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板垣信方

板垣 信方(いたがき のぶかた)は、戦国時代の武将。武田信虎、晴信(信玄)の二代に仕えた。武田二十四将、武田四天王の一人。家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり緒戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。信方は武田氏の宿将として信虎の代から活躍したといわれ、天文9年(1540年)の信虎の信濃国佐久郡侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をしたという。天文10年(1541年)には信虎嫡男晴信(信玄)によるが信虎の駿河国追放が起きている。。『甲斐国志』によれば、晴信が家督を継ぐと、信方と甘利虎泰は武田家最高職の「両職」に任じられたという。同11年(1542年)7月、晴信は高遠頼継と結んで諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、頼重は板垣郷東光寺で自害させられた。同年9月、諏訪家惣領職を望む頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落した。晴信は直ちに信方を先陣とする救援の軍を送り、安国寺の戦いで頼継を打ち破った。『高白斎記』に拠れば、高遠頼継を追い藤沢頼親を屈服させた晴信は天文12年(1543年)4月に信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じ、翌5月には上原城を整備して入部している。なお、信方はこれに先んじて諏訪・佐久両郡において判物による所領宛行を行っているが(「千野家文書」)、この際の所領宛行は後に再安堵されている点から仮約束的なものであったと考えられている。諏訪支配を担当した信方の立場については『神使御頭之日記』や『甲陽軍鑑』においては「郡代」の呼称が用いられ「諏訪郡代」とされているが、永禄8年(1565年)「諏方神者祭祀再興次第」においては「諏方郡司」の呼称が用いられている点が指摘される。天文14年(1545年)、晴信は高遠城を攻略し、高遠頼継は没落した。続いて晴信は再び背いた藤沢頼親の福与城を攻めるが頼親は信濃守護小笠原長時と結んで抵抗した。信方は藤沢氏・小笠原氏に与する龍ヶ崎城を攻め落とし、孤立した頼親は降伏した。天文16年(1547年)閏7月、晴信は信方率いる諏訪衆とともに大軍で佐久郡に侵攻し、志賀城の笠原清繁を包囲した。関東管領上杉憲政は金井秀景に西上野衆を率いさせ救援の軍を差し向けた。晴信は信方と甘利虎泰に別動隊を編成させて迎撃にあたらせる。8月6日、信方は小田井原の戦いで関東管領軍を撃破し、敵将14、5人、兵3000を討ち取る大勝をおさめた。救援の望みを失った志賀城は落城し、晴信は佐久郡の平定を完了する天文17年(1548年)2月、晴信は村上義清を討つべく小県郡へ出陣。同2月14日の上田原の戦いで武田軍は敗北し、信方は甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門と共に討死した。信方の死後、家督は嫡男の信憲が継いだが、不行跡のために武田信玄によって武田家から追放され、のちに誅殺された。これにより板垣家の嫡流は一旦断絶したが、のち同族の於曾氏出身の左京亮信安が、板垣氏再興を武田信玄に願い出て承認され、嫡流を継いだ。

出典:wikipedia

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