1961年)12月13日に三代目山口組組長・田岡一雄から盃を受け、三代目山口組直参となった。昭和30年代には、本引き専用の張札が各花札メーカーから続々と市販されるようになる。昭和32年(1957年)6月14日、骨牌税法を全文改正したトランプ類税法 (昭和32年法律173号) が施行されたが、繰札と張札はその対象外とされ、非課税となっている。その後、トランプ類税は、平成元年(1989年)の消費税導入に伴う間接税の整理によって廃止されている。昭和35年(1960年)6月26日、稲川裕芳(後の稲川聖城)は、錦政会(現・稲川会)幹部で林一家総長の林喜一郎から、自民党の安保委員会がアイゼンハワー大統領の来日に備えた活動資金を必要としていたため、政財界のフィクサーである児玉誉士夫が、伊豆市長岡の旅館2階の賭場で財界人を相手に6億円近い金を掠め取ったとの報告を受ける。その後、稲川裕芳は世田谷区等々力の児玉誉士夫邸を訪ねて恫喝するも、「自分は自民党に貸しはあっても借りはない」と逆に一喝される。これが縁で児玉誉士夫は稲川裕芳の実質的な親分となり、鶴政会顧問に就任している。昭和38年(1963年)12月、田岡一雄は山口組直系組長会において、「これからのヤクザはバクチやその寺銭では食えなくなるから、皆事業を持つようにすること」と直参組長たちにフロント企業(合法企業)の経営を強く呼びかけた。昭和39年(1964年)1月、暴力取締対策要綱が策定されると、同年の2月13日には警視庁に警視総監を委員長とする対策会議が、その下に刑事部長を長とする組織暴力犯罪取締本部が設置される。都道府県警察が一体となって、いわゆる第一次頂上作戦を実施。違法な資金獲得活動を狙った取締りを強化した。それ以降、証言さえあれば非現行でも逮捕するようになり、盆茣蓙が鋲で固定されていたり目木があれば、現金の有無に拘らず玄人賭博の物的証拠とされ、常盆は壊滅的な打撃を受けて激減した。昭和39年(1964年)3月19日、神奈川県足柄下郡箱根町塔之沢92の温泉旅館「紫雲荘」で、住吉一家(現・住吉会)三代目・阿部重作の引退に伴う総長賭博を錦政会(現・稲川会)会長・稲川裕芳(後の稲川聖城)と住吉一家四代目・磧上義光が共同で開帳。関東の代紋違いの一家の総長や幹部らが30人を超えて馳せ参じた。一晩で動いた総額が約5億5200万円、祝い金として阿部重作のもとに約4400万円が届けられたという。このことは、翌年の昭和40年(1965年)2月17日の組織暴力犯罪取締本部を中心とする家宅捜査で発覚した。2月27日には稲川裕芳が碑文谷警察署へ出頭、賭博開帳図利罪容疑で逮捕され、懲役3年の実刑判決が確定した。昭和40年(1965年)1月14日、錦政会(現・稲川会)幹部・林喜一郎、同幹部山川一家総長・山川修身ら5人が賭博開帳容疑で指名手配され、錦政会会員16人が逮捕された。昭和45年(1970年)8月3日、大阪府警察捜査4課(暴力団対策課,通称「マル暴」)は、同年の2月14日から15日にかけ、西成区今池41(現・太子2丁目)にあった松田組系愚連隊組織・互久楽会事務所2階の常盆で手本引きをしていたとして、奈良市明日香村村会議長・島田弥八郎を常習賭博容疑で逮捕するとともに、賭客として同席していた四代目酒梅組組長・中納幸男を指名手配している。島田弥八郎は、帳付役の互久楽会常任参与・平沼高男と幼馴染で、数年前から盆に出入りしており、この逮捕により村会議長を辞職することになるが、昭和48年(1973年)7月2日には再び村会議長に返り咲いている。昭和47年(1972年)10月、竹中正久は、姫路市十二所前町28にあった竹中組事務所3階大広間に全国から錚々たる親分衆を集めると、5,6日間ぶっ通しの総長賭博を開帳。動いた総額が約15億円、寺銭は約1億円に昇ったという。竹中正久の発案により、その日付は最後まで伏せるよう根回しされていたため、兵庫県警察は賭博開帳日を特定できずに、逮捕者全員が無罪放免となり、罪に問われることはなかった。昭和48年(1973年)、山本集は、東淀川区淡路新町に諏訪一家系淡路会内山本組を興すと、週2回のペースで盆を開帳。一晩の寺銭は約500万円に昇ったという。平成元年(1989年)10月10日、山本組を解散すると画家へと転身。代表作「雄渾(ゆうこん)」 は関西国際空港正面玄関に掲げられている。 平成23年(2011年)12月16日、山本集は病没。享年71。昭和49年(1974年)2月5日、神奈川県警察捜査4課と鶴見警察署は、前年の9月15日から16日にかけ、横浜市中区宮川町3丁目68にあった稲川会山田一家植草組事務所に、組長や大幹部クラスの他、近所のパチンコ店や麻雀店の経営者などを加えた10人余りを集め、手本引きで約1000万円の利益を上げていたとして、稲川会木島一家総長・木島無名ら5人を常習賭博容疑で逮捕するとともに、稲川会山田一家植草組組長・植草昭一ら3人を指名手配している。昭和50年(1975年)7月24日、大阪市北区太融寺町にあった松田組系溝口組の常盆で起きた山口組系佐々木組内徳元組幹部らとのトラブルが発端となり大阪戦争へと突入すると、傘下組織の相次ぐ離脱で弱体化が進み、最盛期には30数ヶ所もあった松田連合の全て常盆は閉鎖へと追い込まれる。松田連合の盆で使用する張札などの用具を供給してきた生野区腹見町2丁目13にあった小原商店本店は連鎖するように倒産した。昭和58年(1983年)5月25日、二代目松田組組長・樫忠義は、松田組を解散すると堅気となり、土建・運送業社長に専念して成功を収めたが、平成4年(1992年)には会社を売却すると、平成8年(1996年)8月18日に自殺している。享年58。昭和51年(1976年)3月6日、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、山崎正、桜井隆之らが、神戸市中央区多聞通2丁目5-13にあった山口組本部2階に集結して、徹夜で総長賭博を開帳。細田利明が胴元を務め、動いた総額が推定で2億5000万円。寺銭1500万円のうち、450万円が大平一雄へ渡り、そのうちの225万円が山本健一へ渡った。同年の3月20日にも同メンバーが山口組本部2階に再集結して総長賭博を開帳。竹中正久が胴元を務め、加茂田重政の負けが通算で3500万円になったという。このことを知った三代目組長・田岡一雄は、山本健一、竹中正久、大平一雄、小西音松を入院先の関西労災病院に呼び出して厳重注意をした。この事実を掴んだ兵庫県警察は、昭和53年(1978年)11月22日に山本健一、竹中正久、大平一雄や細田利明ら14人を指名手配して逮捕している。山口組本部長だった大平一雄が全ての責任を引き受け執行猶予付きの懲役刑となり、他の者は罰金刑となった。昭和52年(1977年)11月2日、神奈川県警察捜査4課と神奈川警察署は、同年の9月14日から15日にかけ、神奈川区亀住町にある左官業・沢地正の自宅に顔見知りの商店主10数人を集め、手本引きの盆を開帳し、総額で6000万円の現金が動き、約300万円の利益を上げたとして、稲川会山田一家門脇組幹部・宮原楯二ら4人を賭博開帳図利容疑で逮捕している。昭和55年(1980年)2月12日、警視庁捜査4課と渋谷、目黒、荏原警察署は、前年の9月4日から5日にかけ、世田谷区千歳台にあった住吉一家(現・住吉会)福島組が管理する部屋に賭客十数人を集め、手本引きで約500万円の利益を上げ、さらに都内の組員自宅などでも約30回以上に渡り盆を開帳、総額で20億円近くの現金が動き、約2億円の利益を上げたとして、福島組組長・福島靖倫ら8人を賭博開帳図利容疑で逮捕している。昭和55年(1980年)3月上旬と中旬、竹中正久は、矢嶋長次、長谷一雄、稲川会会長補佐・林喜一郎、忠政会会長・大森忠明、松正会会長・山本真喜夫らを招待し、竹中組若頭補佐・大西康雄宅などで2回に渡って賽本引きの総長賭博を開帳し、両日で3、4億円の金額が動いた。この事実を掴んだ兵庫県警察は、昭和56年(1981年)10月29日に竹中正久、竹中武、杉本明政、矢嶋長次、長谷一雄、林喜一郎、大森忠明、山本真喜夫らを逮捕している。警察では寺銭を約1億5000万円と推定。昭和56年(1981年)7月23日に田岡一雄が病没。享年68。昭和59年(1984年)年7月10日、竹中正久が四代目山口組組長を襲名したが、これを不服とする三代目山口組組長代行・山本広が中心となって、ひと月前の6月13日には山口組を離脱して一和会を結成。山一抗争へと発展した。昭和60年(1985年)1月9日、昭和55年の賭博事件の上告が棄却され、懲役5ヶ月(未決拘留日数が差し引かれ実際は50日程)が確定。竹中正久は2月から服役する予定が、1月26日、一和会二代目山広組系組員3人に大阪府吹田市のマンション入口で銃撃され、意識不明のまま翌27日に死亡している。享年51。昭和59年(1984年)3月12日、警視庁捜査4課と宮坂警察署は、前年の11月23日から24日にかけ、京都市東山区の民家に京都や東京の会社役員や商店主など賭客20人を集め、手本引きの盆を開帳して約1500万円の利益を上げたとして、下京区東高瀬川筋上ノ口上る岩滝町176-1にある会津小鉄会の事務所など11ヶ所を京都府警察の協力を得て一斉捜索した上で、三代目会津小鉄会総裁・図越利一ら最高幹部を含む8人を賭博開帳図利容疑で指名手配している。昭和61年(1986年)7月、図越利一は、三代目会津小鉄会総裁代行兼理事長・高山登久太郎(本名・姜外秀)を四代目会津小鉄会会長に据え、平成10年(1998年)7月7日、京都で歿している。享年84。昭和59年(1984年)8月27日に放送したNHK特集「山口組 知られざる組織の内幕」では、西成区の常盆の摘発場面が映し出され、この頃は大阪だけでも30箇所以上の盆が開帳されていることが報告されている。昭和60年(1985年)4月10日、警視庁捜査4課と府中警察署は、渋谷区広尾の高級マンションで手本引きをしていた住吉連合会(現・住吉会)系幹部・周文吉ら9人を現行犯逮捕している。昭和61年(1986年)7月21日、警視庁捜査4課と巣鴨、高島平警察署は、同年の4月12日と22日の2回、豊島区巣鴨の飲食店2階と住吉連合会(現・住吉会)滝野川一家堀越睦会幹部のマンションに稲川会幹部や不動産業者、ゲーム機販売業者ら10人を集め、手本引きの盆を開帳して総額で約4億9000万円の現金が動き、約1600万円の利益を上げたとして、堀越睦会幹部ら6人を賭博開帳図利容疑で逮捕している。昭和63年(1988年)5月31日、警視庁捜査4課と月島、荏原、四谷警察署は、都内のホテル客室で大掛かりな手本引きの盆を開帳していたとして、稲川会系幹部ら5人を賭博開帳図利容疑で、賭客11人を常習賭博容疑で逮捕している。判明しているだけでも、3晩で約10億円が動いており、2400万円の利益を上げていた。平成に入ってからは、西成区の釜ヶ崎とその周辺に集中するほとんどの常盆では賽本引きが主流となっていく。大阪府警察捜査4課は、西成区太子1丁目にある酒梅組系天龍会(現・九代目酒梅組本部)の常盆や西成区山王3丁目にあった酒梅組系大山組(後に出口組が経営,通称「ガレージ」)の常盆を、平成12年(2000年)2月13日、平成16年(2004年)1月15日、平成18年(2006年)1月25日、平成20年(2008年)9月18日、平成21年(2009年)10月20日、平成24年(2012年)2月14日と度々摘発しており、これにより常盆は壊滅状態に陥った。平成元年(1989年)7月21日、大阪府警察捜査4課は、同年の2月16日から17日にかけ、貝塚市清児にある山口組系高橋組組員宅に賭客20人を集め、賽本引きの盆を開帳して総額で約1億円の現金が動き、約3000万円の利益を上げたとして、岸和田市今木町135に事務所を構える山口組系高橋組組長・高橋昇を賭博開帳図利容疑で逮捕している。平成2年(1990年)4月11日、兵庫県警察暴力対策2課と甲子園警察署は、同年の1月13日から14日にかけ、大阪市港区にある別の組の事務所に山口組系組員約30人を集め、賽本引きの盆を開帳して総額で約1億8000万円の現金が動き、約3000万円の利益を上げたとして、山口組系中博組組長・中西勝博を常習賭博容疑で逮捕している。このことは、同年の2月に組員・中西隆を障害容疑で逮捕したことがきっかけで発覚した。平成6年(1994年)5月13日、福岡県警察北九州地区暴力団取締本部と小倉北警察署は、小倉南区の空き家に暴力団関係者や会社役員らを集め、手本引きの盆を開帳していた工藤連合草野一家(現・工藤會)三村組組長・三村睦雄ら29人を現行犯逮捕している。平成6年(1994年)7月14日、大阪府警察捜査4課は、同年の3月4日から5日にかけ、門真市のマンションで手本引きの盆を開帳、約1000万円の利益を上げたとして、寝屋川市長栄寺町16-7に事務所を構える山口組系山健組内鈴秀組の組員ら18人を賭博開帳図利容疑で逮捕している。すでに略式起訴された15人の組員らが納めた罰金だけでも総額630万円、賭客15人も1人20万から50万ずつ総額630万の罰金を納めている。平成7年(1995年)1月10日、大阪府警察捜査4課は、平成4年(1992年)5月20日に、西成区出城のマンションに暴力団関係者ら約30人を集め、賽本引きの盆を開帳して総額で約3億円の現金が動き、約2000万円の利益を上げたとして、東大阪市に事務所を構える山口組系山健組内健竜会幹部を賭博開帳図利容疑で逮捕している。平成19年(2007年)2月25日、京都府警察組織犯罪対策2課と伏見警察署は、宇治市槙島町のマンションで手本引きの盆を開帳していた山口組系幹部・堀越保彦ら3人を賭博開帳図利容疑、賭客9人を常習賭博容疑で現行犯逮捕している。昨年の平成18年(2006年)11月頃から週1度、深夜から早朝にかけ盆を開帳していた。平成21年(2009年)、これまで会津小鉄会を中心に京都の盆に張札などの用具を供給してきた松井天狗堂(下京区十禅師町196-5)は、職人の高齢化や後継者不在などを理由に製造を中止、平成22年(2010年)3月には閉店した。平成22年(2010年)6月10日、大阪府警察捜査4課は、前年の11月23日に、大阪市中央区のホテル客室(スイートルーム)で賽本引きをしていたとして、山口組系弘道会幹部で、浪速区恵美須西2丁目に事務所を構える三代目米川組組長・吉島宏ら組幹部3人を賭博開帳図利容疑で逮捕。賭客はいずれも組関係者で、山口組系山健組幹部で大阪市中央区島之内2丁目に事務所を構える兼一会会長・荒木一之ら3人も常習賭博容疑で逮捕したが、同年の7月7日に大阪地方検察庁は、嫌疑不十分につき不起訴処分としている。平成24年(2012年)1月17日、西成警察署は、賽本引きの盆を開帳していた山口組系山健組内健竜会の若中で、大阪市中央区東心斎橋に事務所を構える炎龍會會長・濱田秀信容を賭博開帳図利容疑、賭客3人を常習賭博容疑で現行犯逮捕している。平成26年(2014年)5月24日、大阪府警察捜査4課は、住之江区のマンションで賽本引きの盆を開帳していた飲食店経営の69歳の男性ら9人を賭博開帳図利、賭客7人を常習賭博容疑で現行犯逮捕するとともに、胴元側が用意した現金約250万円を押収している。平成27年(2015年)7月8日、大阪府警察捜査4課は、前年の10月30日から31日にかけ、和歌山県白浜町のホテル客室に設けた賭場で賽本引きをしていたとして、山口組系健心会(浪速区塩草3丁目)の元幹部・田口清容を賭博開帳図利容疑で逮捕している。警察庁が刊行する『警察白書』によると、昭和59年(1984年)の賭博事犯検挙件数が934件だったのに対して、平成26年(2014年)の賭博事犯検挙件数は66件と、この30年間で大幅に検挙件数が減少しており、ヤクザ社会のシノギ(資金獲得活動)が大きく変容したことを示している。初めて手本引きを題材に小説を発表したのは青山光二で、妻の姉の夫が博徒の親分で自宅で盆を開帳していたことが機縁となっている。ギャンブル小説の第一人者にして、手本引きに関する作品も数多く執筆してきた阿佐田哲也は、「世の中には三千種以上のギャンブルがあるが、面白さでは一位がホンビキ、二位が競輪だろう」と手本引きを高く評価するコメントを残している。また、作家の安部譲二は、胴師の経験があり「特にハマったのは手本引っていう博打でさ、純日本製、単純にして完全無欠。国際的にポピュラーなポーカーやブリッジなど、手本引の面白さと合理性には足もとにも及びません」と著書に綴っている。主として仁侠映画(ヤクザ映画)に登場することが多く、中でも鶴田浩二が主演した「博奕打ちシリーズ」第1弾『博奕打ち』に詳細な賭場の場面を観ることができる。この映画を監督した小沢茂弘は、実際に賭場を巡る徹底的な取材を通して、手本引きのルールを把握することでより楽しめる娯楽作に仕上げている。「緋牡丹博徒シリーズ」でも緋牡丹のお竜(藤純子)が賭場の場面で行っていたのが手本引きで、シリーズの監修を担当したのは、任侠界の元老で小久一家総長の石本久吉であった。藤純子の実父でもあり、プロデューサーの俊藤浩滋は、太平洋戦争時から、神戸市東灘区御影町にあった山丁五島組の盆へ通うようになり、親分・大野福次郎の知己を得て博徒たちと親交を深め、その後の東映の仁侠映画製作に大きく貢献することとなる。実録ヤクザ漫画においては、背景として描かれる場合がほとんどで、物語の主軸になることは稀である。それでも「世紀末博狼伝サガ」では、第2巻から4巻にかけて「手本引き大博打」と題した手本引きによる勝負の駆け引きが濃厚に描写されている。ただし、胴が勝負の初めに繰札をピンに戻していない点、紙下の扱い方などの作法面でおかしな描写が見られる。

出典:wikipedia

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