飛鳥文化(あすかぶんか)は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。仏教の百済からの公伝は、538年(宣化天皇3年)または552年(欽明天皇13年)とされている。『日本書紀』は欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が金銅釈迦仏像、経典などを天皇に献上したと記す。一方、『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺縁起』はこれを欽明天皇7年の戊午年(538年)のこととする。『書紀』と『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』とでは天皇の在位年代が異なっており、上記の戊午年は『書紀』では宣化天皇3年にあたる。現在では仏教公伝を538年とする説が一般的だが、異説もある(詳細は「仏教公伝」の項を参照)。当時仏教受容の先頭を切ったのは蘇我稲目であり、百済の聖王が日本の朝廷の伝えてきた金銅釈迦像・経典若干卷のうちの仏像を小墾田(おはりだ)の家に安置し、さらに向原(むくはら)の家を清めて向原寺(こうげんじ)とした(『日本書紀』)。仏教の摂取と流布に大いに貢献した蘇我氏とこれに反対する物部氏との対立(崇仏論争)はのちに蘇我馬子と物部守屋との間での戦乱を招く。これに勝利した蘇我氏と蘇我氏系大王のもと、王権の本拠地である飛鳥京を中心に仏教文化が発展する。飛鳥仏教は百済と高句麗の仏僧によって支えられていた。595年(推古3)に高句麗僧・慧慈、百済僧・慧聰が来朝・帰化し、翌年には飛鳥寺に住まうようになる。7世紀後半になると、中央政府が、地方の豪族への寺院建築を奨励したために、全国的に寺院の建築が活発化する。日本最古の本格的寺院である飛鳥寺や四天王寺は、氏寺として創建されたが、後には官寺(天皇が発願し、国家が維持する寺院)に準ずる扱いを受けた。造寺・造仏の技術者は主として朝鮮からの渡来人やその子孫達であった。また、594年(推古2)に仏教興隆の詔が下されたのを受けて諸臣連達が、天皇と自己の祖先一族のために競って私寺(氏寺)を造り始めた。仏像の材質は木造(ほとんどがクスノキ材)と金銅造(銅製鍍金)がある。代表的遺品として下記がある。飛鳥寺本尊、法隆寺金堂釈迦三尊像などに代表される様式を止利式といい、杏仁形の眼、仰月形の鋭い唇、アルカイック・スマイル、左右対称の幾何学衣文、正面観照性の強い造形などを特徴とする。かつては、止利式の仏像が北魏様式、法隆寺百済観音像などにみられる様式が南梁様式(南朝様式)とされたこともあった。しかし、南朝の仏像の現存するものが少ないこと、日本へ仏教を伝えた百済と北魏とは相互交流が乏しかったことなどから、止利式を北魏様式、百済観音を南朝様式、と明快に割り切ることは疑問視されている。
出典:wikipedia
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