日野春駅(ひのはるえき)は、山梨県北杜市長坂町富岡にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅である。標高は615メートル。駅名は開業当時の村名である、山梨県北巨摩郡日野春村に由来する。南側に駅舎のある地上駅。ホームは嵩上げされていない。ホームを2面有していて、うち駅舎から離れたほうの1面は駅舎側にのみ線路がある単式ホーム、駅舎側の1面は両側に線路がある島式ホームであり、計2面3線を有する。のりばは駅舎側から1番線、2番線、3番線で、1番線に小淵沢方面の列車が発着し3番線に甲府方面の列車が発着する。2番線は上下を問わず、当駅で特急など他の列車に追い越される列車が使用するが、中央本線の甲府駅 - 小淵沢駅間に待避線の設備がある駅は当駅と竜王駅しかないため、2番線に発着する列車は比較的多い。2つのホームの穴山方の端と駅舎を、一本の跨線橋が結び、駅舎は当駅の構内全体から見ると穴山方の端に近い場所に置かれている。当駅は甲府方面から中央本線の列車が七里岩と呼ばれる台地をのぼって行く途中にあるので、蒸気機関車時代にはこの駅で機関車に水を補給したが、この名残で当駅の3番線の長坂方、北側の脇にはそのための設備、給水塔が残されている。この給水塔は当駅の開業時に出来たもので下部がレンガ、上部がコンクリートで出来ている。タンクの直径はおよそ2メートル、容量はおよそ2万6千リットルであるが、甲府駅から上諏訪駅までの電化が成った2年後の1966年(昭和41年)にはその役目を終えることとなった。当駅の構内は広く、駅舎の長坂方の脇に側線が敷かれている他、給水塔の附近などには線路を撤去した跡も見える。かつては駅舎から離れたほうのホームの駅舎から離れた側にも線路が敷かれていたがこれも撤去された。駅舎は開業当初からのものを手直ししながら使っている。木造一階建ての建築で内部には待合所と駅事務室がある。待合所の内部には自動券売機が2台設置されている。2016年(平成28年)2月9日まではPOS端末が設置されていたが、現在は撤去されている。直営駅(小淵沢駅の被管理駅)。1日平均乗車人員は以下の通りとなっている。駅前の通りに沿って人家が散在する。駅を出て通りを越すとそこからすぐに急な斜面となり、その底に釜無川が流れている。駅を出て右側を見ると小さな公園が整備されており、そこから釜無川を眺めることができる。このあたりは日本の国蝶、オオムラサキの生息地である。6月から7月にかけてこのあたりではオオムラサキの飛ぶ様子が見られる他、駅の北東300メートルほどのところには北杜市オオムラサキセンターを中心に、オオムラサキを観察するための施設などが整備されたオオムラサキ自然公園があり、駅前からオオムラサキ自然観察歩道(遊歩百選に選定)がのびている。駅のスタンプもオオムラサキである。駅の北西にのびる曲がりくねった道を行き釜無川橋で釜無川を渡ると2キロメートルほどで北杜市武川町(旧武川村)の中心部に出る。この地域には日本三大桜の一つ、実相寺の神代桜がある。またこの駅から甲斐駒ヶ岳への登山口に向かうことも出来る。駅を出て左側、駅前広場の南東の隅には木立に囲まれて大きな石碑があるが、これは当駅の構内はずれにあって1914年(大正3年)12月に枯れてしまった信玄公旗掛松という古い松についての事件を記念したものである。この事件については後述する。日野春駅が出来る前からこの地には信玄公旗掛松(しんげんこう はたかけまつ)という古い松の木があった。甲斐の一本松とも呼ばれ、実際は17世紀半ばごろからのものであったが武田信玄が旗を掛けて休息した松であるという伝承もあり、名松として大切に扱われていた。1896年(明治29年)に中央本線のルートが決められここ日野春を線路が通ることが内定するが、この線路は松を掠めるようにして通ることとなっていた。このあたり一帯の地主で松の所有者でもあった清水倫茂という者が鉄道院に松を避けて線路を通すよう要請したが、これも断られ、結局1904年(明治37年)に線路は開通、日野春駅が開業した。前述のように日野春駅は蒸気機関車の給水駅として重要な役割を持っており、機関車が長時間この駅に停車した。そしてそのことも手伝って機関車の煤煙により松は弱っていき、1914年(大正3年)12月に枯れてしまった。清水倫茂は鉄道院に損害を賠償するよう申し入れたが拒否され、1917年(大正6年)遂に清水は鉄道院を提訴した。最終的に1919年(大正8年)3月3日、大審院が清水の訴えを認める判決(民録25輯356頁を参照)を出し、鉄道院が清水の求めた1500円ではないものの72円60銭を清水に支払うことで事件は解決を見た。国の力が強い当時にあってこれは画期的な判決であった。当駅の駅前広場にある石碑はこの事件を記念したもので、清水がその死去の3年前、1933年(昭和8年)に建立した。この石碑は松のあった場所に建立されたが、1969年(昭和44年)に中央本線の穴山駅から日野春駅までが複線化されたのに伴い、現在の駅前広場に移された。当駅は中央本線が韮崎駅から富士見駅まで開通した際、開業した。当時は韮崎駅と富士見駅との間にはこの駅と小淵沢駅しか設けられていなかった。七里岩の急勾配の途中にある駅で、蒸気機関車の給水をする駅としてこの駅は重要な役割を有していたが、1964年(昭和39年)8月23日には甲府駅から上諏訪駅までが電化され、その後蒸気機関車は中央本線を走らなくなったのでこの駅の給水駅としての役割は終わった。
出典:wikipedia
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