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山本一義

山本 一義(やまもと かずよし、1938年7月22日 - 2016年9月17日)は、広島県広島市出身のプロ野球選手(外野手)・監督、野球評論家。父親は中国新聞社の人事部長。広島市天満町で生まれ、原爆投下時は広島市郊外の三入へ疎開していて自身は無事だったが、父は通勤途中に被爆した。小学校5年の時、皆実町に引っ越し。1950年1月15日の広島カープ結団披露式(広島西練兵場・現在の広島県庁付近)には父に連れられ見に行く。広島市立翠町中学校から、広島商業に進み、超高校級スラッガーとして鳴らした。3年夏の県予選では13打席で10回敬遠され、やっと勝負してきた初球をホームランしたという逸話も残る。1956年には同期の上土井勝利投手(広島)を擁し、春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では1回戦で県岐阜商の清沢忠彦投手(慶大-住友金属)に抑えられ惜敗。夏の選手権でも2回戦(初戦)で済々黌に敗れる。進学した法政大学でも1年生からレギュラー。東京六大学リーグでは4年時の1960年春季リーグで、四番打者、主将として活躍。同期の山崎正之の好投もあり、法大に12年ぶり7度目のリーグ優勝をもたらした。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で同志社大を破り初優勝を飾る。法政大学野球部が優勝争いの常連となるのはこの年から。リーグ史上初めて4年間8シーズン全試合フル出場を記録している。ベストナイン選出2回。山崎以外の大学同期に鈴木孝雄がいた。山本浩二は東京六大学の中継を見て同姓同郷の山本一義に憧れて法政に進学したという。プロの全球団から誘いを受け、広商の大先輩で高校時代から目をかけてもらった鶴岡一人監督率いる南海ホークスに入るつもりだったが、それを父に話すと酷く落胆。また当時の通産大臣でカープ後援会の名誉会長だった池田勇人から説得され1961年、地元の広島カープに入団した。プロでも1年目からレギュラーを獲得し巧打の4番打者として活躍。タイトル獲得は無かったが、打率ベストテンには5回、3割2回マーク。低迷期のチームにあって地元出身の生え抜きのスター選手として大きな役割を果たし、チームの主将を務め、コーチ兼任となった1975年の初優勝を見届けて現役引退。引退後も広島に残って一軍打撃コーチ(1976年 - 1977年)→二軍打撃コーチ(1978年 - 1979年)を務め、監督の古葉竹識と共に高橋慶彦・山崎隆造を球界の先駆けとなるスイッチヒッターに育成。大野豊のプロ野球入りは、出雲市で開催された山本と池谷公二郎のカープ野球教室が切っ掛け。広島退団後は監督の西本幸雄の招聘で1980年から1981年まで近鉄バファローズ一軍打撃コーチを務めた。1981年オフ、ロッテオリオンズの重光武雄オーナーが旧知の鶴岡に次期監督を相談、大学の先輩である鶴岡の推薦により監督に就任。1982年は落合博満の三冠王獲得に尽力した。1983年は球団史上初の最下位となり解任されたが、シーズン後半は、高沢秀昭やスイッチヒッターに転向させた西村徳文ら、若手を我慢して起用して育てた。退任後は鶴岡の計らいで1984年から1985年まで南海ホークス一軍打撃コーチを務め、山本和範・吉田博之らを育てた。南海退団後は関西テレビ(1986年 - 1988年)・中国放送(1989年 - 1990年)の野球解説者、サンケイスポーツ(1986年 - 1992年)の野球評論家、カープアカデミーコーチ(1991年 - 1993年)を経て、1994年から1998年まで古巣・広島の一軍チーフ兼打撃コーチを務めた。金本知憲・木村拓也の育成も有名だが、キャンプで打球が前に飛ばなかったルイス・ロペスをセ・リーグ史上ただ一人、来日1年目から2年連続3割100打点(打点王)を獲らせるなど多くの強打者を育成した。金本は「三村さんと山本一義さんは野球界の恩人」と著書に記している。同郷で2学年下の張本勲とは中学時代からの知り合いで、中学時代には対戦経験(投手・山本相手に張本が三振)がある他、山本が張本に広商入学を誘ったり、山本のロッテ監督就任を先述の鶴岡だけでなく張本(山本と入れ替わる形で現役引退)も推薦したという。生一本の性格で現役時代から村山実とウマが合い、村山が阪神監督に復帰した1988年、山本に入閣を打診したが、山本が病気の父親の付き添いで病院に寝泊まりして連絡が取れず、時間切れで実現しなかったという。広岡達朗(広島コーチ時代に山本を指導)による東北楽天ゴールデンイーグルスの再建案でも打撃コーチに推されていた。広岡私案は野村克也の監督就任でご破算になったが、高い打撃理論と熱血指導で知られた。晩年はプロ野球マスターズリーグに所属しながら、母校・法大の臨時コーチ、全日本少年硬式野球連盟大会会長などで後進の指導にあたる他、日刊スポーツで評論を行っていた。2016年9月17日、尿管癌のため広島市内の病院で死去。78歳没。25年ぶりにリーグ優勝を果たしたカープに配慮した本人の意志により公表は10月3日まで控えられた。

出典:wikipedia

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