パンク・ロック (Punk Rock) は、1970年代中頃に生まれたロックのスタイルの一つ。パンクと略称されることが多い。アメリカのニューヨークのボヘミアン的なロック・シーンに産声を上げ(ラモーンズ、パティ・スミスなど)、1976年にはその影響を受けたセックス・ピストルズがイギリスのロンドンでデビュー。その後、イギリスに同傾向のバンドが続々と登場し、ロックの一時代を築いた。当初は反体制的、または左翼的なメッセージを歌うバンドが多かったが、次第に政治的な色彩は弱まっていった。パンクの音楽性の一部はニュー・ウェイヴに引き継がれた。日本のパンクバンドについては、日本のパンク・ロックの項を参照。1977年のロンドン・パンク・ムーブメントは短期間で終息し、入れ代わるようにポストパンク/ニュー・ウェイヴが台頭した。。一方、これらに反発するように台頭したエクスプロイテッド、GBH、ブリッツ、コックニー・リジェクツといった。アメリカでは、ハードコア・パンク・バンドのバッド・ブレインズ、マイナー・スレット、ダグ・ナスティらがワイヤーの曲を盛んにカバーした。こうした背景から、後にハードコア・パンクの聖地と呼ばれたワシントンDCでは、ハードコア・パンクの暴力性を否定するポスト・ハードコアが生まれた(レボリューション・サマー)。。サウンドガーデン、ダイナソーJr、マッドハニー、フー・ファイターズ、ロリンズ・バンド、ジーザス・リザードらがその代表的なバンドである。スリーコードを機軸としたスタイルにパワーコードを加えた簡素なロックンロールであるが、ザ・フー、ローリング・ストーンズ、キンクスといった1960年代のロックンロールバンドとの決定的な違いは、ブルースの匂いが払拭されていることとそれらの音楽に見られなかったスピード感が挙げられる。ジョニー・ロットンがセックス・ピストルズを脱退した後、「自分は思想的アナーキーではなく音楽的アナーキーだった」、「自分は決して反キリスト者ではなく、むしろその対極の人間だった」とインタビューで語ったように、パンク・ロックは(たとえば1960年代のボブ・ディランのようには)政治的ではなかった。マネージャーのマルコム・マクラレンによって仕組まれたスキャンダルの乱発は、たんに話題性を狙っただけのものだった。アンダーグラウンドでパンクを継承したクラスは、DIY("Do It Yourself"=自分達でやる)という言葉をスローガンとして掲げた。これは多くのパンク・ロック・バンドに影響を与えた。ニューヨーク・パンクは、1960年代後半にアメリカでアンダーグラウンド的に人気を得ていたMC5、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ザ・ストゥージズ、ニューヨーク・ドールズなどに影響を受けて生まれた。ただし、。。しかし彼らは、、世界的な商業的成功を得ることは出来なかった。ポップ色の強いブロンディ、ワールドミュージックに傾倒したトーキング・ヘッズなど、パンクから派生したいくつかのニュー・ウェイヴ・バンドが、それなりの商業的成功を収めたに止まる。このニューヨークでのアンダーグラウンドの動きに注目したのは、大西洋を隔てたイギリスである。ラモーンズのロンドン公演などを機に、ロンドンを中心にニューヨーク・パンクを模倣したバンドが多数結成されるようになった。ロンドン・パンクの特徴としては、初期のロックンロールが持っていた攻撃性と反社会性、スリーコード中心の曲調が挙げられる。また、少し前に流行っていたパブロックといわれる音楽も、ロンドン・パンクに大きな影響を与えた。破れた細いジーンズや古Tシャツ、革ジャン、よれよれのジャケットなどのファッションも若者の間で流行した。初期に人気があったのはストラングラーズとセックス・ピストルズであるが、アメリカ進出は成功せず、後発といえるザ・クラッシュが、アメリカでそれなりの成功を収めた。ストラングラーズは、1974年にロンドンで結成された。当時の流行から外れた短い髪、細いズボン、短いギターソロ、攻撃的な歌詞と音楽。、次第に人気が出てきた。ストラングラーズは、アイスクリーム販売用のバンでイギリス国内を移動してライヴを行った。やがて反体制的なパンクバンドとして右翼団体の標的となるなど問題も抱えつつ、各アルバムをイギリスのトップ5に送り込むようになる。セックス・ピストルズは、ロンドンで「SEX」という名前のブティックを経営していたマルコム・マクラレンが、店にたむろしていた若者たちが作ったアマチュア・バンドに介入し、1975年にライブデビューさせた。破れたシャツ、安全ピン、逆立てた髪という奇抜なファッションは、マルコムの助言によるものだと言われている。メンバーのグレン・マトロックとジョニー・ロットンが作ったオリジナル曲の数々は、アナーキズムを煽動したり、エリザベス女王をおちょくるなど、当時の保守的なイギリスにおいては考えられないほどタブーを犯すものであり、そのことがマスコミの好餌となり、スキャンダリスティックに取り上げられた。ライブでは客に唾を吐きかけ、テレビに出演すれば必ず司会者とトラブルを起こすと言われ、イギリス中の話題となり、パンクがメジャーに進出するきっかけを作った。、アナーキーというをポップ音楽の中に定着させたのは、彼らである。1976年、ダムドがデビュー。ロンドン・パンクで最初にシングル及びアルバムをリリースした。ほかのパンク・バンドに比べて政治色が薄く、圧倒的な演奏のスピードが特徴で、アルバム『地獄に堕ちた野郎ども』が大ヒットした。ザ・クラッシュは1976年にロンドンで結成され、翌1977年『白い暴動』でデビュー。2作目のアルバムは直球なパンクだったが、パンクと通じる精神性をもつレゲエ、カリプソ、ロカビリーへの接近を試みた、1979年のアルバム『ロンドン・コーリング』を発表、次第に普遍的なロックバンドへと成長していく。シングル「ロック・ザ・カスバ」のヒットによってアメリカでも人気を得、スタジアム規模のライブツアーを何度か行った。他に、ザ・ジャムがネオモッズ・ムーブメントを巻き起こし、UKチャートでNo.1ヒットを4曲も出すなど、1982年の絶頂期に解散するまで人気バンドとして君臨した。ベテランのミュージシャン達によって結成されたポリスでさえ、デビューアルバムはパンクであった。また、スペシャルズやマッドネスなどの2トーン系スカバンドが人気を博した。ブームの火付役であったセックス・ピストルズは、アメリカ・ツアーの途中で空中分解し、ジョニー・ロットンの脱退により、スタジオ・アルバム1作を残しただけで実質解散。ジョニー・ロットン改めジョン・ライドンは、新たにPIL(パブリック・イメージ・リミテッド)を結成。カンやキャプテン・ビーフハートなどの前衛ロックや、レゲエの先進的なミキシング方法であるダブなどの影響を採り入れた音楽は話題となり、パンクからニュー・ウェイヴへという時代の変化を印象づけた。イギリスでは、失業者の増加と言う社会問題が下地となって、若者たちの不満、怒り、反抗、暴力性などを掬い上げたパンクが大きな社会現象となった。ジェネレーションX(ビリー・アイドルが在籍)などのポップなバンドも次々に生まれ、盛り上がった。ファッション、芸術、文学にまでその波は広がり、セックス・ピストルズ以上に髪を逆立たせ、服を破いたスタイルのロンドン・パンク・ファッションは世界中で知られた。。1978年にセックス・ピストルズは解散し、パンクは沈静化を迎えた。しかし1980年代、クラスをきっかけに、ディスチャージ、G.B.H.、エクスプロイテッドといったネオ・パンクバンドが次々に登場、いわゆる「ハードコア(極端)・パンク・ムーブメント」で、シーンは再活性化する。特に「アナーキー&ピース」をスローガンに掲げたクラスは、メンバーが共同生活し、半自給自足の生活を送るなど、反システム、アナーキズムを貫き、パンク・ロックにより過激な主張を持ち込んだ。 また、ハードコアとは別に、が勃興する。。これは、。アメリカにおいても、1970年代後半にニューヨーク・パンクやロンドン・パンクに影響を受けたバンドが次々と誕生、ブラック・フラッグやバッド・ブレインズといった有力バンドにより、各地でハードコア・シーンが生まれた。局地的・アンダーグラウンド・レベルな現象の全貌を明らかにするのは難しいが、西海岸のファンジンの中には長期にわたって情報センターの役割を果たしたものもある。1977年創刊のロサンゼルスのフリップサイド誌は、ガレージやポスト・パンク等雑多だった時代からのファンジンである。バークリーのカレッジラジオ局のパンク番組「マキシマム・ロックンロール」が、ファンジンを創刊する1982年には全米的な規模でハードコアリポートが掲載されるようになった。「マクシマム・ロックンロール 2号」のニューヨーク発リポートでは、ハードコア・バンドだったビースティー・ボーイズの自主制作盤発売が伝えられている。とはいえ、同誌においても誌面はハードコア一本槍だっわけではなく、レビューの半数を占めていたのは、カレッジロックやガレージ的なバンドであった。一般的なイメージとは裏腹に、ハスカー・ドゥやバッド・ブレインズのように大手レーベルと契約するバンドが増え、またSSTやディスコード・レコードのような個人レーベルがディストリビューションを拡大し、クロスオーバーやスピードコア、ユースクルー・ハードコアが台頭する。。東海岸では、アグノスティック・フロントやクロ・マグスらに代表されるハードコアのメタル化やクロスオーバー、それらに反発するユース・オブ・トゥディらストレート・エッジの。一方、ハードコア生誕の地、ワシントンD.C.ではストレート・エッジを提唱した人気バンドマイナー・スレットの解散後、フロントマンであり自主レーベルディスコードのオーナーでもあったイアン・マッケイは、暴力化・様式化するハードコア・シーンに反発した音楽活動を開始、。アメリカにおけるハードコア・ムーブメントはアンダーグラウンドな動きに留まったが、その過程において各地のバンド、インディ・レーベルを結ぶネットワークが出来上がる。そのような状況下、サウンドガーデンやグリーン・リヴァー、マッドハニーといったバンドが、シアトルのインディ・レーベルサブ・ポップより次々とデビューし、シアトルのアンダーグラウンドシーンは盛り上がりを見せる。そして、1980年代初めからニューヨークのアンダーグラウンドシーンで活躍していた ソニック・ユースが、1990年にメジャー・レーベルのゲフィン・レコードよりデビュー、翌1991年にはニルヴァーナが『ネヴァーマインド』でメジャー・デビューし、全世界で3,000万枚を売り上げる大ヒットを記録する。その後、パール・ジャムなどが次々とメジャー・デビューし、グランジ・ブームが訪れる。また、1990年代にアメリカ北西部のオリンピア・ポートランドを中心に、グランジ/オルタナティヴ・ロックと同時期にライオット・ガール(Riot Grrrl)といパンクロック版フェミニズム・ムーヴメントが起きた。しかしながら、1994年にニルヴァーナのリーダーであったカート・コバーンが自殺すると、グランジがオルタナティヴ・ロックに呑み込まれる形で、グランジ・ブームは急速に終息を迎える。1980年代後半にバッド・レリジョンが、ハードコア的なサウンドをよりメロディックにスピーディーにさせたスタイルを確立。NOFXやペニーワイズ、。
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