足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍足利義教の3男で庶子として生まれる。次期将軍として期待されていた同母兄の足利義勝が政所執事であった伊勢貞国の屋敷で育てられたのに対して、その可能性が低かった義政は母方の一族である公家の烏丸資任の屋敷にて育てられた。嘉吉元年(1441年)、父が嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された後、兄の義勝が7代将軍として継いだが、嘉吉3年(1443年)に義勝も早世したため、義政は管領の畠山持国などの後見を得て、8歳で将軍職に選出され、元服を迎えた文安6年4月29日(1449年)に将軍宣下を受けて同日のうちに吉書始を行って宮中に参内、正式に第8代将軍として就任した。足利義政 征夷大将軍の辞令(宣旨)(「康富記」)(訓読文)当初の義政は祖父の3代将軍足利義満や父の政策を復活させようと試み、鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏と関東管領上杉氏との大規模な内紛(享徳の乱)に対しては成氏追討令を発して異母兄の堀越公方足利政知を派遣するなどして積極的な介入を行った。更に政所執事伊勢貞親を筆頭とする政所・奉行衆・番衆を中心とする将軍側近集団を基盤として守護大名の勢力に対抗して将軍の親裁権強化を図ろうとした。この時期の室町幕府を「義政専制」体制にあったとする説も存在している。だが、三魔と呼ばれる乳母の今参局(御今)、育ての親とも言える烏丸資任、将軍側近の有馬持家(おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく3人を三魔と称した)や母・重子と正室・富子の実家の日野家、有力な守護大名等が政治に介入していき、将軍としての政治の主導権を握ることは困難を極めた。それを思い知らせる事件が何度か起きている。当時の守護大名では家督相続に関する内紛が多く、義政ははじめこれらの相続争いに積極的に介入したが、加賀守護であった富樫氏の内紛(加賀両流文安騒動)では管領細川勝元の反対を受けて義政の意のままに相続権を動かすことができなかった。宝徳3年(1451年)にも尾張守護代であった織田郷広の復帰を図ったが、尾張・越前・遠江守護である斯波義健や守護代甲斐常治の反対を受けて義政の意のままに動かすことはできなかった。一方、享徳3年(1454年)に畠山氏のお家騒動が起こり、8月21日に山名宗全と細川勝元が畠山持国の甥畠山政久を庇護して持国と子の畠山義就を京都から追い落とした。義政はこの問題で義就を支持、29日に政久を匿った勝元の被官を切腹させ、11月2日に宗全退治を命令、翌3日の宗全隠居で撤回、12月6日に宗全が但馬に下向した後義就が13日に上洛、義政と対面して家督相続を認められ、政久は没落した。義政の義就支持は、細川氏・山名氏に対抗するため、尾張守護代問題で今参局を介して持国を抱き込んだからで、宗全の退治命令も義就復帰の一環とされ、同時に嘉吉の乱で宗全に討伐された赤松氏の復興を狙ったとされる。赤松則尚は11月3日に播磨に下向しているが、翌享禄4年(康正元年、1455年)5月12日に宗全に討たれている。同年に御教書を発給、この頃から親政を始めたとされる。享徳4年に享徳の乱が発生、関東管領上杉房顕・駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定らを出陣させ、幕府軍は鎌倉を落とし、成氏は古河に逃れて古河公方を名乗った。関東は膠着状態となり、長禄2年(1458年)に異母兄の政知を鎌倉公方として下向させたが、政知は鎌倉へ入れず堀越に留まり、堀越公方となる。また、義就が上意と称して度々大和に軍事介入したため、次第に疎遠となり、長禄3年(1459年)に政久が赦免され、政久が死去した後は弟の政長が勝元に擁立され、宗全も復帰したため、長禄4年(1460年)に家督を義就から政長に交代させた。義就は抵抗したが、寛正3年(1462年)に吉野へ逃れた。長禄2年、不知行地還付政策で寺社本所領の回復及び守護と国人の繋がりの制限を図ったが、それが原因の1つとなり甲斐常治と斯波義敏が越前で長禄合戦を引き起こした。義敏は享徳の乱鎮圧のために関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前守護代であった常治の反乱の鎮圧を行ったため、義政は抗命を理由に斯波氏の当主交代を行い、義敏の子松王丸(義寛)へ当主を交代させた。長禄合戦は常治が勝利したが、直後に常治も没し、関東派遣は見送られた。赤松氏は則尚が宗全に討たれた後も復帰を狙っていたが、長禄元年(1457年)に長禄の変で後南朝から神璽を奪還、この時は奪い返され失敗したが、翌2年に再び神璽を奪い、8月30日に朝廷に安置、義政はこの功績で10月14日に赤松政則を北加賀の守護に任命、赤松氏を復帰させた。8月9日に宗全が赦免されているが、これは勝元と相談の上で行った懐柔策とされる。文正元年(1466年)7月28日に琉球国王の来朝使者である芥隠承琥が足利義政邸で直接に謁見されており、庭先に席を設けて、その上で三拝した。礼物も「進物」と呼ばれていた(『斎藤親基日記』)(『蔭凉軒日録』)。義政には正室の日野富子との間に男子があったが、長禄3年(1459年)に早世してしまった。すると富子は実子の早世は今参局が呪詛したものであるとして、彼女を琵琶湖の沖ノ島に流罪に処した。このため、以後は富子や伊勢貞親・季瓊真蘂ら将軍側近の権勢が強まった。また、飢饉や災害が相次ぎ、特に寛正2年(1461年)の寛正の大飢饉は京都にも大きな被害をもたらし、一説では賀茂川の流れが餓死者の死骸のために止まるほどであったとされる。このような状況の中、義政は邸宅や日本庭園の造営などや猿楽、酒宴に溺れていった。殊に寛正の飢饉の間に、それを意に介さずに花の御所(京都市上京区)を改築し、後花園天皇の勧告さえも無視したことは悪名高い。寛正4年(1463年)に母重子が没したため、畠山義就と斯波義敏父子を赦免した。但し、追討令解除と身の安全の確保に過ぎず、当主復帰は認められなかった。寛正5年(1464年)に勧進能を行い、同年に隠居を考えるようになり、富子との間に嫡子が恵まれなかったため、実弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ、養子として次期将軍に決定した。ところが、寛正6年(1465年)に富子に男児(後の足利義尚)が誕生した。富子は義尚の将軍後継を望み、政権の実力者であった山名宗全に協力を頼んだ。一方の義視は管領の細川勝元と手を結んだ。この足利将軍家の家督継承問題に対し、義政はどちらにも将軍職を譲らず、文化的な趣味に興じるなど優柔不断な態度を続けた。一方で、義視を養子にした理由は大御所として政治の実権を握る意図もあったとされ、義尚誕生後も義視の立場を変えなかったのは義尚が成長するまでの中継ぎにするためともされる。寛正2年(1461年)に斯波氏の家督交代を行い、松王丸を廃嫡して渋川義鏡の子義廉を当主に据えた。この行為は堀越公方政知の執事である義鏡を斯波氏当主の父という立場で斯波氏の軍勢動員を図ったのだが、その義鏡は関東で上杉氏と対立、失脚してしまったため、義廉から義敏に交代して改めて関東政策を実行しようとしたが、反発した義廉は山名宗全と畠山義就を頼り、大内政弘も宗全と連携する一方、政弘の元に落ち延びていた義敏は伊勢貞親と季瓊真蘂の画策で寛正6年(1466年)12月30日に上洛して義政と対面、義政は翌文正元年(1466年)7月23日に義廉に出仕停止と屋敷の明け渡しを命じて義敏を家督に据え、8月25日に越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与えた。7月30日に河野通春を援助して幕府から追討命令を受けていた大内政弘も赦免したが、これは大内氏と斯波氏の引き入れを図ったとされる。だが、9月6日に武衛騒動をきっかけに発生した文正の政変によって守護大名達の圧迫を受けた貞親・真蘂・義敏らは逃亡、義政側近層は解体に追い込まれ、手足となる家臣を喪失した義政は完全に政治への意欲を失っていった。12月に畠山義就が宗全の呼び出しで上洛、応仁元年(1467年)正月に義政に家督復帰を許され、反発した政長と合戦に及んで遂に応仁の乱が起こる。戦乱は後南朝の皇子まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した。8月になって後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて花の御所(室町殿)に避難すると、義政は急遽御所を改装して仮の内裏とした(上皇は直後に出家して法皇になる)。以後、文明8年(1476年)に花の御所が焼失して天皇が北小路殿(富子所有の邸宅)に御所を移すまで、天皇と将軍の同居と言う事態が続くことになる。天皇家と足利将軍家の同居と言う事態は様々な波紋を生み出した。後花園法皇は天皇在位中より義政と蹴鞠の趣味を通じて親交が厚かったが、同居によって公武関係に引かれていた一線が崩れ去り、義政と富子は度々内裏に充てられていた部屋において法皇や天皇とともに宴会を開いた。応仁の乱の最中に義政は度々「大飲」を繰り返したとされているが、実はその場に常に共にしていたのが後土御門天皇であった(『親長卿記』文明3年11月25日・同4年4月2・3日条、『実隆公記』文明4年4月2日条など)。なお、この間の文明2年12月に後花園法皇が崩御しているが、その最期を看取ったのは義政と富子であり、義政は戦乱中の徒歩での葬列参加に反対する細川勝元の反対を押し切って葬儀・法事に関する全ての行事に参列した。義政は当初は中立を貫き停戦命令を出したが、6月に東軍の勝元に将軍旗を与え、西軍の宗全追討を命令、義視が西軍に逃げ込んだこともあり、東軍寄りの態度を明確にした。また、西軍の有力武将朝倉孝景の寝返り工作も行い、文明3年(1471年)5月21日に越前守護職を与える書状を送っている。文明5年(1473年)、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、義政は12月19日に将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居した。隠居後の文明8年(1476年)に花の御所が京都市街の戦火で焼失、小川殿に移ったが、富子と義尚が小川殿へ移ると、義政は富子の居所を造営するが、文明13年(1481年)に富子から逃れるように長谷の山荘に移り、翌年から東山山荘の建築を本格化させる が、諸大名からは石の献上はあっても、費用の取り立ては思うようにいかず、京都がある山城国の公家領・寺社領からの取り立てで補うこととなった。文明9年(1477年)に応仁の乱は終わるが、義尚とはこの頃から意見の食い違いが起こり、富子とも仲が悪くなっていく。当時は室町殿(義尚)に対し東山殿(義政)と呼ばれ、政治の決定機関がふたつに分裂していたようである。そのためか、以後はさらに文化的な活動に拍車がかかった。文明14年(1482年)には東山山荘(東山殿)の造営をはじめ、祖父義満が建てた金閣をベースにした銀閣などを建てた。また同年には、足利成氏と和睦し、享徳の乱を終結とした。文明16年(1484年)には赤松政則と浦上則宗の対立を仲介して和解へ導き、文明17年(1485年)4月には後土御門天皇直々に御料所からの年貢の滞りの相談を受けて自腹で5000疋を用立てて皇室の財政難を救うなど、依然として影響力の大きさを示していたが、5月に義尚の側近奉公衆と義政の側近奉行衆が武力衝突する事件が起こるなど、義政と義尚の対立は激化する。このため6月、義政は剃髪して出家し、事実上政務から離れることを決めた。嫡男の足利義尚(改め義煕)が延徳元年(1489年)に六角討伐の陣中で死去したため、やむなく政務の場に復帰することを決意するが、日野富子が義政の復帰に反対し、さらに義政自身も中風に倒れて政務を執ることが困難となったため、美濃の土岐成頼の下に亡命していた義視と和睦し、甥(義視の嫡男)の義材(のちの義稙)を自らの養子に迎えることで第10代将軍に指名して後事を託した。延徳2年(1490年)1月7日、銀閣の完成を待たずして死去。享年55(満54歳没)。文化面では功績を残している。庭師の善阿弥や狩野派の絵師狩野正信、土佐派の土佐光信、宗湛、能楽者の音阿弥、横川景三らを召抱え、東山の地に東山殿を築いた(後に慈照寺となり、銀閣、東求堂が現在に残る)。この時代の文化は、金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化に対し、銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。初花、九十九髪茄子など現在に残る茶器も作られた。義教の死後中断していた勘合貿易を宝徳3年(1451年)に復活させた。以後貿易は16世紀半ばまで続き、経済交流と文化発展に寄与することとなった。これらの勘合貿易の復活、義政から実権を奪った守護大名や側近の幕府官僚の財政再建策が功を奏して、義政の治世前半は義満の時代と並んで、幕府財政は安定期であったとされている。だが、皮肉にも実権を奪われたことで政務への関心を失った義政はその成果を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やしてしまい、応仁の乱後の財政難の原因を作ってしまった。その後、貿易の実権は細川家や大内家によって握られ、将軍家は経済的にも衰退した。永井路子は、義政の先々代の足利義教の独裁と末路を考慮して、周囲の人々は義政を「死なぬように、生きぬように」お飾りとして育てた。義政の人格と治世は、そうした歪んだ教育の結果だと評している。史料に見える義政は将軍としてのスケジュールには従順であり、永井はそこから源実朝によく似た人物だと義政を評した。歴史学者赤松俊秀は、「無能の烙印を押すのは可哀想だ。将軍として立派に行動しようとしたが、結果は幕府の衰退という失敗に終わってしまっただけ」と評している。また赤松は「将軍でありながら、彼ほど『人に抑えられた』人物はいないだろう」と指摘している。(※ > より右の人物は、>より左の人物から1字を賜った人物を示す。詳しくは該当項目の「偏諱を与えた人物」を参照のこと。)*「成」の読みは「しげ」。(*享徳2年(1453年)、「義成」から改名。)
出典:wikipedia
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