赤瀬川 原平(あかせがわ げんぺい、1937年3月27日 - 2014年10月26日)は、日本の前衛美術家、随筆家、作家。本名、赤瀬川克彦。純文学作家としては尾辻 克彦(おつじ かつひこ)というペンネームがある。神奈川県横浜市中区本牧町生まれ。愛知県立旭丘高等学校美術科卒業。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵学科中退。兄は直木賞作家の赤瀬川隼。姉の赤瀬川晴子は帽子作家。また、外交官の西春彦は父のいとこにあたる。姪(隼の長女)は『人麻呂の暗号』の著者である藤村由加の一人。2006年4月より、武蔵野美術大学日本画学科の客員教授を務めていた。父親は鹿児島県出身で倉庫会社勤務のサラリーマン。「赤瀬川骨茶」という俳号で俳句も詠んだ。母親は東京府出身。原平は6人兄弟姉妹の下から2番目。兄弟はみな芸術的なことが好きで、原平はとくに絵が好きだった。一家は父親の転勤であちこちに移り、原平は幼稚園時代から大分県大分市で育つ。寝小便の癖がなかなか治らず、完全に治ったのは中学3年だった。「おねしょは中学2年生まで毎晩のようにしていて、自分の運命を憎み、死んでしまいたいと思っていた」というコンプレックスが自意識を目覚めさせたと書いている。1945年、大分市立金池小学校3年生の時に敗戦。父親は職を失い、母親の内職を一家で手伝う。小学生時代、絵が好きな雪野恭弘(のち画家)と親友になる。雪野とは、大分市立上野ヶ丘中学校時代、そして、武蔵野美術学校でも同窓として交際が続く。中学時代の転校生には、のちにソ連問題の専門家になった木村汎(山村美紗の弟)がいる。5歳上の兄・赤瀬川隼と磯崎新が旧制中学の同級生で、磯崎が赤瀬川家によく遊びに来ていた。原平が中学生の時、磯崎が創立していた絵の同好会「新世紀群」に雪野とともに参加。ここで4歳年上の吉村益信と知り合う。大分県立大分舞鶴高等学校に進学して2ヶ月後、一家は名古屋に引越しし、愛知県立旭丘高等学校美術科に転校。油絵を習う。同級生に荒川修作、岩田信市(のち画家、演出家)がいた。吉村益信の勧めで、吉村が進学した武蔵野美術学校油絵科に進む。だが、仕送りは2ヶ月でとまり、サンドイッチマンのアルバイトで食いつなぐ。アルバイト仲間からは、本や映画について学んだ。1956年には、上京していた姉・晴子と一緒に住み、姉のさそいで、砂川基地反対闘争に参加する。「心はいつもアヴァンギャルド」といい、1958年、第10回読売アンデパンダン展に初出品。以後、1964年に同展が終了するまで出品を続ける(詳細は『反芸術アンパン』(ちくま文庫)を参照)。1959年には、数年来の持病の十二指腸潰瘍の手術のため名古屋に戻る。そこで伊勢湾台風に遭遇し、九死に一生を得る。1960年、吉村の誘いで「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加。赤瀬川は荒川修作をグループに紹介し、参加させた。篠原有司男の母親に姓名判断をしてもらったところ、「下の名前の画数が足りない」といわれ、「克彦」よりさらに画数が少ない「原平」をペンネームとして採用。赤瀬川は「ヴァギナのシーツ」など、ゴム・チューブを素材としたオブジェを製作した。1962年には、ポスターカラーで描いた絵画「破壊の曲率」でシェル美術賞に入選。1963年、高松次郎・中西夏之とともにハイレッド・センター(3名の頭文字により命名)を結成。「首都圏清掃整理促進運動」などのパフォーマンスを行う(詳細は『東京ミキサー計画―ハイレッド・センター直接行動の記録』 (ちくま文庫)を参照)。赤瀬川は個人としても、扇風機などの身の回りの品物を包装紙で包む「梱包作品」を制作。このコンセプトは最終的に、缶詰のラベルを缶の内側に貼って宇宙全体を梱包したと称する「宇宙の缶詰」に至る。この頃、ナムジュン・パイク、オノ・ヨーコ、横尾忠則らとも知り合っている。「とくにパイクは、ハイレッド・センターのよき理解者だった」と赤瀬川は「東京ミキサー計画」で書いている。千円札を詳細に観察し、肉筆で200倍に拡大模写した作品「復讐の形態学」(殺す前に相手をよく見る)を発表。赤瀬川はさらに「千円札の表だけを一色で印刷」したものに手を加えたものを作品とし発表する。1965年、これが通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴される。弁護人には瀧口修造といった美術界の重鎮たちが名を連ね、話題となった。1967年6月の東京地裁の一審で「懲役3年、執行猶予1年、原銅版没収」の判決。上告ののち1970年に執行猶予つきの有罪確定。その後、前衛芸術からは身を引くようにしていく。『ガロ』1970年6月号に掲載された「お座敷」で漫画家デビュー。1970年代から『朝日ジャーナル』(朝日新聞社)や『月刊漫画ガロ』(青林堂)などで漫画家として活動した。つげ義春の「ねじ式」のパロディである予告漫画「おざ式」(『ガロ』1973年7月号掲載)などを発表した。『朝日ジャーナル』に連載した『櫻画報』では「櫻画報こそ新聞であり、この周りにある『雑誌状の物』は櫻画報の包み紙である」と主張。最終回(1971年3月19日号)では、「アカイ/アカイ/アサヒ/アサヒ」という国民学校時代の国語の教科書の例文をパロディ化し、挿絵の水平線から昇る太陽を『朝日新聞』のロゴに描き換えたイラストを描いた。ヌードの表紙と赤瀬川の「櫻画報」が読者に誤解を与えかねないことを理由として、当該号は自主回収された。この事件で編集長が更迭された他、朝日新聞出版局では61名の人事異動がなされ、『朝日ジャーナル』自体も2週間にわたって休刊した。その後、『櫻画報』の連載は『ガロ』等で復活し、他にも様々な雑誌を「雑誌ジャック」した。また、松田哲夫、南伸坊とともに結成した「櫻画報社」で、「論壇の人間関係図」等を発表した。篠原勝之の紹介で、中央公論社の文芸雑誌『海』の編集者だった村松友視と知り合い、篠原、南伸坊、糸井重里らとともに毎月村松宅に押しかけ「ムラマツ宴会」と称する飲み会を行った。そうした縁で、村松から「純文学を書いてほしい」と依頼され、『海』に赤瀬川原平名義で「レンズの下の聖徳太子」を発表。しかし理屈っぽすぎたせいか、あまり反響はなかった。つづいて、『婦人公論』で赤瀬川にカットの仕事を依頼していた編集者田中耕平に「もっと気楽に書いたら」と助言され、テーマのない身辺小説「肌ざわり」を執筆。名義はペンネームの「尾辻克彦」とする。1979年9月に中央公論新人賞を受賞し、雑誌『中央公論』に掲載された。『文學界』1980年12月号に発表された短編「父が消えた」で、1981年、第84回芥川賞を受賞。「前科持ち・元犯罪者」が一転して「芥川賞作家」となり、周囲の扱いが激変したという。1983年、「雪野」で野間文芸新人賞を受賞。裁判の途中に結婚し、裁判の後に赤瀬川は41歳で離婚して幼少の娘と父子家庭を営んでいた(のちに美学校の生徒だった女性と再婚している)。「娘・胡桃子と父親の私」の2人のみが登場する作品が多かったため、中公新人賞の選考委員会では「この作家はホモではないか」という意見がでたという。この頃嵐山光三郎の紹介で深沢七郎とも交際があり、深沢のラブミー農場で「芥川賞受賞のお祝いパーティー」をしてもらった。その後、純文学系の文筆活動を尾辻克彦名義で行い、尾辻・赤瀬川の「共著」などを出したりしたが、1994年に発表された小説集『ライカ同盟』を最後に尾辻名を使用することはなくなった。近年、「尾辻克彦」名義で刊行された書籍が、文庫化や再刊時に「赤瀬川原平」名義に変わることがほとんどである。ただし、2005年の河出文庫『父が消えた』『肌ざわり』、2012年の文春文庫での『父が消えた』の電子書籍化など、いまだに尾辻名義が使われる場合もある。1972年、南伸坊、松田哲夫とともに四谷を歩行中、ただ昇って降りるだけの意味不明な階段を発見。これは、階段としてきわめて純粋であった(ある意味で純粋芸術に似ており、まるで「もの派のようだと言って赤瀬川らは興奮した)。「四谷の純粋階段」、また「四谷怪談」のしゃれで「四谷階段」と称した。その後、いくつかの類例が見つかり、また「美学校・絵文字工房」で紹介すると、生徒からも同様の発見が多く集まった。当時、読売ジャイアンツに高額の契約金で雇われたゲーリー・トマソン選手が役に立たなかったことにちなみ、「超芸術トマソン」と命名された。詳細はトマソンを参照。末井昭編集長の『写真時代』の連載を通じて普及活動を行った。また、トマソンやマンホールの蓋、看板などを発見し考察する、「路上観察学会」を創設。1987年、『東京路上探険記』は講談社エッセイ賞を受賞。後年「路上観察学会」会員の藤森照信(建築史家・建築家、東京大学教授)にみずからの住まいの設計を任せ、屋根に韮を生やした「ニラハウス」を建てた。1967年、漫画評論家石子順造の紹介で、当時東京都立大生だった松田哲夫(のちに筑摩書房に入社して編集者となる)と出会って意気投合。松田とは、マッチ箱のラベル絵の収集、宮武外骨の雑誌の収集、今和次郎の考現学の本の収集などを熱中して行う。松田はのちに筑摩書房でちくま文庫を創刊。赤瀬川の著作も多数収録されている。松田とは1985年に『学術小説 外骨という人がいた』を白水社から刊行して宮武外骨リバイバルを仕掛けている。1986年には、赤瀬川と吉野孝雄が編集した『滑稽新聞』の再編集復刻版を筑摩書房より刊行した。「千円札裁判」の事務局長を務めた川仁宏(現代思潮社)が創設した「美学校」では、1970年から1986年まで(1971年は中断)、「絵・文字工房」の講師をつとめた(初期は松田哲夫が助手。のち、元生徒の南伸坊にかわる)。講義内容は赤瀬川がその時点で熱中していたもの-「マッチのラベル絵」「宮武外骨」「考現学」「新聞の尋ね人案内」「トマソン」「1円で何が買えるか」など-であった。その教室からは、平口広美、南伸坊、渡辺和博、泉晴紀、久住昌之、森伸之、上原ゼンジなどのクリエイターが輩出している。なお、南の「伸坊」というペンネーム及び渡辺和博のあだな「ナベゾ」は、宮武外骨の『滑稽新聞』の絵師に由来するものである。また1978年には「全日本満足問題研究会」(赤塚不二夫、赤瀬川、奥成達、高信太郎、長谷邦夫)の一員としてLP「ライブ・イン・ハトヤ」に参加。1989年には、勅使河原宏と共同脚本を担当した映画『利休』で、日本アカデミー賞脚本賞を受賞。1993年には『仙人の桜、俗人の桜』で、JTB旅行文学大賞を受賞。1996年『新解さんの謎』では、三省堂の『新明解国語辞典』を一人の個性的な人物が著した“読みもの”に見立て、話題を集めた。企画を提案した夏石鈴子はSM嬢として登場している。1998年『老人力』では、高齢化社会が進む中で、老人への新しい視点(「老人力」とは「忘れる力」であり、「耄碌した」「ボケた」と言わないで「老人力がついてきた」といい、古いものを「中古美品」として大切にした)を提供した(「老人力」という言葉は、もともと藤森照信が還暦を過ぎた赤瀬川に対して使った言葉であった)。著作『老人力』は筑摩書房はじまって以来最高のベストセラーとなり、「老人力」は同年の流行語大賞を受賞。弱点を味わいと考え、「貧乏性」研究から『超貧乏ものがたり』を書き、優柔不断も『優柔不断術』を書いている。その他にも『月刊天文ガイド』で10年以上に渡る連載を行ったり、カメラ(特に中古カメラやステレオカメラ)に関する著作を多数著し、ライカ同盟や脳内リゾート開発事業団を結成するなど、その活動は幅広い。「ステレオ茶会」も開いていた。また、猫好きでもあり、猫についてのエッセイ集、写真集なども刊行している。2011年に胃癌による全摘手術が行われて以降、脳出血や肺炎などで体調を崩しており、療養中であったが、2014年10月25日夜に容体が悪化。翌10月26日、敗血症のため東京都町田市の病院で死去。。2014年末には追悼号となる『アックス』102号が青林工藝舎より刊行された。「なるほどそうだったのかと思えるのが死の瞬間」と生前語っていた。多くの「ナンセンス」で「ユーモラス」な組織の結成に関わっている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。