サウスウエスト航空(サウスウエストこうくう、、NYSE:LUV)は、アメリカ合衆国(米国)テキサス州ダラス市を本拠地としている航空会社である。1967年、エア・サウスウエストとしてテキサス州で設立され、1971年に3機のボーイング737を使用して運航開始した。その後、航空自由化政策(ディレギュレーション)とともに自力で路線網を少しずつ拡大したことに加えて、いくつかの格安航空会社を買収することでも路線規模を拡張しており、全米に路線網を持つ大手航空会社となった。格安航空会社として知られ、後述するように徹底した人件費以外のコスト削減等が図られ、収益率は他社より高い。1973年以来、米国の景気の動向に関わらず黒字運営を続ける全米で数少ない航空会社の1つである。また、ポリシーの1つとして「社員第一、顧客第二」を掲げており、米国の航空会社で唯一、アメリカ同時多発テロ事件を受けた航空産業冷え込みにもレイオフを行っていない大手航空会社でもある。2012年にはスイスの航空輸送格付け機関から「世界で最も安全な航空会社」の10社のうちの1社に選定されている。サウスウエスト航空の設立のきっかけとなったのは、テキサス州の銀行家であるジョン・パーカーが、ダラス、ヒューストン、サンアントニオの3都市を仕事で回る際に、この3都市間の移動が不便かつ費用が高いと感じていたことから、サンアントニオで小規模な航空会社を経営するロリン・キングに、テキサス州内を移動するための航空会社の設立を持ちかけたのが発端である。それを受けて、キングはカリフォルニア州にあるパシフィック・サウスウエスト航空(PSA)やエア・カリフォルニアを調査した。各都市の経済が活況であることや、都市間が適度な距離であること、またこの2社の業績が優れていることを確認した。この調査結果から、テキサス州の3都市に大型旅客機を運航する航空会社の設立構想を立案した上で、1966年にキングの経営する会社の法律顧問を務めていた弁護士であるハーバート・ケレハーにこの構想を持ちかけた。当初、ケレハーは突飛な計画と感じたが、サンアントニオのバーで説明を受けるうちに興味をそそられ、「運賃が安く、定時運航率が優れていて便数の多い航空会社なら成功する」と予測した。キングと一緒にビジネスプランや運航パターンについて検討を行い、店舗に備え付けの紙ナプキンに書きなぐった。このときの紙ナプキンは、ダラスの本社に額に入れて飾られている。1967年3月15日、ケレハーはエア・サウスウエスト(1971年3月29日にサウスウエスト航空に社名変更。以下「サウスウエスト航空」で統一する)の設立を申請した。当初の資本金はキングとケレハーが出資し、政治的な支援を集める活動に着手するとともに、事業に必要となる資本金の募集を開始した。ケレハーは、法律上の闘争を招くことを予想し、募集する資本金の総額を当初予想の25万ドルから倍以上の50万ドルとし、テキサス州で影響力を有する政界や財界の人物から出資者を募ることとした。1967年11月27日、ケレハーはダラス、ヒューストン、サンアントニオの3都市を結ぶ航空会社の参入をテキサス州航空委員会(以下「TAC」と表記)に申請、1968年2月20日には認可された。ところが、認可の翌日に、ブラニフ航空、トランステキサス航空・コンチネンタル航空の3社(以下、本節では「ライバル3社」と記述する)が、サウスウエスト航空への飛行許可証を発行することを禁じる内容の一方的緊急差止命令を入手したのである。ライバル3社の主張は「サウスウエスト航空が参入しようとしている市場はすでに飽和状態で、新たな航空会社が参入する余地はない」というものであった。1968年夏に、テキサス州地方裁判所にこの案件が持ち込まれたことにより、両社は法廷で争うことになり、サウスウエスト航空の弁護士はケレハーが担当した。この間にライバル3社は裏側で政治的な根回しを行っており、一度は認可を出したはずのTAC関係者が、審理が始まる前の新聞のインタビューで「テキサス州に新しい航空会社が必要な理由が分からない」という談話までしていたなど、サウスウエスト航空には不利な状況であった。裁判では両社の弁護士が感情むき出しで主張をする激しいもので、テキサス州のある新聞は「娯楽費を節約して裁判を見るほうが面白い」と評するほどであった。地方裁判所ではライバル3社の主張を認める判決が下され、サウスウエスト航空ではテキサス州高等裁判所へ上告したが、7か月の審理の後に敗訴してしまった。この時点で、事業に必要となるはずの資本金がすべて裁判費用に消えてしまっていたため、役員の中にはここで手を引くことを考えていたものもいたという。しかし、ケレハーは裁判費用を自己負担することで役員たちを説き伏せ、テキサス州最高裁判所へ上告、その結果、高等裁判所での判決は覆され、サウスウエスト航空の勝訴となった。ライバル3社は合衆国最高裁判所へ上告したが棄却され、ようやく就航が認可されたのである。しかし、せっかく認可されたものの、運航開始するための費用はすべて訴訟に費やしてしまっていた。また、運航に必要な人員を集めなければいけなかった。1971年1月、サウスウエスト航空は、ユニバーサル航空を退社したばかりのラマー・ミューズをCEOに招聘した。ミューズは就任後直ちに友人や知人のつてをたどって、資金集めに奔走する一方、友人や知人で運航に携わった経験者を集めた。また、資金集めの後に、過剰生産したため売れ残っていたボーイング737型機を3機購入した。運航開始に先立ち、客室乗務員の募集が行われたが、その時の広告文面は「ラクエル・ウェルチさん募集」というもので、面接時には「脚を見せるために」という理由でホットパンツをはいてくるように要求した。選考にあたっては、ヒュー・ヘフナーの「プレイボーイ・ジェット」に乗務するバニーホステスを育てた人物も審査員に加わった。こうして採用された女性客室乗務員は、80パーセント以上がバトンガールやチアリーダーの経験者で、かつ強い個性を持つ社交的な女性ばかりであった。サウスウエスト航空では、これらの客室乗務員にホットパンツとゴーゴー・ブーツを制服として支給した。一方、ライバルの航空会社の妨害はまだ続いていた。テキサスインターナショナル航空とブラニフ航空(以下、本節では「ライバル2社」と記述する)は米国民間航空委員会 (Civil Aeronautics Board, 以下「CAB」と表記)に対してサウスウエスト航空の就航に抗議を申し立てる一方、ブラニフ航空はサウスウエスト航空の株式引受業者に手を引くように圧力をかけていた。しかし、CABはライバル2社の申し出を却下し、サウスウエスト航空は別の株式引受業者を見つけ出した。1971年6月8日には、ようやく最初の株式公募にこぎつけたが、一方でライバル2社は業務開始を阻止するための一方的緊急差止命令を入手した。これに対して、ケレハーは職務執行令状の発布を求めるため、すぐに司法図書館で先例を調べた上、テキサス州最高裁判所に対して緊急差止命令の却下を申し出た。1971年6月17日、テキサス州最高裁判所はサウスウエスト航空の主張を認め、差止命令を執行しないように命じた。この時点で、ようやくサウスウエスト航空は運航が可能となったのである。1971年6月18日、ダラス・ヒューストン・サンアントニオの3都市を1日18往復する航空会社として、サウスウエスト航空の運航が開始された。ミューズは引き続き資金集めに奔走し、700万ドルを蓄えたものの、当初の利用者数は少なく、1日の合計の旅客数が150人という日もあった。1972年には赤字額の合計は500万ドルに達しており、この時期にサウスウエスト航空では資金難のために3人の従業員をレイオフしている。会社創業以来、サウスウエスト航空が行ったレイオフはこのときの3人だけである。当初、サウスウエスト航空はヒューストンではインターコンチネンタル空港に発着していたが、ヒューストンにはもう1つ、ホビー空港が存在した。すでにホビー空港はすべての旅客航空会社が撤退していたが、市街地から近いことから、サウスウエスト航空が主なターゲットとするビジネス客には適した空港であった。1971年11月14日より試行的にホビー空港発着便を設定したところ、利用者数が急増したため、サウスウエスト航空は直ちにヒューストンでのすべての発着便をホビー空港に移した。都市部に近い第二空港に発着する手法は、その後格安航空会社の成功の法則の1つになっている。この頃、毎週金曜日には定期点検のためヒューストンからダラスまで航空機をフェリーフライトすることになっていたが、同年11月末からはこれを営業運航することとし、運賃を片道10ドルに設定したところ、特に宣伝をしなかったにも関わらず大きな評判となった。当時、この区間の通常運賃は20ドルだったが、利便性志向と低価格志向の双方の市場をカバーするべく、平日朝から夕方までの運賃を26ドルとし、逆に平日夜と土休日の運賃を13ドルに引き下げたところ、乗客数が増加した。これが米国航空業界において、ピーク時とオフピーク時で異なる運賃とする制度の始まりである。1971年9月にはボーイング737をさらに1機追加購入し、スピードアップや州外へのチャーター便に使用する計画を立てた。ところが、連邦地方裁判所はサウスウエスト航空に対して、州外チャーター便の運航を禁じた。収入は増えてきてはいるものの、まだ安定した経営状態ではなかったため、ボーイング737は1972年5月にフロンティア航空へ売却された。手元資金の不自由さは解消されたものの、すでに4機使用を前提で計画した運航計画を実行できるかが問題となった。航空機を10分で折り返しすればダイヤが維持できることが判明、以後「折り返し時間10分」がサウスウエスト航空の特徴の1つとなった。しかし、ライバル航空会社との戦いが終わったわけではなかった。サウスウエスト航空がホビー空港に移ると、ブラニフ航空とコンチネンタル航空は一部の路線をホビー空港発着とするとともに、サウスウエスト航空と同じ額の低運賃を派手に宣伝して対抗した。これに対して、サウスウエスト航空は「サウスウエスト航空がホビー空港でサービスを始めなければ、相手の2社はホビー空港には戻ってこなかったはずだ」と広告を出して訴えた。サウスウエスト航空は低運賃なだけではなく、時刻どおりに運航し、便数が多く待たされることもなかったため、利用者はサウスウエスト航空を選択し、ブラニフ航空の計画は裏目に出てしまった。その後、1970年代半ばにブラニフ航空はホビー空港から撤退している。ダラス・フォートワース国際空港(以下「新空港」と表記)が開港する少し前の1972年、サウスウエスト航空は新空港当局に対して、新空港に移転せずにラブフィールド空港にとどまると通告した。便利な市街地の近くの空港に発着することでビジネス客の要望にこたえていたので、市街地から離れた新空港に移転することは理屈に合わないと考えたためである。しかし、これは新空港当局やライバル航空会社から反発を受け、合同訴訟を起こされる事態になった。テキサス州地方裁判所・高等裁判所・最高裁判所・合衆国最高裁判所へと審理が進められたが、最終的にはサウスウエスト航空の主張が認められることになった。1973年になると、ようやく利益を計上するようになってきたサウスウエスト航空は、1973年1月22日よりダラスとサンアントニオを結ぶ路線の運賃を、当時の通常運賃の半額である13ドルに設定することで、同路線の乗客増を狙った。これに対し、ブラニフ航空は同年2月1日より、この区間の運賃を同額の13ドルにして対抗してきた。しかし、この路線はサウスウエスト航空にとっては収益性の高い路線であり、絶対に負けられない路線でもあった。サウスウエスト航空は「しみったれた13ドルごときに打ち落とされるサウスウエスト航空ではない」と広告を出した上、同年2月2日より、通常運賃の26ドルを支払った利用者に対して、「シーバスリーガル」(スコッチ・ウイスキー)・「クラウンローヤル」(カナディアン・ウイスキー)・「スミノフ」(ウォッカ)のいずれか1本のフルボトルを無料で提供するという奇策を打ち出した。この施策は、航空運賃を経費として会社に請求できるビジネス客からは大好評となり、ビジネス客はこぞって26ドルを支払った上でボトルを自宅に持ち帰った。この施策が行われた2か月間で、サウスウエスト航空はテキサス州で最も多くの「シーバスリーガル」・「クラウンローヤル」・「スミノフ」をさばいたといわれている。こうしたサウスウエスト航空の戦いを、地元のマスコミは「ダビデとゴリアテ」の戦いになぞらえて取り上げ、テキサス州の住民にサウスウエスト航空が印象付けられることになった。1973年、事業拡大のためテキサス州リオグランデバレーへの路線開設を行うことになり、TACにリオグランデバレーにあるハーリンゲンへの路線開設の申請を行った。1974年から開始された審議の際にも、ライバル航空会社のうちの1社であるテキサスインターナショナル航空は「リオグランデバレーへの路線は必要にして十分であり、他社の参入の余地はない」と主張したが、1年近い審議の後、サウスウエスト航空の参入が認められた。このとき、テキサスインターナショナル航空は暫定的差止命令を入手しようとしたが、折りしもテキサスインターナショナル航空はストライキのため満足な運航が出来る状態ではなく、結局差止命令は発布されなかった。そして、1975年初頭から運航を開始したサウスウエスト航空は、ストライキの影響を受けて不便を蒙っていたリオグランデバレーの住民から歓迎されたのである。さらに、この路線では他社との競争以上に重要な事実が判明した。サウスウエスト航空が就航する直前の1974年、リオグランデバレーとダラス・ヒューストン・サンアントニオの3都市間を移動する旅客数は年間12万3000人程度であった。ところが、サウスウエスト航空が就航した1975年の同区間の旅客数は32万5000人にも及んだのだ。これまで飛行機を利用していなかった利用者層が、サウスウエスト航空の低運賃によって、飛行機を利用するようになったのである。サウスウエスト航空の基本戦略である「低運賃で頻繁に運航する」という方針が正しかったことが証明され、その後次々とテキサス州への各都市へ路線を開設することになる。数年後には州内10都市を結ぶ航空会社となっていた。なお、合衆国政府は1975年2月14日に、ライバル航空会社のブラニフ航空とテキサスインターナショナル航空が共謀してサウスウエスト航空を廃業に追い込もうと、サウスウエスト航空の投資銀行や仕入先に対して圧力をかけていることなど、シャーマン法に違反した行為を行っているとして起訴した。2社はともに反論しなかったため、罰金として10万ドルを課せられている。ジミー・カーター政権が1978年に航空自由化政策(ディレギュレーション)の導入を行ったことで、テキサス州内の航空会社として設立されたサウスウエスト航空も、テキサス州外への路線展開を行うことが可能になった。ここで、それまでのサウスウエスト航空の基本戦略であった「短距離を低運賃・高頻度運航」という方針を今後も続けるべきかどうかが話し合われた。その結果、基本戦略を変更せずに事業の拡大を進めていくということになった。早速、同年にヒューストンとニューオーリンズを結ぶ路線を開設し、続いてダラスからニューオーリンズの路線の開設申請を行ったが、これに対して新空港当局、フォートワース市、ブラニフ航空は猛烈に反対した。反対者の中にフォートワース選出の下院議員であるジム・ライトがいたことから、ロビー活動合戦が繰り広げられた。最終的に、ラブフィールド空港からはテキサス州と隣接する州より遠い地点への路線開設が出来ないことになった。ここでサウスウエスト航空が打ち出した方針は、他社のように「ハブ・アンド・スポーク型」と呼ばれるネットワーク形態を構築せず、保有機材であるボーイング737の航続距離や収容力を最大限に活用し、2地点間の輸送に重点を置く「ポイント・トゥ・ポイント型」の輸送に徹することであった。つまり、ある程度の集客が見込める短距離・中距離の路線を開設し、それらの路線を相互につなげてゆくことでネットワークを拡大する手法をとったのである。この方針に従い、まずヒューストン、アルバカーキ、ラスベガス、フェニックスからの路線を開設、さらに隣接州を結ぶ路線を開設するという展開を行った。この手法は、他の航空会社の採用している「ハブ・アンド・スポーク型」の路線構成によって、混雑した空港で不便な乗り継ぎを強いられることに不満を抱く利用者層から絶大な支持を得たことから、その後サウスウエスト航空の基本的な路線展開はこの方針に徹することになる。これより少し遡る1978年3月28日、創業期より社長兼CEOを務めていたミューズが辞任し、後任にはユナイテッド航空でマーケティング担当副社長を務めていたハワード・パトナムが着任し、創業者のケレハーは会長に就いた。さらに、パトナムは1981年9月22日に退任し、1982年2月23日からは、ケレハーが社長兼会長兼CEOに就任した。経営に関する全権を掌握したケレハーは、その後のサウスウエスト航空の特徴となる3点の方針を打ち立てた(「運営方針」の節で後述)。他方、1980年代の他の航空会社では他社の買収などで急激に路線網を拡大する事例が多かったが、サウスウエスト航空は大きな買収などは行わず、基本的には自力での路線展開を進めていった。また、他社では急激な路線展開の後ほどなく撤退を繰り返しているケースもあったが、サウスウエスト航空は基本的には一度就航した地区からの撤退はせず、着実に路線網を拡大していった。さらに、他の航空会社が市場シェアの拡大を重視する中で、サウスウエスト航空は徹底的に利益を重視した経営を行った。1988年5月、サウスウエスト航空は米国運輸省が発表する定時運航率の高さ・手荷物の紛失件数の少なさ・利用者からの苦情の少なさの3部門について、米国の全航空会社中でトップとなった。これは、サウスウエスト航空の顧客満足度がトップクラスであるということでもあった。1989年11月からは3か月連続して3部門とも首位となったことから、サウスウエスト航空では1990年1月に "Triple Triple Crown" (3か月連続の三冠王)という広告展開を行った。サウスウエスト航空は一躍米国最優良航空会社として名前が知れ渡ることになる。その後、1992年から5年連続で、年間を通じて "Triple Crown" (三冠王)となった。さらに、1991年には、米国の航空雑誌『エア・トランスポート・ワールド』が主催する賞「エアライン・オブ・ザ・イヤー」を受賞したが、国際線を全く運航していない航空会社の受賞はきわめて異例のことであった。1990年末には湾岸戦争が勃発し、燃料費の高騰により米国の航空会社は軒並み赤字に転落したが、サウスウエスト航空は1990年第四半期の損失を450万ドルに抑えた。さらに、その後1994年までの景気後退のさなかで利益を計上したのは、米国航空業界ではサウスウエスト航空だけであった。この時点で、航空自由化政策による航空会社同士の激しい競争は一段落していたが、サウスウエスト航空が雛形とした航空会社は、PSAやエア・カリフォルリアのどちらも他社に買収の上吸収合併されていた。そして、創業時にサウスウエスト航空のライバルだった航空会社も、ブラニフ航空は1982年に連邦倒産法第11章(チャプター11)の申請を行った後に1989年に運航停止となり、テキサスインターナショナル航空はコンチネンタル航空と合併したものの、そのコンチネンタル航空は1990年に2度目のチャプター11適用申請をする有様であった。また、パンアメリカン航空・イースタン航空のように会社自体が消えてしまったり、航空会社同士の合併が多く行われた結果、航空自由化政策が行われる前よりも航空会社の数は減ってしまっていた。サウスウエスト航空は、それらの激しい競争から常に距離を置いた状態で成長していたのである。1992年に、サウスウエスト航空が "Just Plane Smart" (ちょっと気の利いた飛行機)という宣伝文句を使用し始めた直後、すでに "Plane Smart" (気の利いた飛行機)という宣伝文句を使用していたスティーブンス・アビエーションは、商標侵害であるとして訴え出た。しかし、サウスウエスト航空は、その宣伝文句の使用を直ちにやめることも、法廷で争うこともしなかった。両社のトップが腕相撲の試合を行うことで決着をつけることにしたのである。この試合は、3回勝負で2回勝った方が宣伝文句の使用権を得て、1回負けるごとに5000ドルを相手が指定する慈善団体へ寄付するという内容で、1992年3月にダラスのスポーツ用施設で行われた。試合はケレハーの負けとなったが、試合終了後、スティーブンス・アビエーションのカート・ハワールド会長は、サウスウエスト航空が "Just Plane Smart" という宣伝文句をその後も使用することを認めた。慈善事業には合計1万5000ドルが回され、両社にとっても良い宣伝となったが、ケレハーは宣伝目的であったことを否定している。この勝負は米国のマスコミにも "Malice in Dallas" (ダラスの対決)という話題として提供され、当時米国大統領だったジョージ・H・W・ブッシュからも「微笑ましい」という内容の手紙が届くほどの評判になった。また、サウスウエスト航空の社内では伝説として語り継がれている。この頃からは、他の航空会社もサウスウエスト航空の実力を認めており、その運航形態を見習うようになる。例えば、ユナイテッド航空はサウスウエスト航空の参入によって、ロサンゼルスとサンフランシスコを結ぶ区間で大きなシェアを奪われており、これに対抗するにはサウスウエスト航空並みの運航体系をとらなければならないと判断し、1994年10月1日より同区間において「シャトル・バイ・ユナイテッド」と呼ばれる別組織での運航を開始することを決めた。サウスウエスト航空はユナイテッド航空の動きを予想しており、「シャトル・バイ・ユナイテッド」の計画が判明すると、直ちにかねてから合併を申し入れていたモリスエアとの交渉に入り、1993年12月31日に合併を決定した。モリスエアとは路線網が重複しておらず、しかも保有機は両社ともボーイング737のみであったため、サウスウエスト航空にとっては都合がよく、ユナイテッド航空との競合区間で増便を行うための航空機も用意できたのである。それまでサウスウエスト航空は目立った他社買収などを行ったことがなかったが、この後他社の買収などが行われるようになる。1995年1月31日、サウスウエスト航空では電子航空券制度を導入した。これは、1994年にサウスウエスト航空の航空券がユナイテッド航空・コンチネンタル航空・デルタ航空のチケット予約システムから外されることになったことがきっかけで、独自の新しい予約システムを導入することになり、同時にチケットレスシステムの導入を行ったものである。2001年9月11日の同時多発テロ発生後、サウスウエスト航空は同年9月25日には利用促進キャンペーンの実施を発表した。同年、米国の航空会社が軒並み赤字に転落した中、サウスウエスト航空だけは利益を計上した。2002年からは初めて米国大陸横断路線などの長距離便にも参入することになり、同年9月よりロサンゼルスとワシントンを結ぶ路線の運航を開始した。ワシントンではボルチモア・ワシントン国際空港に乗り入れる、所要時間が5時間前後という路線であるが、使用機材は従来通りボーイング737が使用されるなど、これまでの路線と同様のサービスが提供される。2002年9月15日までは就航記念で往復198ドルという運賃が適用された。2005年5月、サウスウエスト航空は "Wright was wrong" (ライト修正法は間違っている)と題して、ダラス・ラブフィールド空港の発着に関する制限をつけている「ライト修正法」の撤廃を求める運動を開始した。紆余曲折はあったものの、2006年6月15日にライト修正法を撤廃するための法律整備に関係者が同意したと発表され、これを受けて同年10月19日よりラブフィールド空港からの通し運賃が設定されることになった。2005年12月8日、シカゴ・ミッドウェー国際空港で、サウスウエスト航空1248便は滑走路の積雪によりオーバーラン、空港敷地外に逸脱して自動車と衝突するという事故が発生した。巻き込まれた自動車に乗っていた子供が死亡したため、死亡事故ゼロの記録は途切れた。2010年7月に、「機械的な不具合」を天災などと同様の「予測不能な不可抗力による事故」として、サウスウエスト航空の運送契約に基づく補償対象外の事例に追加したことは広く話題になった。ただし、サウスウエスト航空の広報によると、今後も過去と同様に、機材不良などで影響を受ける乗客には補償を行うとしている。2010年9月27日、エアトラン航空の親会社であるエアトラン・ホールディングスを14億ドルで買収することを計画していると発表、2011年5月2日には買収手続きを完了したと発表した。サウスウエスト航空では、FAAが単一運航認証 (SOC) を発行するのは2012年ごろと見込んでおり、2014年までに完全統合することを目指している、と報じられた。運航を開始した1971年は、資本金は331万8000ドル、総資産は2208万3,000ドル、営業収益は213万3000ドルで、純損失が375万3000ドルであった。2010年の決算報告では、資本金は62億3700万ドル、総資産は154億6300万ドル、営業収益は9億8800万ドル、純利益が4億5900万ドルとなっている。年間輸送旅客数は、運航を開始した1971年ではわずか10万8554人であった。その後、事業規模を拡大した結果、1991年の年間輸送旅客数は約2521万人に増加していた。さらに2001年時点では約7363万人と10年間で3倍近くに増加しており、2007年には年間輸送旅客数が1億人を超えた。なお、サウスウエスト航空では、労働争議が原因で赤字になったことは一度もない。1978年にCEOに就任したケレハーが決めたもので、ノンフリルかつローコストでありながら品質感のある航空会社にするため、以下の3点を徹底的に遵守する方針が立てられている。また、対外的にも「愛」を前面に出している。ロゴマークはハートマークを採用し、旧カラーリングではすべての飛行機にもハートマークが描かれていた。公式サイトでも「LUV(=Love) is ○○○」というキャッチコピーを用いているほか、自社のことを "Love Airlines" という愛称で呼んでおり、ニューヨーク証券取引所 (NYSE) のティッカーシンボルは「LUV」である。開放的なコミュニケーションと強いチームコーディネートを促進することで、積極的な職場文化を作り上げている。サウスウエスト航空の人材戦略は、個人の能力よりもチーム全体での成果に焦点を合わせ、チームの発展に向けたものである。サウスウエスト航空は、業務と私生活のバランスを維持した上で、従業員の共同体と家族的なつながりを維持するよう奨励している。社員同士のみならず、社員の家族も含めたつながりを推奨しており、会社主催のパーティーには家族も招待されるほか、従業員の子供を定期的に職場に連れてくることが奨励されている。また、社内での地位に関わらずお互いをファーストネームで呼び合う習慣が形成されており、従業員が3万人を超えても、一貫して家族的な社風が継承されている。社員の80パーセント以上が労働組合に加盟しているが、サウスウエスト航空では常に会社のシステムが柔軟に運用できるように就業条件を交渉しており、定時出発率を維持するためには本来の担当業務以外の仕事にも対応できることとしている。定時出発するために、空港での荷物の積み込みを操縦士や客室乗務員が手伝うことは珍しくない。経営陣は出来るだけ現場を見て回り、その職場の業務を手伝うことで、現場感覚を身につけるように心がけている。繁忙期にはCEOをはじめとする経営陣も空港で荷物扱いなどの業務を手伝う。しかし、社員数が多くなると全ての従業員が経営陣と直接顔を合わせるのは困難になってきたため、社内向けに役員年鑑 "Our Colorful Leaders" を作成し配布している。この役員年鑑は、CEOをはじめとする役員が、仮装した写真とともに遊び心を盛り込んだ自己紹介を記しているもので、1997年当時の客室乗員部長は「これがわが社そのものである」と述べている。サウスウエスト航空は、企業ポリシーとして「顧客第二主義」「従業員の満足(Employee Satisfaction)第一主義」を掲げる。これは、不確定要素の存在する顧客よりも、発展の原動力であり信頼できる人間関係を築き上げることが可能な社員を上位に位置づけているもので、「従業員を満足させることで、却って従業員自らが顧客に最高の満足を提供する」という経営哲学を追求している。また、サウスウエスト航空の基本理念をまとめた内容には「ざっくばらんに」「ありのままの自分で」「仕事を楽しもう」「自分のことに真剣になるな」というキーワードがあるが、元バーガーキングCEOのバリー・J・ギボンズは「楽に構えて仕事をしろと勧める基本理念は見たことがない」と評している。また、従業員に対しては失敗を恐れずに新しいことに挑戦することを推奨し、たとえ40万ドルの損失を会社に負わせたとしても、会社側では責任者に対しては降格や解雇などは行わず、あらゆる手段で当該従業員の信頼を回復することに努める。サウスウエスト航空は、従業員の採用に際してユーモアのセンスがあることを重要視する。これは、「緊張を強いられることの多い仕事につく人にこそユーモアセンスが必要」というケレハーの持論によるもので、操縦士や客室乗務員、空港カウンターの従業員のみならず、本社や駐機場で勤務する従業員にも等しく求められるもので、「どんなに操縦士としての技術が優れていても、ユーモアを解さない社員はサウスウエスト航空の従業員として不適格」としている。また、客室乗務員の採用時には、サウスウエスト航空の顧客に「望ましい客室乗務員」の選定を依頼することがある。「乗客に空の旅を楽しんでもらう」ことを従業員に推奨しており、出発前の空港で係員や客室乗務員によってパフォーマンスが行われることがあり、そのためのガイドブックも用意されている。サウスウエスト航空では従業員が顧客にへつらうことなく良識を優先することを推奨しており、顧客が満足するための判断を従業員の裁量に任せる方針をとっているため、顧客を楽しませるためであれば社内規則を曲げるようなことであっても容認されることがある。ユナイテッド航空のシャトル便サービスが開始された際に空港職員が戦闘用の迷彩服を着用したり、聖パトリックの日に客室乗務員が小妖精の衣装を着用して乗務したり、運航中に乗客が連れていたマゼランペンギンの機内散歩を許可したりする事例は、すべて従業員の判断である。サウスウエスト航空の経営方針に対しては必ずしも好意的な意見ばかりではなく、「サウスウエストの従業員はふざけすぎている」という投書もある。これに対して、サウスウエスト航空は「ポリシーを変更する考えはない」と返信を送り、従業員を侮辱する顧客に対しては「今後乗らなくて結構です」と躊躇なく他航空会社の利用を勧める。ケレハーは、「『顧客がいつも正しい』と考えることは、上司が従業員に対して犯しやすい最大の背信行為」と述べている。社内では、何かしらの理由をつけて頻繁にパーティーやイベントが行われる。特にハロウィーンの時には、社内各部署でコスチュームコンテストが行われ、本社社屋では地元の小学生などがコスチューム目当てで見学に来るという。また、クリスマスパーティーは数回に分けて行われるが、年末の忙しい時期を避けるために7月や9月にクリスマスパーティーが行われることがある。このような社風から、サウスウエスト航空へ入社を希望する者の中には、応募書類をクレヨンで記入したり、ワイルドターキーの瓶にラベルのように履歴書を貼ったりすることさえあるという。離職率は7パーセント以下で、米国航空業界でも最も低い部類に入る。早い時期から、全部門でカジュアルな服装への移行を行っている。客室乗務員の服装は、夏服の場合ポロシャツ、キュロットパンツ、スニーカーである。創業当初、客室乗務員に制服として支給されたのはホットパンツとゴーゴー・ブーツであった。これは、創業時の主要な顧客層をビジネス客と定義し、機内でリラックスして過ごしてもらう方法を考えた結果、「ホットパンツとゴーゴー・ブーツを着用し、溌剌とした笑顔の女性客室乗務員によって提供される飲み物とピーナッツ」という結論となったことによる。一時期、フォーマルな制服を導入していた時期もあったが、顧客から不満の声があったため、数年でカジュアルな制服に変更されている。サウスウエスト航空は広告戦略でもユーモアを取り入れている。ユーモアを交えながら要点を強調することによって、ビジネス客と行楽客の双方の利用者層への売込みを図っている。また、競争に対しては真剣に取り組むが、競争相手を苦笑させるような広告戦略をとることがある。一例としては、ノースウエスト航空が顧客満足度がトップであるという広告を出した際に、会社としての正式な声明として "Liar, liar. Pants on fire." (うそ、うそ。真っ赤なうそ)と書いた広告を出したことがある。これまでに広告に使用されたキャッチフレーズとしては、 "The Somebody Else Up There Who Loves You" (あなたを愛する誰かがそこにいる)、 "Just Plane Smart" (ちょっと気の利いた飛行機)、 "THE Low Fare Airline" (唯一の低運賃航空会社)というものが挙げられる。広告は、サウスウエスト航空公式サイトでも参照可能である。また、利用者と直接接する従業員も「会社から顧客に対する情報伝達手段の一部」と捉えており、カジュアルでフレンドリーな会社のイメージを最大限に利用者にアピールすることを推奨したり、本社の通路や空港のカウンターに社内で行われたパーティーの写真などを掲出しているのも、その一環である。サウスウエスト航空ではコスト削減を人件費削減以外の方法で実行している。航空機については「地上にいる時には経費を生み、飛行している時に利益を生む」としており、航空機が地上にいる時間をできるだけ少なくすることを目指した結果、サウスウエスト航空の航空機は、1日平均11時間半稼動している。このため、航空機が到着すると、F1レースのピットインの時のようにいっせいに作業員が飛行機に近づき作業を行うことで、航空機の地上滞在時間を短縮している。米国同時多発テロ以前は、最低10分で折り返して出発していた。2004年時点では連邦航空局の規則に従ったため、平均25分となっている。これは、創業期には保有している航空機を売却することで手元資金を確保する必要に迫られ、1機少ない機材での運航を余儀なくされた結果であるが、以後サウスウエスト航空の特徴ともなっている。多くの格安航空会社と同様、客室乗務員が清掃など複数の仕事をこなす。機内清掃については、目に付く大きなゴミを拾う程度でよいとされているが、これも折り返し時間の短縮によるコスト低減を主眼としたものである。サウスウエスト航空では、折り返し時間の短縮は定時出発率の向上にも寄与するため、結果的には顧客の利益にもなるとしている。大都市の空港でも、発着便数が少ない小さな空港を選ぶことが多い。小さな空港の方が空港使用料が安いこと、また、空いている空港を使用することにより、空港での駐機時間を減らしてその分運航便を増やせることによる。フロリダ州とカリフォルニア州では燃料価格が他の州よりも高くなるため、給油のタイミングにも気を使っている。機種は後述するようにボーイング737型機に統一されている。これは「乗員はボーイング737を理解すれば、会社の機材全てを理解したことになる」という観点からのもので、整備コスト・教育コストの低減を図っている。一時的にリース機でボーイング727型機を運航したことはあるが、異なる機種の保有が非効率と判明したためすぐにリースバックされている。保有機材の25パーセントはリース機材としているほか、整備のアウトソーシング先は部品のメーカーとすることで安全性を確保している。また、ボーイング737-300型機の導入時には、地上作業の時間短縮を図るためにボーイングに対して下水排出用設備の設計変更を要請し、受け入れられている。2008年、サウスウエスト航空はプラットアンドホイットニー社のエンジン高圧洗浄装置の使用を契約した。航空機を搭乗ゲートに駐機した状態で、エンジンのタービンブレードから汚れと不純物を清掃可能なもので、頻繁にジェットエンジンの洗浄を行うことにより、燃費が約1.9%改善されると見積もられている。サウスウエスト航空は人件費をコスト削減対象とはしていない。「会社にとってもっとも大事な従業員に対しては高水準の賃金が支払われるのが当然」という考えによるもので、レイオフについては「短期的な解決策でしかない」、「人員を削減した結果、出発準備に手間取り遅延が発生するのは本末転倒」としており、米国航空業界全体が不振に陥った時も、レイオフも減給もしない方針を貫いている。サウスウエスト航空の総運航コストにおける人件費率は41%で他の格安航空会社より10%前後高く、デルタ航空の人件費率が44%であるのと比べても高い。給与水準は大手航空会社と比較しても遜色なく、操縦士は全米3番目、客室乗務員は全米5番目、地上作業員と整備士は全米最高の給与水準であるという。なお、サウスウエスト航空では1973年以降、取締役会がそうすべきと考えたという理由により、特に賃金交渉などを行わないまま従業員持株制度と利益分配制度を導入している。1997年時点では全株式の10パーセントが従業員保有となっており、課税前の営業利益の15パーセントが全従業員に分配される。従業員は、分配利益の25パーセントをサウスウエスト航空の株に投資することになっている。運航乗務員や客室乗務員については乗務手当が支払われるが、この算出は時間単価ではなく会社が指定した「トリップ」という単位を利用し、その日の移動距離に応じて支払われる。従業員の訓練期間中は無給であり、交通費などの必要経費以外は支払われないが、これは大手のユナイテッド航空でも同様の方法をとっているなど、サウスウエスト航空特有の話ではない。サウスウエスト航空は、好調な時期にやりくりを行うことで不況に備えるようにしている。サウスウエスト航空は燃料取引については、財政力を後押しとした積極的な情報収集をしている。中には、1999年から2000年代前半にかけての燃料取引についての考えが、サウスウエスト航空とは正反対の意見を表明していたアナリストもいた。彼らはむしろ、サウスウエスト航空は根拠なしに燃料価格を予測していたとしている。2008年の第3四半期では、燃油ヘッジの価格より燃料価格が下落したことにより、サウスウエスト航空は17年ぶりに損失を計上した。事業拡大の過程では、他の航空会社の買収も行われている。これまでに3社を買収しており、2011年現在で1社の買収手続きが完了している。1985年6月25日、経営が悪化していたミューズエアを6050万ドルで買収した。買収後、社名をトランスター航空に変更し、サウスウエスト航空傘下の別会社として運航を行った。買収された後は、サウスウエスト航空の就航していない地区への路線展開を行ったが、1987年8月9日に運航停止となった。1993年12月には、米国北西部への事業拡大として、ユタ州ソルトレイクシティーを拠点とするモリスエアを1株あたり134ドルで買収した。買収後は完全にモリスエアはサウスウエスト航空に吸収合併された。モリスエアの創業者の一人であるデビッド・ニールマンは、しばらくサウスウエスト航空に勤務していたが、ほどなく退社。後にジェットブルー航空を設立した。2008年に連邦倒産法第11章の適用を受けたATA航空の資産を750万ドルで購入した。これは、それまでATA航空が使用していたニューヨーク・ラガーディア空港の設備利用権利と発着枠を得るのが目的で、ATA航空保有の航空機や社員などは含まれていない。2010年9月27日、サウスウエスト航空は、オーランドを拠点とするエアトラン航空(旧バリュージェット航空)の親会社であるエアトラン・ホールディングスを14億ドルで買収することを計画していると発表した。この買収により、エアトランの拠点空港かつサウスウエスト航空が乗り入れていない最大の都市であったアトランタや、新たにメキシコ・カリブ海・アトランタを含む38都市への乗り入れが実現する。2011年5月2日に買収が完了したと報じられ、その後合併まではサウスウエスト航空とエアトランは別々の航空会社として運航を続ける。買収による事業拡大は、うまく行ったケースばかりではない。2009年7月30日、サウスウエスト航空は経営破綻したフロンティア航空の買収価格を1億1360万ドルと発表した。当初、サウスウエスト航空ではフロンティア航空を別会社として傘下に組み込む予定であったが、最終的には合併の上でフロンティア航空の航空機をボーイング737に取り替える計画となった。しかし、同年8月14日には、入札でリパブリックエアウェイズ・ホールディングスに敗れた。専門家は、デンバーへの事業拡大という点から、サウスウエスト航空が入札で勝利すると予想していた。サウスウエスト航空では、買収失敗の要因として、両者のパイロット組合と合意できなかったことを挙げている。サウスウエスト航空の本社は、テキサス州ダラスのラブフィールド空港敷地内にある。創業当初はダラス市内のビルに本社を設置していたが、1990年に現在地に移転した。その時点で、2万3800平方メートルの敷地に約650人の従業員が勤務していた。現在の建物は1500万ドルをかけて建設されたが、その時に設計を担当したのはテキサス工科大学を卒業したばかりの新入社員で、これもサウスウエスト航空の「因習にとらわれない姿勢の表れ」とされている。1995年には本社を5600平方メートル拡張している。 2006年時点では、約1400人の従業員が、3階建ての社屋で勤務していた。1996年3月、3000万ドルを費やして、既存の本社敷地に追加する形で、2万8千平方メートルの拡張を行うと発表した。1996年3月13日にはこの工事はダラス市議会で満場一致で可決された。サウスウエスト航空では、合計4ヘクタールの土地をダラス市から借り受け、本社拡張と同時にパイロット訓練施設の建設と、駐車場の増設を行った。これらは当初予定通り1997年3月に完成した。パイロット訓練施設が移転し、本社は北側に拡張された。毎年冬には、サウスウエスト航空の就航都市に在住する飛行機運賃を支払う資力のない高齢者を対象に「ホリデーにはホームへ」キャンペーンを行っている。対象者が故郷に帰って身内と会うことを支援するもので、無料の航空券が提供される。1986年と1987年には、当時の大統領だったロナルド・レーガンから表彰されている。1985年以降、難病の子供とその家族を支援するための宿泊施設「ロナルド・マクドナルド・ハウス」への支援活動を行っている。単純に寄付するだけではなく、従業員有志が月例夕食会やクリスマスパーティーを開催するという内容で、1994年にはハウスに多大な貢献をした会社として表彰されている。サウスウエスト航空はテキサス州における高速鉄道の建設に反対している。他の米国の大手航空会社が「ハブ・アンド・スポーク型」と呼ばれるネットワークを持つのに対して、主に米国の地方空港同士を結ぶ「ポイント・トゥ・ポイント型」の航空網を持っている。これは、ダラス・フォートワース国際空港の開港時に、サウスウエスト航空の拠点であるラブフィールド空港からは、隣接する州以遠の路線を運航することができないという法律(ライト修正法)が制定されたことが発端で、サウスウエスト航空では隣接する州同士を結ぶ路線を展開した。ただし、多くの路線が集中する一部の空港で便宜的なハブ機能を有する事例はある。サウスウエスト航空の路線展開は、資金が潤沢にあり、利益が出ると見込めるときに限って行われ、決して会社の体力に対して背伸びをするようなビジネスは展開しない。また、就航路線の決定の際には綿密な事前調査を行い、需要があるにもかかわらず供給不足で運賃が高いと判断される都市には、就航可能なタイミングを逃さないように準備を行う。基本方針として、片道650キロメートル前後で所要時間1時間程度の短距離区間の輸送を守備範囲としており、着陸料などが低く都市部に近く便利な二次空港に乗り入れることが多い。例えば、シカゴではオヘア国際空港ではなくミッドウェー空港に、ヒューストンではインターコンチネンタル空港ではなくホビー空港に、同社の拠点であるダラスでもダラス・フォートワース国際空港ではなくラブフィールド空港に発着している。ただし、十分な利益が見込めると判断された場合は片道2000キロメートル以上の中・長距離路線の運航も行い、最も効率よく航空機を活用できる空港であると判断された場合には、ロサンゼルス・ラスベガスではそれぞれロサンゼルス国際空港・マッカラン国際空港など、他社と同じ大空港に乗り入れるなど、必ずしも基本方針には固執せずに柔軟に対応している。基本的に一度就航した地区からの撤退はしないが、コロラド州デンバーでは、不安定な天候と過度な混雑により遅れが多発したことや、デンバー国際空港の開港と同時に市街地に近いステープルトン国際空港が廃港となった際に、空港利用料が高くサウスウエスト航空のビジネス形態に合わず、低運賃が実現できないと判断されたため、1986年に撤退している。その後、2006年からはデンバー新空港に乗り入れを再開している。サウスウエスト航空の乗客の80パーセントは地元の利用者で、乗り継ぎなどを行う利用者は全体の20パーセントに過ぎない。これは、他の航空会社と比較しても高い数値である。2011年3月27日現在、サウスウエスト航空は1日3300便を運航し、37州72都市に乗り入れている。最新の乗り入れ空港は、2011年3月27日乗り入れを開始したニューアーク・リバティー国際空港である。1979年までに、サウスウエスト航空はテキサス州のエルパソ、アマリロ、コーパスクリスティ、ハーリンジェン、ラボック、ミッドランド/オデッサへの路線を開設していた。各州間を結ぶ路線は1979年のニューオーリンズ乗り入れ、1980年のアルバカーキ乗り入れが最初で、その後すぐにオクラホマシティとタルサへの乗り入れが開始された。1982年にはフェニックス、ラスベガス、サンディエゴの3都市への乗り入れで米国西海岸に進出、1985年3月にはシカゴ・ミッドウェイ空港とセントルイスへの乗り入れにより米国中西部へも進出した。2008年11月に、サウスウエスト航空は、以前にATA航空によって使用されていたラガーディア空港での14の発着枠(毎日7往復分)の購入を申請し、約1カ月後に承認された。その後、2009年3月の下旬に計画が立案された。同年4月前半に、14の発着枠だけであるにもかかわらず、1日16回の発着便(シカゴ・ミッドウェイ空港への5往復とボルチモア・ワシントン国際空港への3往復)の戦略的な計画があると発表された。2009年6月28日にサウスウエスト航空はラガーディア空港での業務を開始、さらに目的地を増加させることにより業務拡大を目指している。2009年2月、サウスウエスト航空はボストン・ローガン国際空港への運航を同年秋に開始すると発表、同年8月16日よりシカゴ・ミッドウェイ空港とボルチモア・ワシントン国際空港へ、それぞれ5往復ずつの運航が開始された。サウスウエスト航空では、ニューハンプシャー州マンチェスター・ロードアイランド州プロビデンスへの運航の補助的な意味合いもあると説明している。また、この都市の地元紙「ボストンヘラルド」は、今後ローガン空港での搭乗ゲートを2つ追加することも選択肢に上っていると報じた。サウスウエスト航空では、ボストン在住のビジネス利用者に対して低運賃の航空券を提供できることを期待している。2009年10月、サウスウエスト航空はフロリダ州パナマシティの近郊に存在するノースウエストフロリダビーチ国際空港から、ボルチモア・ワシントン国際空港、オーランド、ヒューストン・ホビー空港、ナッシュビルへの路線開設を発表し、2010年5月24日より運航開始した。2010年5月11日には、サウスカロライナ州のグリーンビル・スパータンバーグ国際空港(GSP)とチャールストン国際空港(CHS)への乗り入れを表明し、2011年3月13日より両空港からボルチモア・ワシントン国際空港、オーランド、ヒューストン・ホビー空港、ナッシュビル、シカゴ・ミッドウェイ空港への直行便の運航を開始。2010年8月27日、サウスウエスト航空は、ニューアーク・リバティ国際空港において、コンチネンタル航空とユナイテッド航空の合併に伴い、合衆国司法省によって剥奪された36回分の発着枠を受けることになったと発表した。同年10月28日には、2011年3月27日よりリバティ空港からシカゴ・ミッドウェイ空港へ6往復、ランバート・セントルイス国際空港へ2往復の直行便を運航すると発表した。さらに、2011年6月5日にはボルチモア・ワシントン国際空港とデンバーに3往復ずつ、ヒューストン・ホビー空港とフェニックスに2往復ずつの運航を開始する予定である。2011年1月現在、サウスウエスト航空は米国外が目的地となる直行便の運航は行っていない。サウスウエスト航空の利用者が米国外へ向かう場合の手段として、他の航空会社とのコードシェア便によるサービスを提供している。なお、2011年5月2日に買収を完了したエアトラン航空は、メキシコとカリブ海などの目的地への国際線の運航が行われており、エアトランとの合併は、国際線進出への画期的な機会と報じられている。客席はすべてエコノミークラスで、定員制自由席で指定席ではない。電子航空券制度を採用しており、紙の航空券は発券されない。他航空会社との乗り継ぎのための時間調整は行わず、荷物転送もしない。2011年に買収したエアトランではビジネスクラス設定や座席指定サービスが提供されているが、サウスウエスト航空への統合と同時に単一クラスで自由席というサウスウエスト航空本来のサービス内容に統一される。搭乗手続き(チェックイン)が行われた順に、A・B・Cという搭乗グループに分類され、Aグループはさらに1番から60番までに分けられ、搭乗券にはそのグループ番号が記載される。2000年頃までは搭乗券は色のついたセルロイド板で、搭乗時に回収して再利用されていた。座席の指定は行われない。出発24時間前まではオンラインチェックインも可能。搭乗口付近には搭乗グループ別に案内表示があり、搭乗時刻前に指定された案内の位置に並び、順番に搭乗する。機内放送は突飛なもので知られており、時には客室乗務員が歌を歌う。客室乗務員がハットラックに隠れて乗客を驚かせたり、緊急時の案内アナウンスやデモンストレーションを乗客の中から募って実施してもらったりすることさえある。概ね好評であるが、何人かの旅行評論家は「不快で押しつけがましい」としている。機内サービスについては、ドリンク類やピーナッツは提供されるが、機内食のサービスはなかった。これは「その分運賃を安くしたほうが乗客は喜ぶ」というポリシーによる。近年は長距離路線でブレッドスティック・クッキーなどのスナック類が提供されている。ソフトドリンクとスナック類は無料、アルコール類は有料である。ドリンクサービスはカートに何種類もの飲み物を準備して巡回する方式ではなく、個別に注文を受けてからギャレーで準備して、トレイで再度客席に持ってくるという「テイクオーダー方式」で、有料のドリンク類はそのつど代金を徴収する。これは飛行時間(フライトタイム)の長短に関わらず、たとえ飛行時間が30分程度でも同じである。また、飛行時間の長短に関わらず、お代わりのオーダーも確認するが、飛行時間35分でのお代わりオーダーは「もはやミラクル」とも評されている。機内エンターテイメント装備は全く導入していないが、機内誌は用意されている。ボーイング737-700型機では、3人がけ座席の中央列の座席背面にAT&Tのクレジットカード式機内電話が設置されている。格安航空会社ではあるが、機内の座席配置は標準的なもので、特にシートピッチを狭くして定員を増加させるようなことはしていない。2009年2月から行われたテスト運用の後、サウスウエスト航空は2009年8月21日に衛星通信による機内無線LANブロードバンド接続のサービスを開始すると発表した。2010年の第1四半期から、全保有機に対して装備していく計画である。格安航空会社では手荷物の預託を有料にしている航空会社も存在するが、サウスウエスト航空では機内への手荷物預託は規定のサイズの範囲内であれば2個まで無料である。また、ペットの持ち込みは、規定のサイズの範囲に収まるサイズのペットキャリアに入れた状態であれば、追加料金を支払うことで機内への持ち込みが可能である。サウスウエスト航空では、機内への持込に適したサイズのペットキャリアの販売も行っている。機内誌は「Cloud 9 magazine」がある。以下のようなオプションも存在する。ラピッド・リワーズ (Rapid Rewards) は、サウスウエスト航空のマイレージプログラムである。1996年4月25日から運用を開始した。サービス開始当初は、1フライトごとにクレジットが2つ加算され、1年以内に16クレジットを獲得することで無料航空券が得られるというシンプルなものであった。この無料航空券は、特に区間の指定が無く全路線に有効なものであった。2011年3月1日からプログラムの内容は大幅に変更された。変更後のプログラムでは、搭乗マイル数ではなく航空券の金額によってポイントが加算される。年間で25回搭乗か35000ポイントのいずれかの条件を満たすと「A-List」というステイタスとなる。「A-List」ステイタスの会員は、加算ポイントが25パーセント増
出典:wikipedia
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