F-86は、アメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発したジェット戦闘機。愛称はセイバー(Sabre)である。CL-13、CA-27、FJ-2、FJ-3については#派生型節を参照。1947年10月に初飛行。後に生産国のアメリカをはじめ、1950年代以降に多くの西側諸国で正式採用された亜音速ジェット戦闘機で、アメリカ空軍が1950年代初頭より主力戦闘機として最も重きを置いて配備を急いだ傑作機であった。第1世代ジェット戦闘機に分類される。武装は当初こそ平凡なものであったが、後に空対空ミサイル(サイドワインダー)が開発されるとその有効性を実証し、派生型も含めて9,860機が製造された。第二次世界大戦末期の1944年にノースアメリカン社は、大日本帝国海軍に対抗する艦上ジェット戦闘機案NA-134をアメリカ海軍に提案していた。これを受けて、1945年1月1日、アメリカ海軍は艦上ジェット戦闘機XFJ-1の開発を発注した。これは、P-51の主翼と尾翼をそのまま流用し、胴体のみジェットエンジン搭載の新設計のものに変えた機体である。この機体の開発を受けて、アメリカ陸軍航空軍は1945年5月23日にXFJ-1の陸上型XP-86の開発を発注した。そんな最中の1945年6月に、ノース・アメリカン社は前月連合国に降伏したばかりのドイツ国内の占領地から後退翼に関するレポートといった、大量の航空機の先進的実験データを得た。このデータを基にノースアメリカン社は開発中のXP-86の設計を変更し、高速戦闘機に必要な後退翼を装備させる必要があるとして、設計中の機体を後退翼機にする許可を求めた。アメリカ陸軍はこれを了承し、P-51から流用した主翼・尾翼に代えて新設計の後退翼を採用した。完成した試作機XP-86は、第二次世界大戦の終結には間に合わず、大戦が終結してから約2年2か月後の1947年10月1日に初飛行を行う。予想以上の速度性能と、機体運用の実用面で特に問題がないと判断され、P-86の実用化は急速に進められ、1948年9月には、最初の量産型であるA型が、緩降下による1079.6km/hを記録して当時の世界最高速度を樹立している。1949年にはA型が実戦部隊へ配備される。この後、アメリカ陸軍航空軍はアメリカ陸軍から独立してアメリカ空軍となり、それに伴って使用する航空機の命名法が変更された。陸軍航空軍の戦闘機は追撃機と呼ばれ、追撃(pursuit)の頭文字Pから始まる一連の番号が振られていたが、1948年6月から戦闘機(fighter)の頭文字Fが与えられるようになった。そのため、P-86AはF-86Aと改称された。主翼は、鹵獲したドイツ軍機の開発研究データを参考に開発した低翼配置の35度の前縁後退翼を採用しており、主翼後縁には、内側にスロテッド・フラップ、外側には補助翼を装備している。垂直尾翼と水平尾翼も同じく後退翼が採用されており、機体後方両側には、横方向に可動するエアー・ブレーキが取付けられている。また、垂直尾翼の先端前方にはVHF/IFF用のアンテナが装備されている。コックピットのキャノピーの形状は涙滴型であり、座席には射出座席を装備している。エンジンへの空気取入れ方式はノーズ・インテイクを採用しており、ノズルは機体末端に付けられている。機体末端下部には、緊急の際に機内の燃料を排出するための燃料緊急排出弁が取付けられている。生産の途中で空力的に様々な改良を受けており、E型以降は全遊動式(オールフライングテイル)の水平尾翼を装備し、主翼についても、後退翼は低速度において翼端失速を起こしやすいため、主翼上面の空気の流れを制御することで翼端失速を遅らせる機能を持つ前縁スラット型と境界制御型の2種がある。機銃はインテイク周辺に12.7mmM3機関銃計6門を集中装備としている。また、F-86Aのバッチ3(F-86A-5)以降では、レーダーを使用した火器管制システムが搭載された、これは、機首部に搭載されているレーダー・アンテナからマイクロ波を発射して目標までの距離を測定して、それを元にコンピュータが大気密度・風向・風速などの条件を加えて、目標の未来位置をコックピットの照準器に照準線(レティクル)を表示するものであり、これにより、射撃精度は飛躍的に向上した。主翼下には増槽や爆弾、ロケット弾の携行が可能で、後に空対空ミサイルも携行するようになった。F-86A-5ではAPG-5測距レーダーによるA-1Bレーダー照準器、F-86A-6では改良型のA-1CMレーダー照準器が採用され、F-86A-7ではさらにAPG-30測距レーダーが導入された。この測距レーダーはMA-2火器管制装置の中核となる装置であり、F-86Eにおいても搭載された。また、F-86Fにおいては、改良型のMA-3が採用された。F-86の名を上げたのは、初の実戦である朝鮮戦争における活躍であった。国連軍が朝鮮戦争に参加した当初、金日成の朝鮮人民軍は本格的な航空兵力を持たず、アメリカ海軍の艦載機グラマンF9F パンサーやアメリカ空軍のリパブリックF-84G、ロッキードF-80 シューティングスターなどの直線翼を有するジェット戦闘機はもちろん、第二次世界大戦中に活躍したF-51DやF4U コルセアといったレシプロ機も活躍できるほどであった。しかし、1949年に成立した中華人民共和国の抗美援朝義勇軍が参戦すると、ソビエト連邦から大量に貸与された中国人民解放軍所属のMiG-15が鴨緑江を越えて飛来するようになり、直線翼のジェット戦闘機では対抗しきれないと判断したアメリカ空軍は急遽、F-86を投入し、朝鮮半島上空にて史上初の後退翼ジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。F-86は一部の機体性能ではMiG-15に劣っていたが、パイロットの技量や高性能のレーダー照準器によって優位を勝ち取ることができた。結果、投入から休戦までの約2年間で損失78機に対し撃墜数約800機とキルレシオ10以上の戦果を上げた。空対空ミサイルが初めて実戦で使用され、撃墜を記録したのは1958年9月24日に中華民国金門馬祖周辺の台湾海峡において行われた、台湾空軍と中華人民共和国の人民解放軍空軍との交戦(金門砲戦)とされている。この戦闘において、台湾空軍はアメリカから供与されたAIM-9 サイドワインダー空対空ミサイルを装備したF-86F戦闘機をもって人民解放軍のMiG-17F(またはJ-5)と交戦、11機を撃墜した。アメリカでは、朝鮮戦争後にその戦訓を取り入れたセンチュリーシリーズを始めとする超音速戦闘機が短期間で開発されると急速に陳腐化していったが、世界各国にその優秀さが認められたことで、日本やイタリア、フランスを始めとする同盟国や友好国へ大量に供与されることとなった。生産は1950年代中期まで続けられ、アメリカ国外ではカナダやオーストラリア、日本などでライセンス生産が行われた。カナダとオーストラリアではエンジンを強化型に換装するなど独自の改良が施され、オリジナルとは別に輸出も行われた。1960年代に超音速戦闘機が多くの国で配備されるようになった後も使用され続け、1970年代の第三次印パ戦争にも姿を見せた。それでも後継となる新鋭機の登場などから旧式化し、1980年代には概ね姿を消すことになる。1993年2月にボリビア空軍機の退役により、全機が退役した。現在では軍から払い下げられた機体が民間のアクロチームや個人所有の機体として飛行する姿を見ることができる。アメリカ海軍向けの艦上機型。面積の限られる航空母艦の格納庫や飛行甲板に駐機するための主翼折り畳み機構、着艦用のアレスティング・フックなどが追加された。FJ-1は前述したようにF-86の採用に先立ってアメリカ海軍に採用された戦闘機であるが、低性能のため実戦機としては使用されず、練習機として使用された。後に改良されたF-86が空軍において素晴らしい性能を発揮したのを見て、海軍もF-86Eに艦載機としての改造を施し機銃を20mm機関砲4門に変更した機体をFJ-2として採用したが、この型は離着艦性能に難があったため全て海兵隊で使用された。その後、エンジンをJ65に強化したFJ-3が製造されて海軍で使用された。FJ-2が203機、FJ-3が538機の合計741機が製造され、さらに大幅な改設計を加えたFJ-4も製造された。1962年の命名規則改正で3軍の制式記号が統一されたのに伴い、FJ-3はF-1Cに、FJ-4はF-1Eに呼称変更された。日本においては、航空自衛隊の主力戦闘機としてF-86Fを435機、全天候型戦闘機としてF-86Dを122機配備した。F-86Fのうち18機は偵察機RF-86Fに改造された。空自での正式な愛称は旭光(きょっこう)。ブルーインパルスの初代機体でもあり、1964年東京オリンピックにて大空に五輪旗を描いたことでも有名で、長く活躍したことから「ハチロク」と呼ばれて親しまれた。1954年の航空自衛隊の発足に際し、アメリカの相互防衛協力関係強化を目的に相互安全保障法(MSA)に基づく相互防衛援助計画(MDAP)を開始する。T-6練習機やC-46輸送機などの第1次供与に続き、F-86FやT-33ジェット練習機を日本国内での航空機組み立てを決定する。F-86Fが選ばれたのは、極東の資本主義圏の最先端にいた日本が、共産軍の空からの侵攻を最も警戒していたためであった。国産化はT-33が79機にF-86Fが70機とし、それぞれ川崎航空機と新三菱重工が担当することが決定する。だが、当時のF-86Fの価格は約1億5000万円とされ、約7億円という当時の防衛庁に割り振られた年度航空機購入予算では賄えるわけもなく、すべてMSA援助に頼ることとなった。1955年6月に日米両国政府間で交渉が行われ、同年8月6日に防衛庁長官が新三菱重工に70機のノックダウン生産の内示書が手渡された。第1次生産分(ノックダウン生産)70機の製造は1956年3月11日に新三菱重工第5工場でスタートし、1号機は予定より早く完成し、8月9日に初飛行を成功させている。その後、第2次生産分で110機、第3次生産分で120機が製造された。また、上記の生産機分が揃うまでの処置として、アメリカ軍のF-86Fの供与も開始された。第1陣は築城基地にて9機が引き渡され、1956年には更に171機が供与される。ちなみにこれら供与された機体は主翼の形状が異なるなど、規格や仕様が同一でなく問題も多かったとされる(後述)。航空自衛隊では3種のF-86を運用した。1954年(昭和29年)に誕生した航空自衛隊の主力戦闘機として、翌1955年(昭和30年)にF-86F-25/-30が28機、F-86F-40が152機の計180機のF-86Fが米空軍から供与された。続いて「小麦資金」を財源とし、同年から1957年(昭和32年)まで三菱重工業にてF-86F-40を70機ノックダウン生産、続いて国産品を使用したライセンス生産第2次生産分で110機、ほぼ全ての部品を国産化した第3次生産分(生産できない部品は米国の無償援助)で120機、1961年(昭和36年)までに総勢480機が配備された。一方で、機数を急激に増やしたためパイロットや整備員の育成が追いつかずにいた。このため供与された機体の内の40機が、使用されずに木更津基地に格納された。だが、これが防衛費の無駄であると問題となり、1962年(昭和37年)2月から1964年(昭和39年)までに使われずにいた計45機を米国へ返還したため、空自はF-86Fを計435機運用する形となった。-25/30仕様の機体は後に三菱によって-40仕様に改修されるが、内18機はRF-86Fへの改造に際して-40仕様に改修されている(後述)1955年(昭和30年)12月1日に空自は、パイロット・整備員の育成と供与された機体が揃ってきたことから、浜松基地にF-86Fを装備するパイロット育成を第一任務とした、空自初の航空団である「航空団」(後の第1航空団)の編成が行われた。同時に浜松基地では、ジェット機運用のための整備工事が進められた。翌1956年(昭和31年)1月10日、供与機による訓練が行われていた築城基地にて第1飛行隊が新編され、同年8月24日に浜松基地へ移駐となる。8月25日には第2飛行隊も新編され、同年9月より国産F-86Fの引き渡しが開始された。10月11日には浜松基地にて第2航空団と隷下の第3飛行隊が組織される。その後、1961年(昭和36年)までに第4、第5、第6、第7、第8、第9、第10飛行隊が編成された。1958年(昭和33年)から供与が始まり、1968年(昭和43年)まで運用が行われた。F-104J/DJの導入によって余剰となるF-86Fのうち、-25/-30の中から18機が写真偵察機のRF-86Fに改造され、1961年(昭和36年)11月6日から1962年(昭和37年)3月にかけて引き渡された。計画自体は1953年まで遡り、当時アメリカ軍立川基地兵站部に勤務する日本人技師チームに、F-86Fをベースとした写真偵察機の製作「ヘイメーカー計画」の設計を命じた。その後、1960年に偵察機を欲していた航空自衛隊に、この「ヘイメーカー計画」の設計図がもたらされたのが始まりとなる。ただ、偵察機自体は以前から考えられていたものだが、資金面の問題から新造機の導入ではなく、現存機の改造という形になった。三菱重工小牧南工場にて、仕様などの違いから使用されずにいた初期供与機のF-86F 18機と整備教材用1機の計19機が「RF-86F」へと改造された。オリジナルのRF-86は主翼が-30仕様であり、この初期供与機も-30仕様の機体だったが、航空自衛隊では偵察機への改造に際して-40仕様に改修している。なお、機首部分にある銃口部は機関砲を撤去したため、威嚇用ダミーとなった。カメラは長焦点40インチの「K-22」を2台と、短焦点6インチの「K-17」の2種類を搭載する。主翼付け根付近左右にK-22の涙滴状フェアリングが、機首下部にK-17の四角いフェアリングが備わる。また、それぞれにカメラレンズのための窓とシャッターが設置されている。1961年12月に偵察航空隊第501飛行隊へ配備が行われた。RF-4Eの導入により異機種運用となったが、後に航空総隊司令部飛行隊に配置替えとなる。その航空総隊司令部飛行隊所属機も1979年10月に退役となり、全機のRF-86Fが退役した。1962年(昭和37年)から後継の主力戦闘機F-104Jが配備後は、F-86F飛行隊の解散が始まり、支援戦闘機として、要撃戦闘機としてのF-104Jの補完と、能力不足ながらロケット弾や爆弾を用いた対艦攻撃の任務についた。しかし、国産のF-1の配備が始まり、1977年(昭和52年)10月1日に第3飛行隊が、1980年(昭和55年)2月29日に第8飛行隊が、11月13日に第6飛行隊がF-1に機種転換をしたことにより、実戦部隊からは退いた。旧F-86F部隊のうち、支援戦闘機部隊となった第3・第6・第8飛行隊以外はすべて解隊された。最後までF-86Fを運用していた入間基地の総隊司令部飛行隊では、1982年(昭和57年)3月15日に引退セレモニーを実施し、全機退役した。
出典:wikipedia
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